第67話【寂寞の街、君の雨に浸る】
「父さん……! 父さん!」
夜の通りを、ヒーローの声が追いかけた。
バスの側面には、ライゼカレーの広告がラッピングされていた。そこには大きく、あの懐かしい笑顔──ライゼの姿がある。
不意に目にした父の姿に、ヒーローは我を忘れたように走り出していた。
バスが曲がり角をすっと滑るように消えていく。遠ざかる後ろ姿が、まるで本当にライゼそのもののように思えた。
「父さん……!」
涙が頬を伝い、視界が滲む。
ヒーローはふらつく足取りのまま、バスの背を追い続けた。すれ違う人々が振り返る。 中には嘲るような笑みを浮かべる者もいた。
だがヒーローは、誰の目も気にしなかった。見ているのは──あの一瞬の、父の笑顔だけ。
想いが、こらえきれずにあふれてきた。
「父さんが……いなくなって、ハァッ……ハァッ……」
言葉が、心の底から震え出す。
「思い出さないようにしてたのに……街のあちこちに父さんがいて……」
──ずっと、淋しかった。
ライゼが姿を消したあの日から、メディアも、街の広告も、どこもかしこも父の顔で埋め尽くされていた。
それを見るたびに、ヒーローの中の記憶が疼いた。何もかもが刺すように痛くて、けれど目を逸らせなかった。
「俺の心は……そんなに、強くないんだ……」
いつしか世間の話題は別のものへと移り変わり、あれほど賑わっていた広告も次第に姿を消していった。
それなのに、心の隙間は埋まらない。
むしろ、父の痕跡が減るほど喪失感は濃くなっていった。
優しかった。朝日のように、あたたかく眩しかった日々。
それらすべてが、遠ざかっていくような気がして──
そして──このバスを目にした。
「あ……会いたかったんだ……。ずっと、ずっと……淋しかった……!」
涙が止まらず、足が止まった。濡れた瞳で袖を拭いながら、ふと脇の路地に目をやる。
「あ……ああっ!!」
ヒーローの胸が、跳ねた。
──あの時。六歳の頃。
ここへ──確かにここへ来た。
【すごいよパパ! パパ! 見て!】
【どうだヒーロー!? パパは凄いだろう!】
【うん! 世界一のパパだよ!】
──あの頃にはなかった高層ビルが周囲を埋め尽くし、街の輪郭を塗り替えていた。
その隙間に追いやられるように、ひっそりと佇むライゼの銅像。
時間の流れから取り残されたように、静かにそこに立っていた。
ヒーローはおぼつかない足取りで近づき、銅像の足元に膝をついた。額をそっと、しかし確かに「ゴツッ」とぶつける。
誰にも届かぬ祈りのように──。
その姿を、路地の入り口で見かけてしまったセドは、反射的に壁の陰に身を隠した。
ヒーローを探しに来たわけではなかった。 ただ、ここはセドにとって──静かに心を落とせる、特別な場所だった。
けれど今は、ヒーローがそこにいた。
ヒーローは銅像に額を寄せたまま、ぽつりと呟く。
「父さん……明日、試合に出ないと」
夜風に混じり、冷たい雫が頬を叩いた。
ポツリ、ポツリと──雨が降り始めていた。その雨音だけが、静かに響いた。
「父さん、笑うかな……?」
言葉は、まるで心の奥を掘り起こすように、途切れながらも紡がれていく。
「今でも……父さんとN.A.S.H.を……一緒に飛んでる夢を見るんだ」
「一緒に、やれたら──どんなに……っ」
声が震える。
「でも……母さんや、友達には……もう危ない目にあってほしくないんだ……」
その言葉には、痛みと決意と、どうしようもない矛盾が滲んでいた。
大切な人を守りたい。けれど、守ろうとするほど、遠ざかっていく夢がある。
ヒーローは、そうして迷いの中にいた。
銅像は何も語らない。その無言こそが、ヒーローの孤独を強く際立たせていた。
見守っていたセドは、そっと息を吐いた。ヒーローのこの心の時間を、誰にも邪魔させたくなかった。
足音を立てぬよう、セドは静かにその場を離れていった。
かつてと同じ構えで、ライゼの銅像は立っていた。
左腕は腰に添え、右腕をまっすぐ伸ばして、何かを確かに指している。
──その瞬間だった。
【一緒にN.A.S.H.かぁ……。パパも楽しみだ】
どこからか、懐かしい声が届いた。
ヒーローの耳に、確かにライゼの声が響いたのだ。
それは思い出か、あるいは寂しさが聞かせた幻聴か。
胸の奥でずっと眠っていた記憶が、静かに目を覚ましたのかもしれない。
ヒーローは驚きに目を見開き、銅像を見上げた。
「……? 何を……指してるんだ?」
ライゼの指の先を、ゆっくりと辿る。
視線の先──通りを挟んだ向こう側に、小さなモニュメントがあった。
ヒーローは足を引きずるようにして、そのもとへと歩いていく。
モニュメントは三メートルほどの高さで、母と幼い子どもが手を繋ぎ、互いに見つめ合って微笑んでいた。
穏やかで、優しく、温かい空気に包まれたその像は、ただそこに在るだけで、見る者の心を静かに癒してくれる。
台座には、短い言葉が刻まれていた。
【笑顔】
その下に、さらにひとつの文章が続いている。
【家族と、そしてこの街を愛したパパより】
たったそれだけの言葉に、ヒーローの胸は大きく揺れた。
(……父さんの字だ)
喉が詰まり、呼吸が浅くなる。再び涙が込み上げ、視界が滲む。
「っ……うぅ……ぐ……」
気づけば、ヒーローは──父と拳を合わせ、「一緒に強くなろう」と誓い合ったあの日の、あのぬくもりと共に、ライゼの声を思い出していた。
記憶の中のその声は、今もまるでヒーローの隣にいるかのように、温かく、力強く響いてくる。
【笑え、ヒーロー】
【その笑顔は、みんなが幸せになれる笑顔だ】
【パパは、ヒーローの笑顔が大好きなんだ──】
「うっ……うぁあああああああああ!!」




