前篇
辻褄なんてものは。
【一】
「歴々なる衆星よ――――」
「だから待てって言ってんだろ、このヤクザ……!!」
この狂った男に断じて先手を打たれてはならない。まずもって忠犬を名乗るなら、主人の言葉は聞くべきだろう。断固として、わたしはこの男の主人じゃねーけどな! 目をぎらつかせるのは、やめろ。忠犬というよりも狂犬、いやもはや修羅の域。
わかってやっているから、なお質が悪い。これ以上無理を強いると、わたしがこの男を軽蔑するということを、この忠犬ならぬ狂犬はわかっている。わかっているらしいが、ときどき異様に暴走する。
おれは主の言うことしか聞かない、とこの男は宣う。おおいに結構、ぜひそうしてくれたまえ。いやでも、わたしは主人じゃねーんだわ。このジレンマたるや。そして、月が照るこんな草原のど真ん中でするやり取りではない。
「言うことを聞かないなら、帰さない」
だからどこのヤクザだよ、マジで正気に戻れ。
「主が許そうが許すまいが、おれはその男を許さない」
そーですか、だれかが代わりに憎んでくれるというのもアリかもですね。
なんだかもう、どうでもよくなってくる。狂っている。怖い。わたしが異世界転移らしきものをしたことよりも、その理由がぜんぜん解明されないことよりも、ひと月に1回程度、こうしてなにかの作用で僻地に飛ばされることよりも、その理由が、どうやらわたしのそのとき頭に浮かんだわりとどうでもいい考えに左右されるらしい――つまり悲しいかな合理的な法則性は見出せない――ことよりも、なぜかキリンほどもデカい鳩が、とても平和そうに、わたしの背後でクルッポークルッポーと鳴いていることよりも、この男がいちばん怖い。
「昴」と、自称忠犬がわたしの名を呼ぶ。
「…………なに」
「その男を殺す許可をくれ」
許可もなにも、氷漬けみたいにしてその男をそこへ転がしたのはあなたですよね? 確実にコロしにかかってますよね? なんであんたとソイツが一緒にいるのか知らないけど、一度起きあがろうとしたその男へ「とりあえず、死ね」などと言いながら魔術をぶっ放しましたよね、剣士のくせに。
風はないが、足元の草が、みょんと跳ねた。もとの世界でいうコオロギかもしれない。転がっている男の周辺の草は、ブスブスと焦げている。男二人による騒動もどこ吹く風か、秋虫たちは鳴きはじめた。いい月夜ですね。巨大鳩がいるけど。ではなくて。
いきなり現れた鳩とともにいきなりここへ飛ばされたから、なにも事態がわからない。事件現場は混沌としている。自称忠犬はイカれているし、
…………とりあえず、家に帰りたい。
*
100年に一度くらいの間隔で、この国には異界から渡りびとが森に落ちてくるそうだ。1年前、わたしこと高橋昴もそこに落ちた。記憶はないが。
渡りびと同士が邂逅することはないし、渡りびとがやって来たところでなにか益があるわけでも害があるわけでもないらしい。王国建国600年で、都合6人。わたしは6人目の渡りびとだ。
この国の人びとは粘りづよい。ゆえに、渡りびとにかんすることも諦めない。転移が生じる手がかりがないかと、あの手この手で調べを尽くす。その一環で、わたしは軽薄な男に騙されてしまった。30歳にして痛恨の極みである。
だって…………、友だちになれるかと思ったのだ。
もとの地球世界では、地球的規模で友だちがいなかった。いや、いたにはいたんだ。小学校3年生のときに仲良くなった合原由利音ちゃんという女の子が。でも由利音ちゃんは親の海外赴任にともなって外国へ引っ越してしまった。いまでは研究者になって、南極観測隊に参加したりなんかして、世界中を飛び回っていて、超格好いいのだ。多趣味で多忙な由利音ちゃんとは、2年に一度会えるか会えないか。ときどき近況を知らせるお便りをくれて、わたしのことは忘れないでいてくれる。
わたしは学校でも職場でも、人間関係はわりとうまくやれるほうだ。でも、なんとなく自分の居場所はここじゃない気がして、だれかに深く踏み込もうとはおもえない。だから小4から現在に至るまで、地球的規模でわたしの友だちはわたしのそばから不在だった。
そんな折、魔獣も存在するらしい剣と魔法の異世界へ飛ばされて、さすがのわたしも孤独を感じていたところ、見た目はチャラいけど出会った男にやさしくされて、コロッと騙された。
魔導府という魔法全般を司る国の執政機関の役人で、スパイ的活動をしている男だったのだ。渡りびとの生態を詳しく調べるため、わたしに近づき、なんなら結婚して生涯わたしを監視、もとい観察しようとしていたらしい。そんなまわりくどいことをしなくとも、「あなたのことを調べたい」と素直に申し出ればよくないですか?
