後篇
【五】
さて。ここで場面は変わって、わたしについて男ふたりが話していた光景を映さなければならない。すべてあとから、ニールから聞いたことだ。ちょうど、わたしがどことも知れない尖塔に飛ばされたころだ。
ニールはハインツ・メイナーの顔が視界に入ったとたん、抜刀したそうである。まったく血の気が多い、いきなりヤクザな世界。
「人の家にまで押しかけてきてんじゃねぇぞ、未練がましい野郎だな」
いや、お前が言うな。ちなみにニール・ルーゲは花屋の二階に下宿している。ふつうに家借りろよ。金ねえのかよ、なんでお花屋さんなんだよ意味わからん、しかも下宿先で抜刀すんなよ。え? そのとき裏口にいたから問題ないと? 知るかよ常識を弁えろ、未練がましい執着狂犬野郎がっ。
「てめぇ、任務はどうした。地方の魔導騎士団は暇なゴミかクズしかいねぇのか」
ニールは花の世話が好きらしい。性格が意外にまめなのは、そのためか。でもこんなヤクザ気質の男に育てられる花がちょっとかわいそう……など思う。そしてわたしのストーカーをやめて、花の世話に専念してはどうか? なんのためにわざわざ花屋に下宿してんだよ。一度は好きなものに囲まれて暮らしてみたかったから? それは今まで切った張ったのヤクザ世界にいたからですか?
「おれはしばらく昴さんには会えないんだ。制限をかけられているし、第一、彼女に合わせる顔がない。無理を承知できみに頼みがある」
ハインツ・メイナーは任務を抜け出してきたらしい。異動になって間もないときに、よくやるよ。おかけで、通信機にもなっているハインツの腕章がひっきりなしに光っていて、
「鬱陶しいったらねぇな。人を訪ねる段取りもまともにできねぇやつが、えらそうに頼みごとかよ」
「ルーゲ剣士しか頼める人間がいない。なによりも昴さんに関わることなんだ」
想像でしかないが、このときのニールの表情は仁王像もかくやといったところではなかったろうか。
「はっ。てめぇなあ、卑怯だろうが。昴のきもちを考えたらどうだ」
いまのヤクザ的口調のニール・ルーゲに情緒を語られるようになれば、人間の感情は砂漠みたいになるんじゃないか。でもコイツは花が好きなんだよな。そして皮肉なことに、砂漠にも花は咲く。
「だけどそれは君が判断することじゃない」
「てめぇなあ……」
「なによりも昴さんに関わることだ。君もわかっているだろう、おれがもたらす情報を君が彼女へ伏せることは誠実ではないと」
「まったく、呆れるぜ。どの口が言うんだか。それは脅迫か?」
「…………いいや。手の内を晒すしかない。情けないが、伝手がほんとうにない。これは懇願だよ」
「ゴミに懇願されたってなあ」
けれどここでふたりにとって重要だったのは、ニール・ルーゲの執着心でも、ハインツ・メイナーの自尊心でもなかった。
「……おまえ、気づくのが遅すぎたな。思惑なんざ最初から捨ててりゃよかったんだよ。昴は友だちがほしかっただけだろ」
「彼女のほうでなにか思惑があるとおもったんだ……、あまりに素直に受け入れてくれるものだから。そんなわけはないのにな。ほんとうに、諜報員なんてやるもんじゃない」
ハインツは自嘲し、ニールはここで納刀した。
「てめぇの頼みを聞くわけじゃねぇぞ。あくまで昴のためだ。昴に関わることとは、なんだ」
「それは、」
で。ここで物語の、ハインツ・メイナーが氷漬けにされた冒頭に戻る。戻るったら戻るのである。刀を納めたふりをして相手の隙を突く。狂犬は、主人と定めた人間のその敵を許しはしないらしい。が、ここでの事のあらましを述べるまえに、ハインツ・メイナーとわたしの別れの日について差し挟みたい。
ハインツの裏切りが露見したすこしあとのこと。話があるからとわたしを待ち伏せしていたトマト男とわたしは、光溢れる公園にきていた。湿っぽい話がまるで似合わない場所だ。木々は輝きに満ち、煌めきが煌めきをはね返すような、あまりにもうつくしい時間だった。
地位が欲しかったとハインツ・メイナーは言った。諜報員は精鋭部隊だが、国の暗部にかかわるあまりに嫌気が差してきていたのだと。ここを抜け出して、魔導府とはかかわりのない世界で生きていくために、まずは魔導府内で足場を築くことが必要だと考えた。
