プロローグ
《これは、主人公が転生する前のお話です。
読み終わるのに1時間くらいは掛かります。
転生後の話が直ぐに読みたいと言う方は、
【第1話】から見ることを『強く』推奨します。》
エピソード:ゼロ
私『俺』が目覚めるまでの物語……
朝…、独り暮らしのアパートの一室から久しぶりに聞く、うるさい携帯の目覚ましのアラームが部屋に鳴り響いた…。
重い目を無理矢理こじ開け、携帯の画面の時刻を確認する。
AM6:11と携帯のアラームが告げている。
「~…はぁ……。」
あくびではなく、ため息が出る…。
重い体を起こして、のそのそと散らかった部屋を移動し、服を着替え始める…。
「…もう、朝かぁ…。行きたく……ねえなぁ………。」
言葉とは裏腹に身体は、無造作に置かれている白いシャツに手を伸ばす。
大人2人分は入るであろうスーツのズボンに足を通し、スイカが入ってそうな上半身にスーツの上着を重ねていく。
…ふと、目に何着も着重ねられたシャツやスーツの小山を見て、また…、ため息を吐く。
「クリーニングも……かぁ…。」
鏡に映るいつも見慣れた自分の顔を目にして、またため息を着いた。
鏡に映っているのは太った体にぼさぼさで伸びきった髪の毛、指が入りそうな大きな目の熊、無造作に延びた処理されていない髭。
「…ひどい……顔だな……。」
そう小さく呟くと、俺は机に座り1枚の紙に文字を書き始める。
腕時計を左手首に捩じ込みながら時間を確認する。
時刻の針は30分の手前を指していた。
「出さなくてもいいか…。」
服の小山を眺めながら、小さく呟き、俺は部屋を後にした…。ーーーー
ーーーー…。
俺の名前は、井上和哉 35歳。
独身であり彼女はいない。
デブで年齢が彼女いない歴の俺だが、痩せればカッコいいと言ってくれる母の言葉を俺は信じている…。
だが、あまりこの事は考えないようにしている…。
俺はごくごく普通の家庭で1人息子として産まれ育ち、父と母も他界することはなく目立たず平凡に、小…、中…、高…、と学校を過ごした。
高校を卒業した俺は、大手のIT企業に就職が決まり父も母も大いに喜んでくれた…。
その日の夕食には、赤飯にカレーをかけ…、海老フライに唐揚げもトッピングされるという陸…、海…、空…のトリプルセットが夕飯のテーブルに並んだ。
中々に見たことないそれは、普通に旨かった。
俺の家は、他の家に比べたら貧しいものの、食うには困らないぐらいの蓄えがあったのだが…、産まれて初めて酒を飲み、泣いて喜んでいる父を観て、毎月少なくても指3本は仕送りしようと心に決めた……。
…しかし、いざ働いてみると内容は何処にでもあるブラック企業と大差ないことに気づいてしまった…。
縛られる長時間の労働…、大手の割りに低賃金の月収…、複雑な人間関係…、それなりに過酷ではあったがやりがいは有り、やればやるほど自分のスキルアップに繋がった。
一心不乱…。
猪突猛進…。
狂ったチャーシュー…。
仕事に没頭する俺にはそんな言葉が投げ掛けられるようになっていた。
悪口と捉えれる言葉もあったが、愛嬌で呼んでくれていると思い、あえてなにも言わない…。
できる男は何でも、『ポジティブ!』…、プラスの考えに変える!
…そう思い込むだけで例え、虐めを受けていたとしても前向きに物事を考えれる。
…時には過度のストレスが何日も続き、発散するための趣味を探しに色々なところに出掛け、体験し、模索し続けた。
結果…、俺には仕事とは別にもう1つ、一心不乱に体を打ち付ける趣味ができた…。
『ギャンブル』である…。
きちんと、親に仕送りをしてから遊べる範囲での健全な遊びである。
ただ、賭け事が好きというのもあるが自分の知っている情報と技量で明確に差が出るパチンコやスロットは、時に、甘い汁を飲み…、時に、脳からエンドルフィンという脳内麻薬の脳汁を滴流しながら財布の中身を確認し、苦虫を噛み締めたりもした…。
(※健全な遊びです。)
だが、物事は捉えようである…。
悪いことがあれば、良いこともある…。
人間…、死ぬときには良いことと、悪いことがプラス、マイナス、0になるという有名な話である…。
そんな趣味を持ち、仕事を続けていた26歳の時、俺にも転機が訪れた…。
その日は、会議の資料の片付けを押し付けられ断りきれなかった俺は、いつもなら帰宅する時間帯を大幅に越えていた…。
…ようやく仕事を終えて帰っている最中、いつもなら素通りする汚い居酒屋に目が止まる。
いつもなら、晩御飯をアパートの部屋で既に食べ終えている時間帯だ…。
「ゴミ出すのも面倒だし、たまには飲んで帰るか。」
無意識に発した言葉に1人頷き、店の暖簾に頭をくぐらせた。
カウンターに座り何を頼もうか悩んでいると、隣のテーブルから昔良く聞き馴染んだ声を耳にして顔を向ける。
そこには、綺麗に整った首まである長い髪を集めて後ろにピッチリとくくり止めている細マッチョの男性が、店のアルバイトの子に注文をしている最中だった。
「えっ、タカちゃん?」
思わず声に出てしまう。
呼び掛けられた男性は、声に反応し此方に振り返った。
「おぉ、カズやん!