粘りづよい国民気質のうえに慎重で狡猾で、ドン引きでした。わたしは結婚なんて心底御免である。そんなの、ぴえんなのだ。
わたしは純粋に、ソイツとお友だちになりたかったのだ。それを裏切られた。この、広いかどうかも定かでない世界で、心の平安を求めてなにがいけないのだろうか。
純情を踏みにじられ、怒り心頭に発し、ここが地球とはちがう世界で、異世界転移らしきことをして、地球には帰る方法はわからないと聞かされていて、心が折れかけていた……のだが。
最終的には、受け入れてしまった。
なぜか。
女であればおよそ毎月一度は訪れる血の一大スペクタクルイベントが、消滅したのだ。
転移してしばらくは気づかなかったのだが、軽薄男とのシアワセお友だち計画が夢破れたころが、こちらに来て三ヶ月ほど経っていたころで、そういえばそれらしき兆候がないと不思議におもっていたところなのだった。
急いで魔導府の役人に問い合わせると、その生態は渡りびとに特異的なものであり、こちらの人間にはないという回答だった。
「えっ!! あの血の地獄がないの!? もう一生!? わっしょい! ラリホーッッ!!」
と、諸手をあげて狂喜乱舞した。あの、期間中の孤独でつらい腹痛やら重たい頭やら、予定の二週間ほど前からのモヤモヤした体調不良やら、予定になっても永遠に来ないせいで、次の日の予定も立てられないような不条理にふりまわされることが、もう二度とない。そんなことがあっていいのだろうか。
まあ、いいんじゃないだろうか。飛ばされた理由もわからない、帰りかたもわからない、友だちいない、金もないのないないづくしで、これくらいの見返りはあってよい。国が一丸となってわたしを謀った代償に、衣食住には生涯不自由させないことを誓わせたこともあり、とりあえず身分の保証は得た。まあ、得るまでもなく食い気味に、どうかこの国にいてお願いだからと偉いひとたちに囲まれて詰められてしまったのだけれど。……みんなの探求心がコワイ。
【二】
「そろそろ、あんたとおれが出逢って半年だ」
「もうそんなに経ちますか。というか、こんなところで油を売っていていんですか、稼がなくていいんですか、わたしはあなたの面倒なんてみませんよ」
「昴。色よい返事を聞かせてくれないか」
なんだよ、色よい返事って。悪代官かなにかかよ。そしてわたしの返事を聞くまえに、おまえがわたしの話を聞けよ。
「何度言われても、答えは同じ。わたしは友だちがほしいんです。あんたみたいな狂気にまみれた男でなくて、同性の友だちがほしいの」
「狂気にまみれた男? おれは主人には生涯忠誠を誓うし、なにがあろうと命令は違えない。だれかを殺せといわれたら殺すし、殺さない程度に苦痛をあたえつづけろと命じられたなら、そうする。隷属するのはおれなんだし、昴に不都合はないだろう?」
「出てくる単語がいちいち物騒なのは、やめてもらえませんかね。わたしはあなたの主人になる気はないし、あなたもあなたで、わたしの友だちになる気はないんでしょう? だったら、交渉は決裂ですね」
もとよりこんな男の友だちだなんて願い下げなこと一辺倒だが、従者にしろと迫ってくるのには辟易とする。
「おれはあんたを裏切らないぜ」
「…………」
表情は真剣だ。この場合、嫌味ではない。
「ニール。あなたがわたしの従者にならなければ、わたしを裏切ることは約束できないと言っているの?」
「そうは言ってねえ」
「じゃあ、友だちでもいいじゃない」
いや、厭だけど。
「いや、おれはあんたと繋がっていたい」
気色が悪いな、おい。
「友だちとしてだって繋がれますよね」
「というより、縛りついていたい」
悪霊かなにかですかね。
「はやくも前言撤回しないでください。優秀な剣士なのに、わたしのそばにいたって仕事はありませんよ」
「昴はさぁ、いつかここからいなくなるかもしれないだろ」
それを言われれば、なにも言えない。帰る方法は、わからないだけであるかもしれないのだ。
「でも、たぶん帰れないよ」
わたしはため息を吐いた。
「諦める必要はないとおもう」
こういうところは、真面目で誠実だ。いやいや、ちょっと待て。
「あんたはどっちなんだよ。わたしを縛りつけたいのかそうでないのか。あんたと誓約を交わせば、わたしの魂魄はこの土地に根づきますよね」
「ああ」
「『ああ』じゃねえよ、莫迦野郎」
ニール・ルーゲは、その柘榴のような色の目をぱちくりとさせた。みじかい銀髪に赤目で剣士、まさに異世界的組み合わせな色味と職業。長袖シャツにマントを羽織り、ズボンにブーツ、肩掛けに剣を帯びている。縦と横の合計面積が、ゆうにわたしの1.5倍はあるだろう体つきだ。
わたしはもとの世界にいたときは大柄なほうだったのだが、この世界の規格にあわせれば小柄の部類に入る。渡りびとは魔力がないらしく、魔力をもたない人間はこの世界にはいないので、身体がちいさく、かつ女で魔力がないとなれば、国のお偉いさん方は、いろいろと心配になるらしい。王都にいるかぎり魔獣に襲われる心配はないが、暗躍している組織に狙われるかもしれないから護衛をつけてほしいと、お願いされていた。なんだよ、暗躍している組織って。人選は問わないというあたり、なかなか不穏である。