それはなんとまあ、回りくどく、生きづらい。さっさと職場を離れればよかったのに。そういう生き方を選んだところで、結局俗世に絡めとられてしまうだろうに。
「あなたにした仕打ちに対して、言い訳はしません。でも、謝らせてください」
「……謝罪は受けつけないよ」
「……昴さんっ」
「そういうところが、とても狡いとおもうよ。仲直りなんてできるとおもってた?」
「でも、じゃあっ……おれの話を聞くだけでも聞いてください。あなたに知らせておいたほうがいいとおもうことがあるんです。渡りびとのことで調べてわかったことがあるんです、もしかしたらという程度だけど、根拠もはっきりしませんが――――」
「聞かない」
「――――」
「大事なことは、二度とあなたの口からは聞かない」
ハインツの表情は、あまりにも暗かった。
別れの日だったけれど、別れの言葉は言わなかった。緑が風をたっぷりとふくんでいる。あまりにも、この世界はうつくしい。どこにいたとしても自然は綺麗だ。短かったけれど、ハインツと過ごした日々はたのしかった。友だちができたとおもえて、うれしかった。
我が意において 名を縛り 血を戒めよ
万光の一条 森羅の影 宿星のめぐり
我が魂命を捧げんは ただひとつ
執着の鎖は、それほどひとを魅了するものだろうか。いま友だちを失って、この世界に寄る辺のないようなわたしにこそ、光華となって降るものだろうか。
「でも重いよなあ。クッッッソ重いよなあ」
しかもあのヤクザ忠犬を救いにはしたくない。あいつさあ、マジ、時々異様に暴走すんだよな。ワイら、職業案内所の前で、ありがたくもない初対面を果たしたやろ? あのあとアイツさあ、案内所の掲示板にあった「護衛やります」の貼紙を魔術でことごとく燃やしたらしいんだぜ。イカれてるよな。アイツの前世、絶対ヤクザだったぜ。
「由利音ちゃんに、会いたいなあ」
ああ、虚無だ虚無。会いたいとおもうひとには会えない、会いたくないやつには一度に二人も会う。剣と魔法の異世界でも、それは変わらないらしい。氷漬けにされた元上級魔導府官と、執着狂犬剣士。
……なんて不条理なんだ。
【六】
「よぉ、昴。主人から従者を訪ねてくれるなんて、こりゃあ僥倖だなあ」
「あんたの主人じゃないし、訪ねたつもりはないし、そもそもこの状況ってなんなの」
「さすがに、下宿先でひとを殺めるのはどうかとおもってなあ」
「……なに言ってんの、なんのことなの、それと、ここってどこ」
頭が痛ぇ。状況と空気と会話のすべてがイカれている。
「さあな、コイツを殺るために適当な場所に飛ばしてもらった」
「飛ばしてもらったって、誰に……?」
「ん? そこに転がってるソイツに」
ヤバい。ヤバさに磨きがかかっている。死に場所を易々と敵へ明け渡す間抜けがいるだろうか。わたしはこのとき知らなかったのだが、ハインツは任務を抜け出してきていた。ただでさえ厄介な立場にあるのに、あろうことか彼は気絶していたのだ。街中での刃傷沙汰はまずいと咄嗟に判断したのだろう。
「……ふたりは知り合いだったの?」
「そんなわけはねぇな。このゴミは元諜報員なだけあって、あんたとおれの仲なんかお見通しってことだろうよ」
「言い方に語弊がある。断固抗議する」
ニールは赤い目をぱちくりとさせた。似合わないことこの上ない。
「ところで昴、それはなんだ?」
どことも知れぬ草原。に佇む巨大な白鳩。さっきからクルッポークルッポーと鳴いている。
「…………急に出てきた」
「ばかにデカいな」
「あんたでもそう思うんだ?」
「? 人並みの感性は持ち合わせているが」
「あんたの言う人並みってなに」
「鳩を見たのは初めてだが、少なくとも、こんなにデカい鳩がいるという理解はなかった。そうか、これが……」
それには同意すると返事しつつも、ニールのなにやら感心しているようすに、なにかひっかかりを覚えた。すると気絶していたハインツ・メイナーが呻いた。
「コイツ、まだ死んでなかったのか」
舌打ちしたよな、いま。
「ちょっと状況を整理させてほしいんだけど」
「うん?」
それにしてもこの男、わたしが急に現れたというのにまったく驚いていない。意味不明な巨大鳩も引き連れているというに。
「あのさあ、そのまえに訊きたいんだけど。わたしが急にあんたの元に現れたことに驚かないの?」