久しぶりやなぁ!
一緒に食わんか!!」
どことなく、関西弁を使う気さくな男性はこちらに振り向くと、目を大きく広げ手を降り元気な声で返事をしてきた。
この手を振る男性は、斉藤隆弘。
同い年であだ名は、『タカちゃん』。
中学初めに、転校して来てから良く一緒に遊んだ同級生という仲もあってか、学生時代…、いい思い出も…、悪い思い出も…、一番と言っていいほど残っている。
俺の唯一できた親友だ。
不意にタカちゃんと遊びにいったときの事を思い出すときがある。
バス釣りをする池でルアーを木に良く引っ掻けて、糸が切られている穴場があり池の側までよく歩いて取りに行った。
…その道中、タカちゃんが足を滑らせて池に落ちてしまい、バシャバシャ手をバタつかせながら叫んだ。
「……おれ…、およげれぇへんねん!」
あの時の言葉と光景は今でも鮮明に思い出すときがある。
「ふふっ」
思い出し笑いしてから席を立ち、俺は少し学生の気分に戻った感覚に浸りながら、俺に手を振るタカちゃんのテーブルに移動した…。
久しぶりの再会にテンションが上がり到底食べきれない量の品々を注文した。
酒やつまみ、おかず等がテーブルにならぶなり楽しく食べながら昔の話や今の仕事の心境など、笑い話にしながら包み隠さず話した。
「ほんまかぁ。
俺も今、仕事が忙しいから、もしよかったら俺の勤めとる会社紹介しよか?
ちょうど今、人手不足って話が上がっとんねん。」
話の流れで、お互いの手取りの料金を聞いた時、愕然とした。
何故、こうも違うのかと…、会社への怒りが膨れ上がりブラックと酒の力も加わったこともあり、その場で『紹介して!』と即断してしまった…。
タカちゃんから聞く話では、仕事は人材派遣会社というもので、資格や経験を持っている人をより活かせる場所に派遣したりされたりする、というもので従業員がいて成り立つ会社らしい。
なので、派遣する会社側は引き抜きするのはいいが、されるのは堪えると言っているそうだ。
どっちもどっちの気がするが、話はそれで円満に終わり、俺は大手のIT企業の会社を辞めた。
退職金が出たことに驚き8年、共に働いたディスクと俺はお別れを果たした。
思えば、この選択が俺の運命を大きく変えた原因だったのかもしれない…。ーーーー
それからは、タカちゃんの人材派遣会社に即採用が決定され元大手IT企業ということもあり、話はトントン拍子で進んでいきパソコンを生かしてゲームを作る会社に派遣された。
26歳の時である。
ソーシャルゲームやオンラインゲームも、当たれば爆発的に利益を生むそれを、派遣されたこの会社は意地でも製作するのに必死だった。
そんな所に、派遣された俺は遣り甲斐があると素直に思った。
会社は経営難とかでは無かったが、会社のシンボルと言えるロゴマーク…、『T、D、S』を重ねた文字の両端に牙があるマークをゲーマーなら認知されて当たり前ってくらいのでかい会社にしたいというものだった。
面白い…。
素直にそう思い、俺は仕事に打ち込んだ……。
日本で働くと…、…いや、何処の国でもそうなのかもしれないが、仕事をするのにも、必ず嫌な先輩や上司…。
まぁ、分かりやすく言えば人間なんだが…。
そういう人は絶対に存在する…。
人間なんだから性格的に合う合わない等が出てくるのはしょうがない。
だが、俺にはそこそこのコミュニケーション力があることは自負しているし些細な事は大抵は水に流せる心の器だって持っている…。
だが、人間性がダメな奴は本当に無理だというのが俺の思っている心境だ…。
何故なら、俺の隣のディスクにその本人がいるからである…。
あまり話はしたくない…。
出来れば、出勤してから会話をせずに帰れるだけで、『今日はいい1日だった』っと思える日があるほどだ。
そんなことを思っていると隣から声が投げ掛けられた。
「あっ、井上くん!
すまないんだけど今日、お昼のお金貸してくれない?」
(…はぁ…、またかよ……。)
何の悪びれもなく、笑顔で手を出してくる狐目が特徴的なその男にため息を吐きつつ千円札を差し出す。
「あぁー、だめだめ。
今日の昼食は豪勢に行きたいからぁ、五千円持ってない?