国から護衛騎士を何人か紹介されたが、初っ端から国に騙されたこちらとしては、あまり信用ならないものなので、お断りしておいた。お偉方はショックをうけていたようだが、信頼回復への道のりは遠いのだ。
それはそうと、断ったものの伝手はないので、用心棒を紹介してくれる民間の案内所へ行ってはみたが、護衛というより友だちがほしかったわたしは、女性の用心棒兼友だち、友だち兼用心棒という心踊る人材はいないかと若干血眼になって紹介票をみていた。
わたしの不純な動機が、波動になって漏れていたのかもしれない。ニール・ルーゲ剣士は、数日前に隣国から帰郷し、なにやら惹かれる波動を王都から感じたため、その波動の主を探してわたしへたどり着いたのだと言った。わたしには魔力はないが、なんらかの波動が出ていて、それをこの剣士は感じてたどってきたと。いくら剣と魔法といえど、異世界ワカラン。
わたしは、友だち兼用心棒になってくれそうな、いい感じな女性剣士の知り合いはいないかどうか、不審な男であることは無視して、初対面のルーゲ剣士へ聞いてみた。そしてバッサリ切られた。
「あんたは甘い」と。
曰く、護衛も剣士も仕事であり、友だちというようなノリではない。そんな甘い考えでいると、魔獣がいるようなこの世界では、最悪命を落としてしまうと。自身のことは棚に上げ、いきなり現れた不審な輩に友人紹介を頼むなど、危機管理がなっていない。そういうわけだから、友だち探しは後日へ改め、まずは自分と主従の誓約を交わしてほしいと。論旨がおかしい。
「いや、いま自分のことを『不審な輩』と言いましたよね」
「ああ」
「自称不審の輩と、そんなほいほいと主従の関係を結ぶなんて、それこそ危機管理がなっていませんよね」
「ああ、そうとも言える」
「しかもなんです、その誓約の呪文とやらは!? おそろしく重いんですが!?」
「主とするものへ忠誠の誓いを立てるのだ。これくらいでないといけない」
「あなたの一生を左右する問題ですよね。わたしの為人くらい、確かめたらどうです!?」
「生涯感じたことのない心惹かれる波動だ。これを見過ごす手はない」
「生涯ってあんたいくつだよ!」
「27歳だが」
「ワイより若いやないかーい!」
と、案内所の前でこんな不毛なやり取りをしていたものだから、衆目を集めてしまった。
生涯といわれたって、コイツの人生経験など知らないし、年上だからとマウントを取るつもりはないが、信じられる根拠などなにもないのだ。関わらないにかぎる。それに、ためしに聞いてみた誓約の呪文とやからが、いただけない。
「歴々なる衆星よ」からはじまる主従の契約をむすぶそれは、中学生的病が二年な代物だ。
内容が怖すぎる。記憶から葬り去りたい。
冷や汗を流すわたしの内心など知るよしもなく、剣士は、目を瞬いたあと、ふわりと笑った。
「あんたは、威勢がいいな」
このあとすぐに、「あんたじゃなくて、昴だよ」とイラつきながらも、うっかり自分の名前を教えてしまったのは、またしても痛恨の極みである。
*
「昴は、やっぱり威勢がいいな」と、目をぱちくりさせたあと微笑んださきほどの剣士の顔を思い返して、わたしは悶々とする。
なんだかんだと言いつつ、ひととの関わりを求めている。ニールが、わたしの名をいい名だというから、もとの世界では古くからいろいろな国や地域で知られている星で、わたしの生国なら『枕草子』という随筆、ギリシャの時代なら女性詩人のサッフォーが詠っているという相手にはわかりもしない話までしてしまった。
友だちはもちろんほしい。お茶を飲みながら、くだらない話をしたい。あの剣士がそれらしくなりつつある現実には目を背けたい。さきほどの会話は、なんと喫茶店でのものである。
ここの生活様式は、魔法があるという点で地球世界とは劇的に変わるのだろう。ただ、あちらでの電力が魔法に置き換わったという感覚ではある。人間の営みは、近代的だ。みんななにかしらの魔術は使えるが、それぞれ仕事があって、議会や学校や病院がある。
しかし、空飛ぶ電車があるのには驚いた。動力は魔力だから、魔車というべきか。ここでは飛翔箱と呼ぶのだけれど。寝台車の個室がいくつか連なっていて、その姿はム○デを連想させて、じつはちょっと苦手だったりする。なぜか一直線に飛ばず、ウネウネうにうにしながら飛ぶ。乗っているときには違和感はないらしい。なんだそれ。ちなみに、ほかに空を飛ぶ乗り物はまとめて飛挺と呼ぶ。
わたしは、渡りびと特典なのか言語を扱うに支障はないけど、普通名詞はもちろん地球世界とは異なるもので、脳内で自動翻訳されるものの、実際遣うとなると妙に違和感がある。
「……老後をシェアハウスで、二人で暮らして過ごすのが夢だったのに…………」
地球世界での親友と、そんなことを話していた。彼女はもしかしたらお愛想で言っていただけかもしれないが、わたしはそれを励みに日々の労働をこなしていた。でも彼女なら、わたしの願いを叶えてくれそうだ。
手元のカップはとっくに空になっていた。昼の食事をしていたら、ニールが現れた。わたしの前に現れる人間といえば、ニールか魔導府の役人くらいである。