「どこに驚く理由がある? あんたの波動は、おれには心惹かれてやまないものだ。心地よいものに触れられる機会を逃す手はないだろう。ご不浄の最中なら、まあともかく」
「一言余計だよ。それと、執念深いって言われたことない?」
「とくに覚えはないが」
「忘れてたわ。ここの人たちって、執念深いんだったわ」
いい月夜である。わたしは、ここに飛ぶまでのいきさつをニールへ話した。ついでに、わたしが飛ばされる先は、そのときのわたしの取り留めもない考えに左右されるらしいことも。
「では、この鳩もそうなのか? 昴が鳩について考えていたから出てきたのか?」
「いや、鳩のことなんてぜんぜん、まったく考えてもなかったはず…………」
ニールは首を傾げた。わたしは、さきほど覚えたひっかかりをまた感じた。鳩は動き回るわけでもなく、わたしに近寄るわけでもなくおとなしく鳴いている。相当デカいけど。
「……まあ、話を戻そう。まず、この場所に見当はつかないの? あと、なんか氷漬けみたいになって転がってるけど、あの男となんで一緒にいるの? ニールがやったんだよね?」
剣士は重々しく頷いた。
「仕損じたがな。ここは王都ではあるとおもう。そのゴミはあんたに関わることで、おれに頼み事があったらしい。聞くふりをして、まずはぶちのめそうと思ってな」
「直情径行かよ」
「おれは主を傷つけるものは許さない」
「仁義の盃なんか交わしてないからね?」
血が発光しているのかというほど、目が修羅じみている。忠誠というより私憤やろ。
「あんたには会えねぇそうだ」
「会うわけないよね」
「それでこそ我が主」
「だから、主人じゃねぇってば」
「……だから取り成すわけじゃねぇよ。昴の気持ちがいちばんだと、おれはおもうからよ」
ニールはふと、控えめに瞼を伏せた。修羅の半眼が隠れる。
「ニール」
しずかな湯気が、ふわりと立ちのぼった。
「…………ときどき異様に暴走するくせにさ、一線を守るときは守るよね」
ニールはわたしを一瞥した。
「なんか本能でわかんだよなぁ」
「いや気色わりぃよ」
彼は苦笑した。
「おれの気性かなんなのか、歯止めが利かなくなるんだよあ、昴も知ってのとおり」
「……そういうのは、独占欲というとおもう?」
不思議なことを聞いた、というようにニールは目をしばたたかせた。彼は首のうしろをポリポリと掻きながら、
「あんたの唯一無二の従者になりたいとはおもうがな。それはおれがあんたを独占したいのとは別物だよ」
「でもわたしに縛りついていたいと言ってたよね」
「あんたの波動は心地よいからな」
ニールは、またクルッポーと間の抜けた鳴き声をあげた巨大鳩をみた。鳩は現在自分を取り巻く環境も、己が何者なのかも委細構わずといった風情で泰然とし、ときどき首をせわしなく左右に傾げる鳥特有の動きをしていた。
「あんたに関わるなにもかもに関わりたいとか、感情の全部とか、人生を残らず知っていたいなんてことはおもったことはない。独占というのは、そういうことだろう?」
「うーん、要するに、わたしがあなたをわたしの従者と認めて、あなたにその感情を向けるなら、ニールは満足なのね?」
ニールは一度わたしをみて、わたしの言葉を吟味するように、瞼をすこし伏せた。そしてぽつりと、
「そうだな」
と言った。
「それは――――、」
それは、友だちという関係ではいけないのかと訊こうとしたとき、
「す、ばるさん…………。はと、だ」
とぼろぼろのハインツ・メイナーが何事かをつぶやきながら身を起こしかけたとき、ニールの魔眼が光った。
【七】
人生は選択の連続であるのとおなじくらいに、他人の行動や、自分が思ってもみないだれかの思惑や感情や、荒唐無稽ななにかの圧力によって事態が左右されることがある。そのときに大切なのは自分の判断力、ひいては信念であるとわたしはおもっているのである。ただ、事態はあとから観察して「あのときはああだったからこうなった」と因果を図れるものであることもある。つまり渦中にいるときには、当事者にはなにもみえていないことはザラだ。
その事態が自分にとって望ましいものでなかったとき、どうあっても覆すことのできないとき、ひとは自分をどう納得させるのだろうか? 情深いだれかからの慰めによって報いられるものだろうか?