財布忘れちゃってね。」
(…チッ、知らねーよ……。)
少し、怒ったような呆れたようなどっちともつかない言葉で返事をして軽く言ってきた男に、少しイラつかせたのか眉を潜めるも、しかし諦めたようにため息混じりで言葉を投げ掛けられた。
「『……っ!?』
…………。
木場さん…、五千円ないんで一万円でいいですか?」
思いもよらなかった返答にその男は浮かれた用な甲高い口調で口にした。
「いいよ、いいよ。
僕に貸してくれるなら、いくらでも借りるよ!」
(…なんで、五千円も無いんだよ…。)
落ち込んでいる俺の横で、浮き足立って喜んでいる……。
『じつに、腹立たしい…。』
ことあるごとに金を借してと言ってくるこの男の名前は木場まさる。
28歳で二つ上の先輩になる。
狐目で髪の色を紫に染め長髪、そして何故か今時なかなかいないオールバックに、前髪が少し出ているのが印象的な人だ。
茶色い紙切れを財布から取り出し隣に顔を向けずに手を伸ばす…。
それを受け取ると礼も言わず木場は、足早に仕事場を後に歩きだす。
周りの人間が、その茶色い紙切れを受け取る光景を目にしても、何も言わずにまた直ぐにディスプレイに顔を戻す…。
何回目の光景だろうか……。
それを見て、和哉はまたため息がでた。
無意識に少しぼーっと、呼吸すら忘れる時がたまにある…。
「俺も…、休憩にしますか…。」
無意識から意識が戻り、昼食を食べに近くの食堂の前までたどり着いた俺に、重大なことが発覚する。
財布に入っている金が五百円も無い…。
「……あっ!?
……そうだった………。」
木場さんに貸したことを忘れていた俺は、ものの十分も経っていないのに忘れたことに不安を覚え…、手帳にお金の貸し借りや重要な事を、書いていくことを日課にすることにした。ーーー
それから月日が流れ、俺は33歳になり派遣されてから7年が経っていた…。
この7年間でTDSから売り出したゲーム本数は10本。
多い方だと思うし売上も中々あった。
しかし、認知度の伸びが悪く、悩んでいた社長は息子に何か案はないかを企画書として提出するように命令を下した。
俺もこの7年でゲーム制作に加わらしてもらい、技術を学んで、何度も失敗と修正を繰り返し自分のスキルアップに勤しんだ。
その甲斐あって、俺はコツコツ確認と修正、追加要素を加えたりと繰り返し、ようやく1人で制作していたゲームが完成間近まできていた……。
いつものように、椅子の軋む音が小さく聞こえる社内で、パソコンのキーボードを涼やかに打ちながら木場が隣で、同じようにキーボードを超高速で打ち続けている、『狂ったチャーシュー』に向けて話しかけてきた。
「井上くんならさぁあ、次のゲーム作るとしたらなに作る?
私はねぇ、本格的な体感型の音ゲー作ろうかなって、企画書作ってるとこなんだけど…。
あっ、あと今日もお金貸してくれない?
昨日、財布置き引きされちゃってさぁ。」
(………嘘つくなよ、……このハゲ!)
何の悪びれもなくいつものように、狐目の男は、細い目を横目で俺に向けて手の平を『大きく』広げて金をせびる。
まるで、金額を指定しているようにも観てとれる…。
…軋む音が少し強くなったオフィス。
俺は金を返してくれと遠回しに木場に伝えた出来事を思い出し、ため息をつきそうになる。
手を止めて…、うんざりだと思いつつ、態度と顔には出ないように慎重に財布に手を掛けた。
この7年で木場に渡した額は、帯四本を越えていた事が頭を過る……。
指示された通りに茶色い紙を五枚渡すと、木場の手首に付けられた『時計』が新しくなっていることに気づき、俺は目が釘付けになった。
「なにっ?」
軋む音がでかくなる社内。
顔つきが変わり、強い口調で返してくる木場に反論も出来ず…、何も言わずに穏便に済ませる。
早く話を終わらせたかった俺は木場のいる方向に体を振り向き話の続きを再会する。
「作るとしたらオンラインでしかプレイできないMMORPGですかね…。
『ギィ』
現実のように時が進む世界観と、数多ある職業やスキルと魔法…。
『ギギィ』
今までにはなかった、自由度の高い操作性…。
『ギギギィ』
それを、全部つぎ込めれば絶対売れる商品になります。
『ギギギギィ』 」
話していくうちに段々熱が入ってしまい、俺の身体は上下に大きく揺れて、椅子がまるで『共鳴』しているかのような錯覚を覚えるほど、俺と椅子の息はぴったりだった。
その揺れにより椅子が少しずつ後退していることに気付けなかった…。
不気味だとも観てとれるそれに、木場は少しうろたえている…。
「…そっ、そうかい。
でも、そんなの作るとしたらとてつもない時間が掛かっちゃうよねぇ?