ニールは、この世界で知り合いがいないわたしをなにかと気遣ってくれている。言っていることはおかしいが。3日と空けず顔を合わせるが。会うたびに従者にしろと迫ってくるが。そして件の誓約は、頭がおかしいが。
主人と従者、双方の同意がなければ誓約は発動しないので、片方がいくら誓約の呪文を唱えても成立はしない。でも言霊ってあるじゃん。魔術が生活の基盤になっている世界で、言葉の威力たるや想像を超えるだろう。ゆえに、誓約の呪文も迂闊に口にすべきでない。
が。わたしは誓約の呪文を覚えておいた。彼を知り、己を知る。しからば百戦危うからず。いや、関わる気はないのだが。
でも自分を脅かす対象は知っておかなければ。これぞ危機管理能力。
それにしてもニールの発する単語は、いちいち不穏だ。隷属ってなんなのだ。忠誠を誓うことは隷属することとはちがうぞ。自分のことを忠犬というわりに、あいつは押しが強い。忠犬は忠犬らしく、主人の言葉を待てよ。いや、わたしはやつの主人じゃなかったわ。主人になったら言うこと聞くのか。主人じゃないからしつこいのか。もういやだ。
悶々としていたものだから、気づかなかった。
「――――昴さん」
「うぎょおおぅ!?」
軽薄チャラゴミ男が、わたしの隣に立っていた。
【三】
わたしの奇声も意に介さず、というよりも沈痛な面持ちで、軽薄チャラゴミカス男は居た。軽薄に成分があるのなら、いまは軽薄成分25%といったところだろうか。わたしを騙していた当初は85%くらいだった。そんなに成分を下げられるなんて、なかなかやるじゃねーか。どういう雰囲気製造構造してんだよ、興味ないけど。
「ルーゲ剣士は、もう行ったのか」
「行ったけど……。どうして?」
「あなたと話がしたくて、ふたりで」
「謝りたいという話なら聞くつもりはありません。言ったよね、あなたにもう会うつもりもない。お帰りください」
「それは知ってる、わかってる」
「用があるなら、ほかの魔導府のひとを寄越してください」
そもそも魔導府の人間ともかかわりたくはないのだが、渡りびとを扱う国の中枢機関が魔導府であるからして、無視はできない。あいだに第三者機関的なものを挟めないこともないだろうけど、魔術のつかえないわたしが、自分にかかわることを伝聞でやり取りするのはリスクがあるし、なにより面倒だ。ここはもう妥協するしかない。生存第一。
「……………顔も見たくない」
頬杖をつきながら、窓の外を眺めながら、わたしは言った。隣の人間の空気が硬く、重くなったのがわかった。
「騙した事実は消えないのに、謝ったところでどうだというんだ」
視界の端で赤と緑のものが、わずかに身動ぎした。赤い髪に緑の瞳、赤い騎士服に深緑色のブーツ。右手に赤い石をはめ込んだ腕輪が、シャランと音を立てた。
…………ちょっとアレだよね、配色が向こうの世界のトマトを思い出させるよね。で、名前がハインツときたもんだ。トマトを液状化したあの調味料しか思い浮かばないよね。ちなみにこちらのトマトは、見た目は桃で名前は紅玉だ。リンゴかよ。
ニールが短髪なら、コイツは長髪の部類だろう。襟足が長く、くせ毛なのか全体的に波打っている。体つきはシュッとしていて動きはしなやかで、鼻筋がとおった垂れ目で、出会った当初は、わたあめかパフ菓子みたいな、ふわふわあまあまの雰囲気だった。
パフスナックにキャラメル風味の蜜をかけた、赤いパッケージに入ったあのサクッとかる~い夢のようなお菓子空気をまとっていた。そんなの、騙されるにきまっている。空腹なときのキャラメルスナックに勝てる人間なんて、いるもんか。ちょっと「キャラメル王子」だとか、心のなかで呼んでいたことはだれにも秘密だ。
「こんにちは~、昴さん! 元気ですかっ?」と、語尾に音符がつきそうな調子で、満面の笑みで毎日訪ねてこられたら、心の空腹に耐えるわたしにとって、それはキャラメル菓子だった。それに親切だった。出会いからして。食料品を市場で買い込んで、買いすぎて、ヨロヨロと歩いてたわたしは、通りの曲がり角でハインツと出会いがしらにぶつかったのだ。その拍子に食料品袋がやぶけて、道に転がったものを拾って、かつ家まで届けてくれた。そんな縁で知り合いになり、ハインツは渡りびとのわたしをいろいろと気遣ってくれて、いつしか二人のあいだには友情が芽生え――――なんて。ベタな展開。
だいたい、出会いがしらを狙ってぶつかるなんてどういう高等芸能だよ。過去、成功したためしがあるのか。あの出会いのために、わざわざ練習したのか。暇だな異世界人よ、いやここではワイが異世界人だったわ。
「…………やっぱり、あなたに知らせなければならないと思うんだ」
わたしは、赤い男へふり返った。
「しつこい。この液状化トマト男め」
おまえなんかもう、キャラメル王子ではない。
「は?」
「あ、いやいや。こちらの話。……上級府官を降格になったこと? それならもう知ってる」
液状化トマト調味料男は、驚いた顔をした。
「あ…………、なぜそれを? それに、おれが知らせたいのは、そうじゃなくて……。いや、それもあったけど」