取り返しのつかないこと、それが未知のことだった場合、そして自分ひとりでは到底手に負えない因果が絡んでいたとき、それをひとはなんと呼ぶだろうか。
運命だろうか、呪いだろうか。あるいは、希望だろうか。
*
シュウシュウと草が焼ける音がする。氷焼けとでもいうべきか。ハインツ・メイナーはふたたび地面へ突っ伏した。とりあえず死ねって、凄まじい言い草ですね、ニール。ぶっ倒れたトマト男の言うに、鳩と聞こえた気がするし、わたしがあの鳩を見たときから覚えている違和感の正体にも至ったような。
それにしてもいい月夜である。静かな草原に、星々のささやきが降る。プレアデス七姉妹は、月の女神アルテミスに仕える侍女だった。ある日森で遊んでいると、ゴミカスオリオン……失礼、無法者の乱暴な狩人オリオンが現れ、七人の姉妹を執拗に追い回した。それを見ていたアルテミスは、姉妹を鳩の姿に変えて逃がしてあげた。それでもその後、ゴミリオン、失礼、オリオンは5年に亘り姉妹につきまとったので、見かねたゼウスは、姉妹を天上の星にしたのだ。でも、死後天に挙げられたオリオンは姉妹の近くにいるのだ。いや、そこは遥か彼方に離してやれよ神よ、ともっぱら憤る。憤るのであるが、脱力する。
これは、連想ゲームなのか? 星をみて、プレアデス星団のことを考えた渡りびとの思考を読んで、そこからこの巨大鳩を出現させたのだろうか? まったくもって意味不明である。そして、この世界で鳩はなぜ、鳩なんだろうか。ニールもハインツ・メイナーもなぜ、この鳥を鳩と呼ぶのだろう。
「なんで、鳩をわかるの?」
唇が微かにふるえる。なんでこんなにテキトウなのか、辻褄が合わないにも程がある。よしんば渡りびとがプレアデス星団とつぶやいたとしても、そこから引き出されるものが鳩で、しかもそれが巨大になって現れるなんて、なんなのだ。ニールは怪訝な顔をした。
「鳩がなんだって?」
「昴さん……。――――この世界にただひとつしかないもの、だ」
氷漬け状態が解けたのか解いたのか、ぼろぼろのハインツ・メイナーが声を発した。信じがたいことに、その先を促したのはニールだった。あんなにヤツをぼろぼろにしたのに(それも2回も)
ニールはしばし、顎に手をやり黙考し、昴、とゆっくりとわたしの名を呼んだ。
「このゴミ野郎の頼み事とやらを聞いてやろうとおもんだが、いいだろうか」
「いや、殺すんじゃなかったのかよ」
「許可をくれんのか?」
「そんなこと言ってない、さっきまですごい形相で魔術をぶっ放してたじゃん」
わたしの許可なんか関係ねーだろうがよ。だがニールは、まっすぐわたしの瞳を捉えた。柘榴色の瞳は、月光に輝く。
「昴。許可がほしい」
「なんの」
「……そうではないな。おれの頼みを聞いてほしい。そいつがおれにしようとしている頼みを、ここで聞いていてほしい」
「――――」
わたしは、ぼろぼろの前髪の合間からわたしを見、ニールを見しているハインツ・メイナーを見た。
「……きみはそれで構わないのか」
「“無理を承知でお願い”してきたのは誰だよ? 昴に言いたいことがあるから、おれにこれだけ攻撃されても反撃のひとつもしねぇんだろ」
「――――ニール」
ニールはわたしの強張った表情をみて、少しまた、瞼を伏せた。
「…………あんたには隠しごとはしたくない」
「別にニールが責任を負う必要はないよね」
「条件は公平じゃねぇとなあ。昴が知らない昴にかんすることを、おれが知っている時間はなくていいだろう」
なんだそれ。
「条件って?」
「昴がおれを従者にするにあたって、おれが昴に示す忠誠度だな」
「忠誠度」
「手の内はすべて明かしておかないとな」
「てのうち」
どんな顔をわたしはしていたのか、ニールは苦笑した。
「自分でなにかを決めていたとしても、偶然に左右されることがあるだろ? 渡りびとの昴の場合はまさに偶然としか言いようがない。でもなあ、選択と決断はできることがある」
「選択と決断――」
「おれはそれを、昴にしてほしい」
「友だちにはなれないのに、それはひどくない?」