特にRPG系のゲームはバグの修復やストーリーを作る時間、ムービーの映像、あらゆる所でコストが掛かるし。
ましてや、そこにMMOも付けるとしたら…。」
やや、呆れた口調で木場が両手を肩まで上げて手の平をぶらつかせる。
「大丈夫です!。
『ギィィィィ』
Massively |Multiplayer Online Role - Playing Game略称MMOはRPGの拡張番みたいなものです。
『ギギィィィェェ』
それに、どんなゲームにも当てはまりますが、RPG系はゲーム性という基盤をきちんとできているか、できていないかだけで神ゲーにも、クソゲーにもなります。
『ギィィェェェェェ』
それに、土台はもうほとんどできていますし何なら俺が企かっ…!?
『ギィェッバギッ』 」
金属の疲労音に似た何かと渇いた音が俺の周りから突然と響いた…。
共鳴していた椅子は、興奮ぎみに熱弁して上下に揺れていた俺の体重に耐えきれなくなっていたのだ…。
俺を支えている金属製の椅子の柱が、くの字に折れ曲がり腰掛けから倒れていく…。
突然の出来事に驚き、手と腕を咄嗟に机に向かって伸ばす…。
体を支えようと伸ばした腕は、自らの体重を右腕一本では支えきれず、綺麗な曲線を描き崩れ落ちた。
その時、胸ポケットからでた『何か』が、木場のデスク下に隠れた…。
頭から床に打ちつけられ、椅子が引き出しに接着剤で固定されたかの如く動かない。
それは、誰が見ても見事なジャーマンスープレックスを椅子に決められていた。
「アァハッハハハハハハハハヒィヒィヒィヒィィィ。」
盛大な木場の笑い声がオフィスに響き渡る…。
笑い転げるように、オフィスの机でうずくまり悶え苦しみながら、腹が捩れるくらい笑っている。
木場は、自分の笑い声が大きかったと反省し笑いを静めるようにいさめる…。
(駄目だ!
落ち着け、僕!
冷静に深呼吸して心を無にするんだ!)
大きく息を吸い込み、とどめてから吐き出す。
笑いが収まり、木場はすまし顔で携帯を取り出し撮影を始める。
『カシャッ』とシャッターが鳴る音と同時に、和哉が決め技をくらう光景を思い出す。
隣に滑り落ちるはずの椅子が、和哉の机の引き出しでがっちりホールドされているのを観て木場は嗚咽の領域に達しようとしているのを必死に堪えていた。
「きっ、木場さん!
……木場さん!
……ちょっと、助けっ、助けでっ!!」
突然の出来事にテンパり、どうにかしようと、もがいてみるが腹がつっかえて上手く身動きがとれない…。
俺は必死に手足を動く範囲で、ばたつかせた。
どんなに助けを乞われても、二度と見れないそれを木場は目尻に涙を潤わせ、その光景を目と携帯に焼き付けてから、震える手を抑えて『シャッター』を押す。
笑い泣きして嗚咽に達した木場を無視して、俺の元に一人の女性が手を差し伸べてくれた…。
「大丈夫ですか…?
いのうえさん?」
手を差し出した相手の名字がいまいち、ピンときていないのか、その女性は確認するかのように倒れている男の名字を口にした。
心配そうに手を差し出しているこの女性は8個下の後輩。
中田みなみ 25歳。
髪はセミロングのストレートで身長は146cm。
女性で比べれば少し小さく、目はパッチリ開いてスタイルも良い。
何故かいつも不馴れなハイヒールを履いている。
………正直…、みなみちゃんが声を掛けてくれるなら、毎日『ジャーマン』決められてもいい。
そんなことを思って浮かれていると、受け取る手が遅れていることに気が付き、慌てて差し出した手を握る。
「…あ…、あり……ありがとう……。」
少し冷静になった俺は、数秒前の自分の状態を想像し恥ずかしさのあまり、『みなみ』の顔が見れないでいた。
俺の心情を察してくれたのか、みなみは自分を見てくれない『和哉』に向かって話しかける。
「…あ、…あの、これから私、会議の準備があるので今日はデスク戻らないんですよ。
なので、よかったら私の椅子、使って下さいっ!
じゃあ、行ってきますねっ!」
みなみちゃんからの予想外の言葉を聞き、木場が笑いを堪えながら携帯をしまい『頑張ってね!』と言われてもいない返事をしているなか、俺が言われたことを理解する頃には、『みなみ』はオフィスを出て廊下に出た後であった……。
会社にも、一応備え付けの椅子はあるが場所が遠くに仕舞われており、なおかつ狭いところに置かれている。
物を避けるのにも一苦労、掛かることは予想できた。
正直なところ…、進んで取りに行く奴などいないだろう…。
なので、使い勝手の悪い会社の安い椅子よりも俺は、どんなに高くても自分に合ったオフィス用の椅子が、疲れにくくて仕事の向上やモチベーションに繋がると自負していた…。
椅子を取り替える際、みなみちゃんの使っている椅子を観て肩を落とし愕然とした。
備え付けの椅子だったからである。
そして、背もたれも確認したら緩みきっていた。
押したら無抵抗で90度折れ曲がる劣悪仕様だ。
……むしろ、この椅子で良く働けたなと、みなみちゃんに称賛を送りたい。
椅子を貸してくれたお礼に、みなみちゃんの劣悪仕様の『椅子』をジャーマンを決め続けている俺の折れ曲がった『椅子』に交換してあげた。
もう、何を言っても始まらないので、腹をくくり仕事をする…。
木場が涼しくキーボードを打ち付けていると、段々と和哉の方から打ち付ける音が聞こえなくなっている。
不思議に思い振り向くと、和哉の手は止まってなどおらず打ち続けていた。
木場は目を見開き、自分が目にしたものを冷静に考える。
音が発生する原理は、運動量や摩擦力、接点など様々な理由がある。
だが、比較するのがキーボードならば簡単である。
ゆっくり押すと発せられる音は小さく、早く押すとあの癖になる『キーボード』ならではの特徴的な音が鳴る。
小さい頃、キーボードがあれば電源も入っていないのに無駄にボードに手を添えて打ち続けたことはないだろうか?