知ってるよ、なんかわたしに話があることは。でも、あのときわたしは言った。
「なんだ、違うのか。まあいいや。ニールがね。頼んでないのに教えてくれたんだよ」
「ルーゲ剣士が」
うーん、暗い。いや、昏いね、ハインツ・メイナー元・上級魔導府官どの。
トマトのヘタみたいな色の緑の目に、空洞がみえるみたい。
「若くしてそんなところまで登り詰めたのにね。もったいないねえ」
「…………昴さん」
役職を解かれたらしい。同情はしないけど。というか、魔導府を辞めようとしたけど、監視の意味もあり、役人としては留めおくらしい。わたしを騙したことの責任をとらせるそうだ。
赤い騎士服は、地方の魔導騎士団の隊服らしい。移動は魔法陣で瞬間的にできるから、もう今日にも地方へ異動するのかもしれない。赤い石の腕輪は、転移につかうのだろう。
今回の画策にかかわった魔導府のお偉方も軒並み降格か、地方の出先機関的なところへ出向処分になった。渡りびとにかんすることは、魔導府の専権事項だったから、国のほかの機関の役人たちには不可侵だったらしい。
上にしては、迅速で思いきった処置だったんじゃねえか? 辞めさせねぇあたり不気味ではあるがよ。とは、ニールの言である。前の渡りびとのときは、どういう対応をしてたんだ。曲がり角で出会いがしらにぶつかる演出はなかったのか。いや、べつに知りたくはないけど。
「25歳って若いよね。わたしは、一瞬でも年下のお友だちができてうれしかったよ」
1年前ここに落ちてきて、液状化トマト――いやいや、キャラメル王子――ではなく、ハインツ・メイナーと出会ってから疑似友だちとして約3ヶ月間、わたしが救われたのは確かだ。
特別なことをしたわけではない。一緒に買い物へ出かけたり、ご飯を食べたり、公園で夕日をみながらゆっくりお話ししたり。
言葉の仕組みについて、根気強く付き合ってもくれた。例えば「犬」という動物については、犬のような動物がいて、自称忠犬が自称するような意味合いが「犬のような動物」にも付与されている。わたしにはそれが「犬」として認識される。ハインツには随分と助けられた。大まかな括りは、元の世界とおなじように認識される。犬、鳥、魚、花というふうに。ただ、それぞれの分類には地球生物とおなじ名前はない。鮭はいないし薔薇はない。言葉の法則はよくわからない。でもそういうことを、ふたりでたくさん話した。
『考えたってわかんないんだけどさあ。どういう物質で、わたしの元いた世界とおなじ姿かたちの人間になってるんだろうね』
『おれらからすれば、渡りびとのほうが不思議だよ。どういうからくりで、奇跡で、それが起こってるかなんてさ』
『出会う出会わない以前の問題だよねえ。まさか生きてるうちにこんなことになろうとは思わなかったよ。わたしの向こうのお友だちはね、合原由利音ちゃんっていって、賢くて活動的で、由利音ちゃんは忙しいひとだったから、向こうの世界でだってあんまり会えなかったんだけど、それでも大好きなんだ。由利音ちゃんに会いたいなあ、会えないかなあ……』
『……昴さんがその友だちに会えなくなったのは残念だけど、おれは昴さんと知り合えてよかったよ』
あのときは、ハインツが、そんな空洞があるような目をしていたことはなかった。騙すだなんて回りくどいことをしなくても、ふつうにお友だちになれていたと思う。地球世界では一人しか友だちのいなかったわたしだったけれども。
ある日、わたしに対してスパイ活動をしていたことがバレてしまって、わたしがこのひとに別れを告げて、そのとき、いまみたいな昏い顔をしていた。
挫折をしたことがなかったからか、監視していた対象から、見限られ、引導を渡された屈辱か、なんなのかは、わからないけど。
……と、ハインツの腕輪の赤い石が、ゆるやかに明滅しはじめた。わたしは自嘲した。
「つぎは、欲しいものが手に入るといいね」
結局、この男ともなんだかんだと会話をしてしまっている。生身の人間を前にすると、強く突っぱねつづけることはむずかしい。でも、わたしは、言ったじゃないか。
ハインツ・メイナーは、さらに驚愕したように言葉を詰まらせた。ハインツの腕輪が赤く光を放つ。やつの足元に魔法陣が展開する。すこし風が起こる。わたしの前髪が、ひと筋額をゆらす。ああ、剣と魔法の異世界よ。
焦れたように彼は叫んだ。
「昴さん! おれは、あなたに知らせなければならないことがあるんだっ!」
赤い光線が、ハインツを、わたしを照らす。まぶしい。喫茶店で、こんな派手なのはやめてくれよと言いたい。これは時間切れの合図だ。彼は強制的に、どこかへ、たぶん異動先の地方へ転移させられる。
でもわたしは、あのとき言ったから。
ハインツは声を張り上げた。でも風にまぎれて聞き取れない。
「……! あなたの世界と、こちらの……、誓約の――――――…………っ!」
フッ…………と、そこでハインツの声はとぎれて、姿もかき消えた。
喫茶店にいたまわりの客は、光のつよさにちょっと驚いたようだったが、魔法の世界では慣れたものだ。迷惑顔のひとつもない。あまりにちがう、この世界の法則。