「――――そうだな。でも、おれは昴に出会ってしまったからな。だから」
「…………だから?」
「友だちではできない繋がりがほしいってことだ」
「クソ重い」
「まあな」
「まあな、じゃねぇんだわ」
クルッポーと鳩が鳴いた。わたしを向いて、首を傾げたようにもみえる。動作はかわいい……、デカいけど。
「どうしてここにいるの?」
かわいい、かなしい、可笑しい、かわいい。
わたしが訊くと、鳩はしばし考えるような間をもった。なんだよその感じ。さっきぶりのニール・ルーゲかよ。座っていたのを立ちあがり、モッモッモとでもいうような足音を立ててわたしへやや近づいた。
自分の感情がわからない。
「なにその足音」
モッ? と鳩は首を傾げた。
「その音、足音だけじゃないんだ」
鳩は月光に煌めいて、その白い羽はとてもつややかだ。こんなに意味がわからない状況なのに、鳩はとても穏やかだ。今度は、モッといってその場に座った。
「なんでちょっとわたしに寄ったの? ……かわいいね」
可笑しい。
「ニール」
「…………昴」
なんでそんなに気遣わしくわたしを呼ぶんだろうか。さっきまであんなにふてぶてしい態度だったのに。わたしは向き直った、ハインツ・メイナーへ。
「ハインツ・メイナー。あなたが言おうとしていたことを聞くよ」
*
この地に魂を結べば、あちらの世界と繋がれる。
こんな。こんな皮肉があるだろうか。
「たぶん……、あなたが、あなたの情を移した人間に話した言葉がこの土地に零れ落ちて、染みこんで、それはこちらの世界でのあなたに実体をあたえて、あなたをこの世界へ結びつけたんだ」
「情を移した人間」
「おれのことだな」
つかの間の殊勝げな態度は身を潜め、なにやら得意そうなニール・ルーゲを無視して、わたしとハインツ・メイナーは相対している。情を移すとは、これまた生々しい。
「渡りびとの気分や感情程度で、この世界が揺らぐことはあるの?」
「それは誤りだ、昴さん。渡りびとの感情を“たかが”と軽んじることはできない。現に、おれは今あなたに会うには制限がかけられているはずだが、何も起こらない。おそらく、おれの話を聞きたいというあなたの気持ちが優先されているんだ。……だから、渡りびとが物珍しいという理由以上に、魔導府や執政機関の人間はあなたに固執したんだ」
なんというか、世界の理が重い。
「渡りびとの感情がこの世界へ干渉するかもしれないと、あなたは最初から知ってたの?」
「大まかには。言葉には力があることは、この世界では当たり前なんだ。渡りびとの言葉がこの世界にどう作用するか、詳しくはおれは知らない。でも、渡りびとの好ましいという感情が基で発せられた言葉は、この世界にも渡りびとにも作用する。おそらく、双方にとって利点のあるかたちで」
「利点があるって、鳩で?」
呼ばれたとおもったのが、白鳩がモッ? と首を傾げた。
「どういう現象が起こるか、あるいは起こらないのか、それははっきりとわからないんだ。ただ、多分誤解を恐れずにいうなら、この世界の渡りびとへの慈悲なんじゃないだろうか……」
「鳩が?」
「鳩を、おれも、ルーゲ剣士も違和感なく認識しているのがその証だとおもう」
「わたしは鳩の話なんか、誰にもしなかったはずだけど」
「……おれに、あなたの世界のことを、あなたの友だちのことを話してくれたでしょう。ルーゲ剣士へは、おそらくもっと」
ハインツ・メイナーは苦々しい顔をして、視線を地面へ落とした。
「それが――」
「それが、この世界には存在しないただひとつの言葉だったから。この世界にただひとつしかないものの数々として、それが世界へ染みこんだんだ。あなたの“好ましい”という感情がそうさせた。鳩はたぶん、あなたのいた世界とここを結ぶ、一番確かな実存だった」
「違和感なく鳩を認識できているって、どういう状態? ニールだって、鳩を知らなかったよね?」
なにかに縋るような思いだった。元の世界とここを結ぶとは、どういうことなんだろう。わたしは、帰れるんだろうか? そのきっかけを掴んだということなんだろうか?