僕はある!
あの音は中毒性があり、なんかデキる奴っぽい代表的な一つだと思っている。
だが、『こいつ』の打つ早さは何だ!?
本当にできる男みたいじゃないか!
腹立たしい……。
木場が目を細めて見る視線の先には、指の残像が残る早さで打ち続けている和哉がいた。
まるで、タイピングでもしているかのように複雑な文字列に数字と記号を的確に入れている。
あまりの仕事の速さに、木場は自分の考えを改めると、自然と声が漏れた。
「……ほんと速いな。」
小さく呟いたのだが、全感覚が研ぎ澄まされ、『ゾーン』に入っている和哉が拾った言葉を返す。
「木場さん…。
……この椅子…、持って帰ってもいいですか?」
聞かれていたことよりも、声を掛けてきた和哉に驚き片目が少し開く。
「ん~、どうしてぇ?」
どうして、そんなことを聞くのか理解できず聞き返してしまう。
「椅子に染み付いた『みなみちゃん』の匂いを堪能してから舐め……。」
言い終わる寸前で木場が慌てて和哉の口を塞いだ。
「それ以上言ったら…、
Guilty《ギルティ》…ですねぇ。」
いつもは思っていても、口にはしない。
変態は表に出さないのが美学だと信じているからだ。
だが、今日は話が違った。
よくよく考えてみれば、嫌いな人間に自分の椅子を好意で貸したりはしない。
ましてや、あまり話したことのない人に、それも異性にだ。
中学生の頃、俺は自分の席と間違えて後ろの席に座った時の話をしよう。
休み時間終了のチャイムが鳴っている最中にクラスの1人が悲鳴を上げて崩れ落ちた……。
何事かと、皆が視線を向けて眺めていると『タカちゃん』が不思議そうに泣いている女子に原因を聞いたとたん、一瞬、顔をこわばらせてから、静かに俺に知らせてくれた……。
そんな過去をもつ俺は、椅子に対してちょっとしたトラウマを持つようになった…。
そんなトラウマを持つ俺だからこそわかる勝者の愉悦というものを感じる……。
俺の打ち込むパソコン画面には、『『鉄板』』の文字がビッシリと埋まっていた。ーーー
俺は仕事を早々に終わらせ荷物を片付ける。
自分のオフィスチェアーを買いに行くのに頭がいっぱいで、余分な荷物を引き出しにしまい足早に会社を後にした。
思えばあの時、確認していれば、あんな惨めで悲しい思いはしないで済んだかもしれない。ーーー
まさるは、新感覚の体感型音ゲーの企画書に全く手を付けれていなかった……。
何も思い浮かば無いからである。
ついでに、僕のATM君にでも聞こうかな♪♪
こいつが来てからお金が浮いて浮いて、井上様々だよぉ。
まさるは和哉が会社に派遣されて来た事を振り返る。
1度だけ遠慮しながら金の催促をしてきたから、ちょっと声を荒げて脅して、あいつの服を引きちぎったり…。
あいつの使っているパソコンに珈琲撒いて壊しちゃったり…。
休みでも、仕事中でも電話して全自動0円Ubereat代わりにしたり…。
あいつから渡される書類を受け取らず、20分間ただ、ずぅっと後ろで立って待ってるのを見たときは笑えたなぁ…。
冷や汗かきながら、泣きそうになってるのは傑作だったなぁ。
そういえば、親の仕送りがあるから無理ですって震えながら言ってきた時は、貯金切り崩してでも持ってきてねぇ、無理なら親の仕送り無くして僕に送ってよ。
『投資』だと思ってさぁ。ーーー
それ以来、なに言われても従順に言うこと聞いてくれるから何でも言っちゃうんだよなぁ。
そんな楽しい事を、思い出し終えたまさるは和哉に手を広げて話をする。
「井上くんならさぁあ、次のゲーム作るとしたらなに作る?」ーーーーー
深夜の2時過ぎ、オフィスにはまさるだけが作業をしていた。
パソコンに差しているUSBメモリを抜き取り、メモ帳の内容を書き写し終えたまさるはパソコンを開きボードを打つ。
MMORPGーーー
制作期間
約2年、入念に重ねに重ねた待望の神作。
社長の念願でもあったロゴマークの入った新作、MMORPGゲーム、希望と絶望の主人公( The road is infinite)を発売し世界的大ヒット作品となった。
このゲームは、魔法やスキル、種族や職業など組み合わせなどが無限に存在する、ことを売り文句にしてオンラインでしかプレイできない仕様になっている。