「誓約を結ぶときは、って言ってた…………?」
風にあがった前髪が、しずかに額へ落ちた。
でも、わたしは、言ったんだ。
大事なことは、二度とあなたの口からは聞かないと。
【四】
歴々なる衆星よ
我が意において 名を縛り 血を戒めよ
これなる誓約を天と地の永久へ刻め
万光の一条 森羅の影 宿星のめぐり ここへ集え
我が魂命を捧げんは ただひとつ
その意において 我が名を縛りし
星命のものよ
*
「聞けば、魔導府の役人がおそれ多くも渡りびとどのを謀ったそうじゃねえか」
ハインツ・メイナーはたしかにクソゴミチャラ男だったけれども。そんな言い草なおめぇのほうがヤクザみたいだよ。
自称不審の輩とわたしは、案内所の前では埒が明かないということで、そのあと、またしてもと言うべきか、最初にと言うべきか、喫茶店へ入っていた。
というか、出会って半年、ニールとは今現在ほぼ茶飲み友だちみたいになってきている。着実に絆されてきているといっていい。3日に一度は顔を合わせているから、用心棒の役割もなし崩し的に果たしているといえる。ニールに言わせれば、それでは不足だろうが。
あんな見た目のゴツいやつが、喫茶店。悪くはない。悪くはないが、なんでわたしはあんなやつと知り合いになってしまったんだろう。忠犬はどこにでもついてくる。あいつは喫茶店で言った。味はココアだが、見た目は甘酒なあつあつの飲み物をおいしそうに飲んで、意外と丁寧な手つきでカップをソーサーに戻してから言った。
「おれはあんたの忠犬だよ」
なにを藪から棒に。いつだれが決めたんだよ。そしてなんで、帰郷したばかりのあんたが渡りびとの現況を知ってるんだ。耳がはやすぎやしないか。
わたしが頼んだ、青汁な見た目の、味はコーヒーな飲み物も湯気をたてている。魔法のせいか、なかなか冷めない。
「いや…………、言葉の選択がおかしい」
「おれを、あんたを謀ったゴミの始末に使えよ。証拠は残るが」
いや、残るんかい。意味ねえじゃん。
「魔術の痕跡が残ってしまうからな。多少時間を要しても、特定はされる。魔力がつよい者ほど特定されやすい」
「…………不便だね」
「ふむ。そう感じたことはないな。もし、だれかを害して罪を負ったなら、それを償うまでだ」
「なにかいろいろとツッコミどころがあるのですが。あなたはわたしと主従の関係を結びたいんですよね?」
「ああ」
「始末って、害するって、あのハインツ……、魔導府の役人をこの世から消すってことですか?」
「そういうことだな」
「そして、あなたがやったということは特定されるわけですよね」
「もちろん」
「自信満々に言うなよ。特定されたら、あなたはそのあとどうなるんです?」
「魔導府の管理のもと、苦役を課せられたり、一生魔力を封じられたり、幽閉されたりする」
「もう一度訊きますが、わたしの従者になりたいんですよね?」
「それを望んでいる」
「つまりあなたが犯人だった場合、わたしとは離ればなれになりますよね。それでどうやって、従者の役割を果たすんです?」
「いかにも」
「いや、『いかにも』じゃねえよ」
つまり、警察や裁判所などの独立した取締機関がないのだ。魔術にかんする全般を魔導府の管轄としているので、ごった煮状態である。
そして剣士は、重々しくうなずくわりに、なんの答えにもなっていない。
「ん? ルーゲさんは剣士なんですよね? 剣士も魔術をつかうのですか?」
「おれはあんたの犬になるつもりだから、ニールと呼び捨ててほしい。剣士も魔術をつかう。だが剣そのものに魔術を付与することはできないんだ。剣につかう金属自体が、すでに魔力の元――魔素を帯びているから。流しこもうとしても弾かれてしまう。ただし戦闘のときに結界を張ったり、もっている魔力で魔術を放つこともある」
「従者希望のわりに、態度デカいですよね。ふうん、剣には魔力はこめられないということなんだ。飛翔箱みたいなものはあるのに、あれはどうやって動いているんです?」
「魔力をまとわせている、といえばわかるか? 飛翔箱の金属に魔力を流しこむことはできないが、箱そのものに魔力をまとわせて浮かせて走らせている」
「…………いや、よくわからない。魔力切れのようなことを起こすことはないの?」
「大気中にも魔力があるから、それを自動的にまとうようにつくられている」
ケーブルやら線路やらが要らない自動充電式の電車みたいなものなのか。ぜんぜん理解できないけど。
しかしなんだか、ふつうに会話してしまっている。教師と生徒のようではあるが。
「あれ? そういえばさっき、剣に魔力はこめられないと言いましたよね? なら、剣士が剣だけでだれかを襲えば、証拠は残らないのでは?」
「条件がそろえば、理論上は可能だ。だが、戦うときはみんな知らず魔力を放出している。その残滓でわかる。一方が純粋な剣技だけで勝負して、魔力を放出しないようにすれば……、おれは成功したことはないが」
「試したことはあるんですね」
「…………魔導府の上級府官ならできるぞ。あんたを謀ったクズとか」
柘榴色の目が、底光りしたようにきらめいた。好戦的としか表現しようがない。わたしはこめかみを押さえた。
