隠世(かくりよ)
幼い娘を連れて、気軽なハイキングの予定だった。
さほど高くもない山で、私は道に迷った。
辺りに霧が立ち込め、山を登っているのか降りているのかもわからない。
娘の体が霧に濡れて、凍え始めているようだったが、まだ道はわからない。
携帯電話の電波も圏外で、GPSも機能していないようだった。
急に、霧の中から鳥居が見えた。木で造られた、古めかしい鳥居だ。
行こうか戻ろうか、ためらっていると、私が来た道の方から声がしてきた。
男女のペアだったが、二人で山に来たわけではなく、やはり道に迷って一緒に来たとのことだった。
「全く道がわからなくなってしまって」
「この霧いつ晴れるのかしら」
「なにせ電波もつながらないもので」
三人で霧の向こうに見える鳥居の先に行ってみることにした。神社くらいあって、霧がしのげるかもしれない。運が良ければ誰か人がいるかもしれない。
鳥居をくぐるとすぐに、かやぶき屋根の建物が見えた。神社のような、そうでないような建物。
入り口の木戸を開けると、がらんとした土間。片隅に古びたかまどが置いてある。
「道に迷ったか」
不意に声をかけられ、辺りを見回す。
すると私たちの正面に、いつの間にか三人の老人が立っていた。
一人は白髪に長い白髭。
一人は白髪で髭は無い。
一人は禿頭で長い白髭。
「幼子が凍えているようだ」
「それはいけない。風呂を用意しよう」
「日が暮れるまでにここを出れば良い」
奥に案内されると、三つ並んだ浴場があった。
「一人一つずつ入っていいのかしら。私も冷えたし入りたいわ」
「私も入りたいです」
「もちろん構わないとも」
老人の一人が言った。そしてこう付け加えた。
「日が暮れるまでにはここを出るように」
老人たちがいなくなると、女性は思案気に首をかしげる。
「もう遅くなりそうだし、ここに泊めてもらおうかしら」
「なら私も泊まりたいですね……」
とにかく娘が凍えていたので、男女の会話を背に、私は風呂場に行った。
小さな浴室だが狭く感じない。風呂に入ると冷えた手足に温かみが戻った。娘の顔色も良くなった。
風呂は温かく、いつまでも入っていたいような、そんな気持ちになる。
だが、老人たちの「日が暮れるまでに」が気になり、私はもっと入りたいと駄々をこねる娘を急かして風呂を出た。
服は温かく乾いていた。背負っていたリュックサックも、娘のお気に入りの靴もすべて。
浴室から出ると、老人の一人がそこにいた。
「ここから出るように」
さっきは気がつかなかったが、浴室のすぐ近くに木戸があった。開けるとまだ霧が立ち込めている。
今が何時なのかもわからないまま、私は老人に礼を言って外に出た。
霧の向こうにまた鳥居が見えた。
私は帰り道を尋ねようと振り向いた。さっき出たばかりの木戸も建物もない。
するといきなり、パンツ一枚の男性がそこに現れた。先ほど女性と泊めてもらおうかと話していた男性だ。着ていた服や荷物が周りに散らばっていた。
「どうしたんですか?」
「風呂に入っていたら、いきなり『永久に共に居るなら女が良いぞ』と声が聞こえて、そうしたらいきなりここに」
霧が晴れた。鳥居の周りだけ。鳥居の向こうに沈み始める夕陽が見えた。
「早く!」
男性は荷物と服をかき集め、抱えて走ってくる。私も娘を抱きかかえて鳥居に向かった。
--鳥居の内は隠世、鳥居は隠世の門
--鳥居の内は隠世、鳥居は隠世の門
--鳥居の内は隠世、鳥居は隠世の門
老人たちの声が聞こえる。私は娘を抱いて走り、鳥居を抜けた。
途端に開ける視界。山道の下に、ふもとの集落が見えた。
「あ、あれ? あの女性は?」
服を着ながら、男性が言った。私は来た道を振り返ったが、そこには鳥居も建物もなく、ただ山道が続いていた。
あの女性は、未だに見つかっていない。
夢で見た話を物語に書き起こしました。他のサイトに掲載していましたが、バックアップを取らずに退会したので、新たに書き起こしました。