職業なども、変えたければ経験値を全て支払って変更し、新たな職に今まで取得したスキルを持った状態で次の職業に付けると言うもので、死ぬ気でプレイすれば神や魔王にだって経験を積み重ねればなれるというもの。
だが、このゲームが面白いのはここからでゲーム内のCPUキャラを殺害したり結婚もできる。
何でもありのこのゲームは、CPUのキャラを行為に殺害、死亡させた場合、奴隷という問答無用のペナルティーが課せられ、ゲームの難易度が大幅に上がるという仕様になっている。
そして、結婚とは気に入ったキャラやCPUと文字通り結婚ができるというシステムで不特定多数の条件をクリアしないと結婚申請ができないというものだ。
もし、その条件をクリアしたならクリア報酬という名目で自国から祝儀が与えられる。
CPUと結婚したならログアウトしている間に、一時間に0.2%の確率で子供が産まれるというものだ。
子供にはプレイヤーとCPUの似たようなスキルと容姿をしておりプレイヤーのサブアカウントとして保存される。
プレイヤー同士なら祝儀はなく、お互いにログアウトしている状態に確率が入るという仕様だ。
しかし、プレイヤー同士の場合は必ず双子が産まれるという制約がかかる。
ごく稀に神の寵愛や隷族の王などあり得ないスキルを与えられることもある。
この結婚というシビアな条件、転職の恩恵、奴隷制度はコアなファンはもちろん一般の人達までもが日常生活をも脅かす絶大な人気ゲームになった。
テレビでは、好きなゲームは何ですか?とのインタビューで聞かれたら、希絶の主と略されるまでになった。
「やっと、ここまで来たか…。」
俺は嬉しさとこれまでの苦悩を思い返し、TDSを重ねたロゴの会社のオフィスで1人、何とも言えない感情に浸っていた…。
ふと思い出したように、ゲーム内の自分のアカウントにログインする。
本アカウント
名前 カズ
レベル 12
種族 人間族
職業 無職
スキル ーーー
プロフィールを無視してサブアカウントの二体のスキルと動作やバグがないか確認する。
サブアカウント1
名前 ーーー
レベル 5
種族 獣人族
職業 ーーー
スキル ーーー
サブアカウント2
名前 ーーー
レベル 8
種族 ーーー
職業 ーーー
スキル ーーー
動作を確認していると、後ろからダッシュで飛び付いてくる女性がいた。
「ー…、わぁ!」
ビックリしたは反射的にボタンを押してしまい攻撃がヒットしたエフェクトが流れた…。
「びっくりしたっ!
みなみ…、今は仕事ちゅー!!」
飛び付いて反応を伺っていたみなみに最後の言葉を言い出した時に唇をキスをする『ちゅー』に変えて返事する。
いい終えてから画面に再び、顔を戻すとNPCが死亡していた…。
この一撃で死亡するのは、改善しないとな…。
そんなことを思案ていると、返事を返されたみなみは不快な表情で…。
「…やだぁー……、きもーい。」
想像していた返事がくると思っていた俺は、違った返事を真面目に受け取り目尻に涙を滲ませて声を荒げた。
「きも…、きもいとか……言うなよ!!」
何処と無く震えている声になり、みなみを見つめる。
「えっ、ご…、ごめん。
そん…、なぁ…、に…、怒るぅ…と…、思わなか…、ったから…。」
目を見開き、驚いた表情をしたみなみは両手で顔を覆い肩と声を震わせている。
木場が企画したゲーム制作に携わる事になってから、みなみとの接点が増え、付き合うようにまでなっていた。
俺の『椅子《恋愛》における鉄板の方式』の考えは、的を得ていたのである。
しかし、かれこれ付き合って1年になるというのに身体の関係どころか、キスも出来ずにいた。
そう言う事は、結婚してからでしょ!
みなみの口癖である。
現状でも、俺は満足していたが慣れとは恐いもので、今まで幸せだと思っていても、未知なる好奇心が俺を襲うようになっていた。
俺の好奇心をみなみがはね除けて、悲しんでパソコンを触っている最中に、1人の男性が後ろからみなみに声をかけた。
「遅れちゃって、ごめんねぇ。
はいこれ!最後の分ね!
一年お疲れさま!
お礼も込めて勉強させてもらったから、期待していいよぉ!
ゲーム制作も終わったしぃ、こいつはもう用済みだな…。」
いつも以上に語尾の言い方で、上機嫌だとわかり不思議に思う。
(…何言ってんだ?
……こいつ?)