「ニールは、名のある剣士なんですよね」
と、ここで、ニール・ルーゲは目をぱちくりとさせた。
…………なに、その擬音。いきなり、瞳が純粋に輝きだして、こちらが驚く。
「そう自負しているがな。それが?」
「失礼ですが、あなた、戦闘に飢えてるんじゃありません? わたしの従者云々を口実に、あなたの戦闘意欲を満たしたいだけなんじゃないですか?」
これは、空気が凍るのではないだろうかと覚悟して言ったのだ。自分より圧倒的に力のつよい、わたしのような女など片手でひねり潰せてしまうような相手へ。
ここでこの男を怒らせて、どうにかされそうになったとして、だれか助けてくれるんだろうか。ハインツ・メイナーは、わたしに人間的興味などもっていなかった。
わたしは、圧倒的無知の世界のなかにおいて、圧倒的強者へ阿るべきなんだろう。保身に走ってしかるべきだ。
わたしの目の前にある飲みものは、まだ湯気をたてている。この飲みものは、地球には存在しないものだ。名前にも馴染みがない。飲みものの名前ひとつ、知らない世界で。
空気は緊迫していたのだろうか。
「………………いや」
と、男は、みじかく、ゆっくりと口をひらいた。
「そんな顔を、することはない…………、昴」
ここで涙がこぼれてしまったのは、致し方ないだろう。わたしの涙をみて、控えめに、ニール・ルーゲは瞼を伏せた。
このときの彼の労りというものを、わたしはたぶんずっと覚えているだろう。しずかな、湯気の記憶のなかで。
*
異世界の由利音ちゃん、お元気ですか。
この世界から出られないことに踏ん切りはついたといえばつきましたが、あなたに会えないのはさみしいです。
わたしが来たこの世界は、うつくしいです。ふとした路地裏なんかは、あなたが大好きだったカサブランカの街を思い起こします。悪しき魔導府の建物は、目の覚めるようなエメラルドグリーンをしていて、おなじ色の、見上げても果てがみえないようなおおきな扉は、繊細なレースを貼りつけたようなもようをしています。魔導府が立つ、あまりにも、あまりにもだだっ広い広場の石畳も、これまた一つひとつレースもようが施されていて、なにか執念のようなものを感じて恐ろしいです。
高架下のような場所にある、薄暗い光が差すこの喫茶店は、わたしのお気に入りです。人々の喧騒はすこし遠くに聞こえて、異世界にいながらにして異国情緒に浸れます。
こちらとそちらの時間の流れは、おなじなのでしょうか。わたしがいないことは、そちらではどんな扱いなんでしょうか。由利音ちゃんがこの世界に落ちてきたら、きっと嬉々としていろんなところを探索するんだろうな。この世界には魔法があって、空を飛ぶきもちわるい電車があります。でも旅行好きのあなたには、たまらない乗り物なんじゃないでしょうか。
わたしの身には、ちょっとした厄介事が降りかかっていますが、由利音ちゃんなら、かの大怪獣が街を足でめしゃめしゃ壊していくがごとくの豪快さでもって、笑いながらまとめてぶっ飛ばしてくれそうな案件です。
……ここの空は、この空は。あなたの言っていた、あなたのおもう青とおなじかな。この世界の空に手が届いたら、あなたの青にわたしが触れることはできるのかな。
『わたしがモロッコでみた空はね、自分の目が、たしかに見ている青だって信じられないくらい青いんだよ。青くて、青くて、そこに溶けてしまいたくなる』
そういう空なんじゃないかと、おもうのです。昨日みた、今日みた、きっと明日もみることになるだろう空は。
ああ、そして、どうしたことでしょう。こうしたことが、なせがわたしには起きてしまうようです。ここはどこなんでしょうか。この世界の、どこともしれない場所にこうして飛ばされてしまうのです。さっきまで喫茶店にいたのに、あ、でも心配しないでください。無銭飲食にはなりません。前払い式なので。
……たしかに、たしかに認めましょう。こういうときに、すぐそばにニール・ルーゲがいると、便利もとい、助かるものであると。しかし男に気を許すと、たいがいろくなことになりません。それは由利音ちゃんもわかってくれることでしょう。ただの挨拶や仕事上での親切を、こちらの好意だと誤解され、「コイツ、おれに気があんじゃねえ?」などと吐き気をもよおすような男の邪悪な解釈は、地上から燃やし尽くさねばなりません。見知らぬ男からのゴミのごとき声かけ、これはすでにニール・ルーゲが達成しています。無視をしたらしたで、殴りかかってきたりすることもありますよね。こちらの人間は、渡りびとに物理的な危害を加えることはできないらしいので、その点はわりかし安心して過ごせています。
でもつきまとい(ニール・ルーゲ)や、策謀(液状化トマト調味料男)などは、守備範囲外のようです。
ああ、異世界よ! 人間社会のくだらない枷は、ここでも物を言うのですね。恋愛結婚などというアホきわまる謀略を撥ねつけたと思ったら、つぎは主従の呪縛ですよ。どんな悪夢世界。
ニール曰く、主従の誓約において繋がった者は、相手がどこにいようがその存在を関知できるそうです、コワイ。相手と魂を繋ぐらしく、つまりこちらの土地にこの身が縛られるというか、根づくというか、要するに、渡りびとであろうが主従の誓約を結ぶとこちらの世界の人間になってしまうということです。