ニールは怖いくらいに真剣な顔をしていた。
「知らなかったな。でもこの白い鳩を見たとき、そういうものだとして自然に意識に溶けこんできた。鳩という鳥が、今存在したという……、そうだな、新しい理解とでもいえばいいか」
この巨大鳩がわたしと一緒に現れたとき、ニールは驚くというよりも感心していたようだった。
「…………この地に魂を結ぶというのは?」
「……それなんですが、鳩が現れるにはきっかけが必要だったはずなんです。ひとつは、渡りびとがこの世界にはない元の世界の何かを思い浮かべること。ひとつは、それを口に出すこと。そしてもうひとつは、誓約の文言を唱えること」
「誓約の呪文……、誓約の呪文っ!?」
嘘だろう、あんなに気をつけていたはずだったのに、思い出すまでもなく唱えてしまっていた。
ニールは思考停止でもしたように固まっている。いや、ヤバいな。不穏さしか感じない。
「……あなたが話しかけたら、鳩は反応しただろう? あなたが証拠にそれがこの世界に存在するから」
鳩は首を傾げて、目をぱちくりとさせている。わたしがこの鳩に生命をあたえたというのか。
「……触ってもいい?」
わたしは鳩へ手を伸ばした。鳩は首をかしげ、ぱちぱちと目を瞬いた。やがてモッモッモと音を立てながら、こちらへ歩いてきた。
鳩の首へ腕を回して、わたしは鳩を抱き締めた。
「あたたかいんだね。ちゃんと感触がある……」
「モッ」
「ふふっ」
と、「昴」とおどろおどろしい空気で、背筋がぞわっとする感じで声を発する人間がいた。金田一*助とか江戸川*歩ワールドとかを彷彿させるおどろおどろしさだわ。古い版だと、表紙のイラストが怖いんだよね。いやちょっと直視するのは御免被ります的な。あんな感じだよね。少し情緒を安定させてほしい。
詩人サッフォーは、月の光は銀色で、星はそのかがやきに霞んでしまうと詠った。でもこの鳩は、星の青と、空の青とをわたしに連想させて、そしてそれは由利音ちゃんへと繋がる。星の青、青い光の群れ、青団――プレアデス星団。この地と、わたしを繋ぐもの。わたしと由利音ちゃんを繋ぐもの。
「昴。おれにはやり残したことがある」
ハイハイハイハイ、ちょっと黙りなさいよこのヤクザ。感傷にくらい浸らせろ。
「主が許そうと許すまいと、おれはその男を許さない」
はいはい。だれかが代わりに憎んでくれるというのもアリかもですね。たぶんそれはとてもラクだ。
「言うことを聞かないなら、帰さないぜ」
「黙れ、この狂犬。言動に一貫性をもたせろよ」
「あんたが誓約の呪文を唱えたとなれば、おれは黙っちゃいねえぜ」
「どこぞの江戸っ子かよ、その口調。とりあえずその魔眼をしまえよ」
「歴々なる衆星よ――」
「だから待てって言ってんだろ、このヤクザ!!」
「モッ!!」
呪文を唱えた理由すら問わないあたり、やっぱり相当にイカれている。鳩はびっくりしたのか、わたしに同調したのか、首をピシッと伸ばして鳴き声をあげた。
「ハインツ・メイナー」
呼ばれた彼は、黙ってわたしを見た。
「渡りびとで、誓約を結んだはひとはいたの?」
「――――いいえ」
「じゃあ、なにもかもが初めてなんだね……」
この世界には魔法があって、飛翔箱みたいな異様な乗り物があって、やたらと執念深い人たちがいて、そんな人たちのおかげで衣食住には苦労しなくて、言語の壁はしばしばあるが越えられないことはない、でも。
誓約を結んだ渡りびとは過去いなかった。帰る方法を、きっと、みな探していたろうから。
わたしはニールを見た。この狂犬に後れを取ってはならない。月は照り、草原の草を濡らし、ニール・ルーゲの瞳は赤く光る。これもなにかの縁なのだろう、そう言ってしまえばそれで済む。どの世界に属そうとも、しがらみはあり、理がある。このわけのわからない因果を、唱えてしまった誓言を、わたしはなんと呼ぶべきだろう。
「友だちにはなれないとおもうよ」わたしは言った。
運命か、呪いか、希望だろうか。
ニール・ルーゲは不敵に笑った。
「おれはあんたを裏切らないぜ」
由利音ちゃん。わたしとニール・ルーゲとのこの縁が、ニールのこの狂気なまでのわたしへの執着が、わたしの心と繋がって、この世界に零れて、伝って、いつかあなたへ届くだろうか。あなたの青へ届くだろうか。空へ、星へ。ならば。ならばわたしが言う言葉は、ひとつだろう。
『我が意において、名を縛れ』
(※1)イサク・ディネセン/横山貞子訳『アフリカの日々』河出書房新社、2018年