訳もわからないことを言いつつ、狐目が特徴的な男は、その目と口元を大きく緩ませ封筒を手渡した。
「ありがとうございます!!
はぁーー、やっっと終わった。
最近、必用に『キス』するように迫ってきて、ほんっっっっとに気持ち悪かったんですよぉ!」
みなみは頬を膨らませ狐目に鬱憤を撒いている。
そんな顔を見て『可愛い』と思った俺はみなみに…。
「何の話してるの…?」
しかし、木場との話に夢中で返事は返って来ず見向きもしない…。
「おーい…。」
狐目に可愛らしく怒るその姿は、今まで話た事のある、『みなみ』とは少し違って見えた。
「みなみさぁーん。
おーい…。
聞こえてる?」
直ぐ側で聞こえているはずなのに、返事をしないみなみに焦りを感じ始めた頃…、みなみが信じられない言葉を口にした…。
「もー、うるさい!!!
なんで、そんなに鈍いの!?
バカでも解るように、隣で話してるのに何でわからないの!?
お金貰ってたから、あんたと付き合う振りしてたに決まってんでしょ!!
じゃなきゃ、こんなデブで不潔で変態なあんたと私が付き合うわけないじゃない!!
キスとかあんたにするわけないでしょ!!
鏡で自分の顔見たこと無いの!?
顔見るたびに彼氏ヅラして抱き締めて顔近づけてくんじゃねぇーよ!!
あんたの声、匂い、容姿、全てが私の気に障るんだよ!!
あんたは、死ぬまで一生童貞で生きるしか出来ない運命な…」ーーー
何を言われているのか…、信じられなかった…。
自分は今…、夢の中に要るんじゃないかとさえ思えた…。
彼女の吐く、暴言の数々…。
表情を見れば本心なんだと…、嫌でも理解できた…。
心臓の鼓動が速まり、息をするのも苦しくなる…。
こめかみから冷ややかな汗を滲み出しながら聞いていた俺に、狐目の男が話に割って入ってきた。
「まあまあ、そんな怒らないで…。
彼も、初めての彼女で浮かれてたんだよ…。
きっと君を、運命の人で結婚を友にする人だとか思ってたんじゃない?
…それに、君も色々買って貰って喜んでたじゃないか。ーーー
井上くんもさぁ…。
もうわかったでしょ?
全部言わせたら、夜まで掛かっちゃうよ?
君に、耐えれるの?」
暴言を吐く彼女を後ろから、優しく抱き締めて話を遮り木場は話を続ける。
「それに、君が記帳していたプログラムも役に立ったし、全部僕の立案ってことになってるしねぇ。
井上くん…。
君には感謝してるんだよぉ♪」
不適に笑みをこぼす木場は、彼氏であったはずの男の前で、彼女に大人の口付けを見せ付ける…。
「えっ……、あ…、えっ……?」
脳が追い付かない…。
理解できない…。
認めたくない…。
……………気持ち悪い。
ようやく言われたことと、目の前で男が彼女の身体を弄る様子を見てすべてを理解した。
気が付けば、顔にはこめかみから流れる汗とは別に温かくも冷たい汗が絶え間なく流れていた……。
今までの努力…。
地位と名誉…。
生きる糧も…。
己の誇りも…。
……………何もかも全て。
己の持つ全てが男に利用されていることに腹が立つ…。
苛立ち息を荒げ、こわばらせた表情をして立ち上がる。
しかし、…口が開かない。
…声がでない。
涙を堪えることが俺のだせる精一杯の反抗だった…。
自分の気弱さを、不甲斐なく感じ呪いだとさえ思えた…。
立ち上がってなにも言えない俺に男は言う…。
「そうそう、この会社ねぇ移転することに決まったんだよぉ、知ってる?
井上くんには感謝してるから、これからはもう、お金も借りないから安心していいよぉ♪
親に仕送りするなり、自分の性欲を満たすなり自分のお金だからね♪
好きに使ったらいいさ!
なにせ、移転先の次の社長は、この『『僕!』』なんだから!!
心配しなくても大丈夫だよぉ!
僕が君を絶対に派遣社員から正社員にしてあげるから♪
嬉しいだろぉ?」
男は饒舌に喋り、不満など微塵もないだろうと疑わない。
俺は男の言うことを聞き、想いを巡らせる……。
彼女と共にしたこの1年…、俺は幸せだった………。
デートに行ったときなんか、『手』を繋ぎたいけど、どう声を掛けたらいいかわからない俺の手を握ってくれて、ブランド物の店に引っ張ってくれたりしてくれた……。
初めて、俺の部屋に来たときは『カップラーメンばっかり食べたらダメ!!』って怒って、一緒に冷凍商品のご飯を一生懸命温めて、作ってくれた……。
本当に楽しかった…。
幸せだった…。
忘れることが出来ないくらい…。
だからこそ…、みなみも俺と同じ気持ちだと確信していた。
2人の愛は永遠だとわかりきっていたから……。
(きっと、俺と付き合うのが腹立たしくて木場はお金でみなみを奪ったんだ…。)
そうとしか思えない……。
それしか…、考えられない…。
じゃないと、今まで信じてきた俺がバカみたいじゃないか……。
喧嘩などしたことのない俺は、力では駄目だってわかりきってる…。
徐に俺は膝をつき手を添えて頭を下げる。
「お願いです…。
みなみを自由にしてあげてください。
木場さんの言うことなら何でも聞きます…。
靴でもゴミでもなんでも嘗めます。
だから…、俺にみなみを…、奪わないでください……。
………お願いします!!」
顔を涙で滲ませ、地に付して懇願する俺を見て身体を弄ばれていた女は声を荒げた。
《気持ち悪いんだよ!