誓約の呪文とやらが、世界との繋がりを意識させる感じなものでした。わたしが被るだろう危険と損失、不確実性と、受けとるだろう安全性、保障、恩恵をきちんと説明はしてくれました。投資家に向いてそうですね。ただ、彼の利益――わたしに張りついていたいという奇妙奇天烈な動機――が、もっとも優先されているのですが。言葉の端々にヤクザな気質が垣間見えているのですが。
初めて会った日の、喫茶店での、あのしずかな湯気の記憶に、ニールが話した不穏な言葉はなじまない。
『あんたの忠犬になる』
『おれは裏切らない』
『誓約を結べば、おそらく元の世界に戻ることはできない』
でも、それは、それは。すこしの安心として、心の片隅に場所を得てしまった。確実ではないという、誠実ともいえるその向き合いかたに。たぶん、湯気のせい。忠犬はお断りのはずなのに。
というか、ハインツ・メイナーを始末したところで証拠が残るならまるで意味がねえじゃねぇかよ。なんでそこは頓着しないんだよ、おかしいだろうが。
ともかく、前回とはちがう、また新たな場所に飛ばされてしまったらしい。そうはいっても、わたしがいないことに気づいた自称忠犬が、しばらくしたらやって来るはずだ。しばらくとは2日後くらいかもしれないが。やつが言うところの「心惹かれる波動」なるものを追ってくるだろう。逆探知か全地球測位システムか、主従の誓約を結ばずともやつはわたしを探し当てる。前回、飛翔箱の車庫に飛ばされたときもそうだった。前々回、港に飛ばされたときもそうだった。
前々々回……は、王都と真反対の方角の街へ飛ばされて、例のごとくというか、それがやつにとってはわたしと出会ってから初めてのことで、わたしを迎えにいったらしいが、わたしは飛ばされた場所から転移させてもらい自分の家へ帰ったので、入れ違いになった。つまるところストーカーである。主従の誓約を結ぶ必要があるのかとの問いは、愚問だった。なんたって、お互いが呼応するのだ。より速く正確に相手にたどり着ける。どちらかが望めば、すぐに。
『昴ちゃんの名前の星が、モロッコからも見えるよ』
プレアデス星団、ここからは見えない。
『異国の空と海は、どうしてあんなにも青くて特別で、それなのに、見ていると苦しくなるんだろう。……モロッコだからかな。わたしが特別に好きな場所だから?』
由利音ちゃんは、なぜモロッコが好きなの?
『空と海の境にいつか手を触れてみたい。それは長い間のわたしの願いなの。モロッコでなら、それはきっと届くと思えた』
どうして? いつから?
『わからない。でもわたしは自分の直感を信じるよ。…………青に届きたい』
わたしの名前の星、昴は地球から410光年離れている。ここから空に向かって光の速さで410年進むことができたら、由利音ちゃんのところに辿り着けるだろうか。プレアデス星団――青団――、青い光の群れ。
月は沈み スバルの星々は沈み
真夜中はすでに去り
かくて時はすぎ 時はすぎ
横たわるは我ひとり(※1)
ギリシャの女性詩人サッフォーの詩だ。星は生命力に溢れていて、それでいてなぜか悲しい。
「…………それにしても、ほんとうにここはどこ。わたしはなぜ塔の上にいるの。落ちたら死ぬやろ、これ。もし忠犬が追ってくるとして、2日もここにいるのは辛いな。腹は減るし、お手洗いにも行きたいし。渡りびとには物理的危害は加えねぇんじゃなかったのかよ。いつかは家に帰れるとわかってても、結構泣きたいわ」
王都ではなさそうである。いわゆる教会の尖塔の先――最端――外側である。しかもむちゃくちゃ高い。生国の首都にあった空の塔くらい高いとおもう。コロス気か。たしかに空に手が届けばいいなとは思ったが…………、
「っって、まさかっ!!」
渡りびとのそのときの気分に左右されるのか!?
いまさら気づいたのかよという話ではあるが、そういえば前々々回は、夕日がまぶしくて、この国の西の端ってどんなところなんだろうと一瞬考えた。結果、王都とは正反対の街に飛んだ。ちなみに王都は東側にある。前々回は、この世界ではたしか魚はどうやって獲っているんだろうとおもった気がする。海中に飛ばされなかっただけマシであるが、港というのも疑問の答えとしてはビミョーだ。そしてそのときは夜で暗かったので、港のようすもあまりわからなかった。飛翔箱の車庫のときは、もとの世界のバスや電車の回送について考えていたのではなかったろうか。
「なんかテキトーだな」
脱力してしまう。背を尖塔の煉瓦にあずけた。暮れはじめた空に一番星が出ている。この世界にも一番星という概念はあるらしい。誓約の呪文にしろ、わたしの名前にしろ、星には縁がある。わたしは一番星を眺めながら、歴々なる衆星よ……と、うっかりなんの考えもなしにつぶやいていた。
すると、なにか光った。目の前が猛烈に光った。剣と魔法の異世界、ただならない世界の極北。極北において極北の事態。光が収斂していく、そこには鳩がいた。キリンくらいデカい白い鳩がいた。
「え、デカッッ!!!!」