あんた、なにさまなの!?
王子さまにでもなったつもりでいるの!?
あんたみたいな奴と、結婚するくらいなら死んだ方がましなんだよ!
あたしは誰にも縛られてなんかないんだよ!!》
怒りを露にした女は、罵倒し終わると俺に向かって唾を吐き捨てた…。
『ペチャッ…』
俺の頭の前に、吐き捨てられた何かが薄く広がっていく…。
「いいよぉ♪
何でも、言うこと聞くんだよね?」
不適な笑みを浮かべる木場。
3人しかいないオフィスで俺の声だけが大きく響く……。
「聞きます!」
満面の笑みになった木場は話を続ける。
「それ嘗めて。
そしたら、この子は自由にしてあげる。」
薄く広がった液体を指を差し、木場はおもちゃを弄ぶ子供のように命令した。
黙り帰ったオフィスで、頭を小刻みに揺らし、床に広がった何かの液体を嘗めている男がいた……。
………俺だった。
「井上くんおいしいぃ?」
「おいしいです!!」
「おいしいぃ?」
「おいしいです!!!」
その光景を見ていた彼女は、自分の吐き捨てた唾が嘗められると思っておらず足を1歩、後ろに引きずさる。
「何で、そこまでするのぉ?」
笑いを堪えながら聞いてくる木場に、思いの丈を口にする。
「愛しているからです!」
好きでもない男に吐き捨てた唾を嘗められ、想い丈を聞いた女は、あまりの気持ち悪さに、口を押さえてオフィスから出ていった。
出ていった女を横目で見ると、木場は話を続けた。
「振られちゃったねぇ……。
僕はもう、何も縛ったりとかはしてないよぉ。
始めに言ったじゃないか!
これが最後の分ってねぇ♪
だから、彼女は正真正銘、自分の意思で。
君に言葉を伝えてたんだと思うよぉ。」
「「 …………………。」」
「じゃあ、明日から会社の荷物移動で忙しくなるし、井上くんは2ヶ月くらい休んでていいよぉ♪
休みも必要だと思うからさ……♪♪」
そう言うなり、高笑いをしながらオフィスを後にした木場の後ろで、唾を嘗め終えた俺は大粒の涙を流し、『あやす者』がいない赤ちゃんのように、大きな泣き声が永遠とその部屋を包み込んだ。ーーーーー
朝、独り暮らしのアパートの一室からうるさい携帯の目覚ましのアラームが部屋に鳴り響いた。
眠い目を無理矢理こじ開け、携帯の画面の時刻を確認する。AM6:11と携帯のアラームが告げている。
「~…、はぁ…」ーーーー
アパートを出た俺は、新しくできた会社に向かう途中だった。
重い足を動かし、俺は…まだ来ない電車を車線外で待っていた…。
誰とも、あいたくない…。
しゃべりたくない…。
おもいだしたくない…。
見られたくない…。
なにもしたくない…。
………しにたい……。
電車が来る警笛音がなる…。
自然と足が1歩まえにでていた。
俺が死んでも誰も悲しまない…。
…1歩…、また1歩、足が前に出る。
電車の警笛がホームを包む。
…こんな人生…、終わってもいい…。
涙が滲む。
一生懸命育ててくれた、父と母を思い出し涙が出てくる……。
「とおちゃん…
かあちゃん…
ごめん……ごめんよぉ……。」
警笛音が直ぐそこまで迫っていることがわかる…。
「…ごめんよぉ…。
…俺……もう…、限界なんだ……。」
何度も拭うも、溢れる涙が止まることはない…。
「いきてたら…
ちゃんと、親孝行するから…
…だから、…今日だけは…、許してくれよぉ……。」
意を決して、向かってくる電車にその身を投げた。
騒ぎ出す…ホームの人々…。
悲鳴や怒号が辺りから聞こえる…。
四肢がもげ…、激痛に襲われた俺は今までの事を振り返る。
金を脅され何も言えなかった自分…、
いいように人に使い回された挙げ句、
反論も抵抗もせず…、言われるがままで…、
自殺するしか反抗手段として
行動出来ない自分に…、呆れて苦しながらも…
笑いが溢れた…。
……あぁ……
…もし…、生まれ変われるなら……
齢35歳。
井上 和哉は、人生半ばにしてその生涯を終えた…。ーーーー




