雪解け
俺の幼馴染みは気まぐれだ。
たまたま、家が近かっただけ。そして、俺が春生まれで身体が大きく、あいつが冬生まれで身体が小さいというだけ。そんなつまらない理由で、俺は小さい頃からあいつの面倒を見なければいけなかった。
甘やかされて育ったあいつは、我慢というものを知らない。周りの心配なんてお構いなしで、思い付いたらすぐに行動に移す。そうかと思えばあっという間に飽きて、ろくに後始末もせず新しいものへ飛びついてしまう。俺はずっとずっと、あいつに振り回されてきた。
「ハル」
俺の名前は義春だが、あいつは「なんか古くて長い」という自分勝手な理由で俺を呼ぶ。そんなところも腹が立つ。
「キスしてみたいんだけど、いいよね?」
そう悪戯っぽく笑って、あいつは——雪斗は、俺の貴重なファーストキスを奪ったのだ。
まだ中学に入ったばかりで、学ランにも慣れていないころだった。
◇◇◇
「うわー、寒い。これは寒い。寒くて死んじゃいますよ、ハル君」
「……黙って歩けよ」
「氷の心を持った男だね。どれ、そんな氷の男の手はあったかいのかなあ」
「ああもう!だから、やめろこのバカ!」
俺と無理矢理手を繋ごうと絡んでくるユキを押し除けながら、高校からの帰り道を歩く。空は白と青のまだら模様で、ずいぶん低く感じる。
ユキは昔からスキンシップが過剰だ。小中高と通じて、人前だろうがなんだろうが、べたべたと俺に引っ付いてくる。周囲から「お前らホモなの?」と揶揄われるたび、俺は必死で否定したが、ユキはいつも屈託のない笑顔で軽く答えてみせた。
——俺、ハルにベタ惚れだからさあ。
堂々としたその態度に、いつしか俺とハルは校内の公認カップルという称号を与えられ、「そういう設定」のキャラとして生暖かい目で見られるようになってしまった。
本当に困る。俺にそんな趣味はない。しかし線が細く綺麗な顔立ちのユキは、女子たちから「可愛い」と一定の評価を得ていた。そして事あるごとに俺は「ユキくんをよろしくね」と声を掛けられる。
よろしく、とは一体何を。
俺はただ、付き纏われているだけなのに。
「……お前の手、冷たいんだよ」
「そうでしょ。俺、心があったかいから」
「うるせぇ。何が悲しくてお前と手繋ぐんだよ」
「他に繋ぐ相手もいないくせに。カワイソー」
コートのポケットに入れて避難させた俺の手を、ユキは身体を近付けて、しつこく追いかけてきた。その手は驚くほどに冷たい。
こいつは大袈裟なくらいに寒がりで、体温が低い。雪なんて降ろうものなら、もこもこに身体全体が膨らむくらいに着込んでくる。そのくせ、手袋だけは絶対にしない。そして「手が寒いから」という口実で、俺と手を繋ごうとしてくるのだ。まったくもって理解に苦しむ。
「ねえ、なんで逃げんの? 凍傷になったらどうしてくれよう」
「どうもしねぇよ。自分で何とかしろ」
「えー、最悪。指がもげたらハルに慰謝料請求しよ」
「なんでだよ」
ポケットの中で、冷えた指が俺のそれに絡みつく。
体温が奪われそうなほど冷たい感触。身震いをしてユキを睨みつければ、手の持ち主はなぜか嬉しそうに微笑んだ。凍てつく空気のなか、白い吐息を吐く唇に目を向けてしまう。俺は腹の底が不穏に蠢く感覚に襲われた。
——思い出すな。俺の馬鹿。
そんな俺を見てユキは楽しそうに目を細め、絡んだ指に力を込めた。
「なに?怖い顔して」
「なんでもねぇ」
「へぇ、またキスしたくなったのかと思った」
「…………」
俺をからかうユキの視線が苦手だ。こんなとき、こいつは酷く大人びた顔をする。俺の心を全て見透かすような、静かな瞳がこちらを見ている。
喉の渇きを感じながら、動きづらい口で「馬鹿じゃねぇの」と吐き捨てれば、ユキは心底残念そうな声を出した。
「ほんとに? 俺はいつでもしたいけど」
「…………」
「ハルに惚れてるからね」
また、恥ずかしげもなくそんなことを言う。俺の表情がより一層険しくなったのに気付いたユキは、マフラーに口元を埋めてくすくす笑った。ほんの少しだけ、温くなった指先に複雑な気分になる。
「……ほんと、寒い」
ユキが白い息を吐きながら呟いた。その横顔は穏やかに凪いでいる。
中学に上がったばかりのころ、ユキは突然俺にのしかかって来て、ファーストキスを奪った。それどころか、セカンドもサードも奪った。その後はもう、数えるのをやめた。俺は、隙をついてキスを仕掛けてくるユキから、逃げることを諦めたのだ。
……いや、でも本当は違う。
ユキの力は俺よりもずっと弱い。いくら隙をついてくるからといって、絶対に逃げられないことはないのだ。それなのに、俺はユキが近付いてくるのを許している。にこにこと無防備な笑みを浮かべて触ってくるユキを見ていると、俺の胸はざわめいて、身体の動きが鈍ってしまう。
——ハル。好きだよ。
そう言って抱きついてくるユキを、拒絶しない俺が悪いのかもしれない。けれど、そんな風に真っ直ぐに好意をぶつけられて、突っぱねることなんてできなかった。
なぜ、という疑問には蓋をしておく。それ以上は、取り返しがつかなくなりそうだから、あんまり考えたくない。
「寒いのって、嫌いなんだよね」
抑揚のない声でユキは言う。冬生まれのくせに、と理不尽な文句をつけようとしたところで、わずかに震えるユキの睫毛に目を奪われて、俺は口がきけなくなった。
さらに本当のことを言えば、ユキがいつもキスをしてくる、というのは間違いだ。その場の雰囲気に流されて、俺からキスしたことが何度かある。
ユキと二人きりで話していると、無性に苛々して、むかむかして、急き立てられている気分になることがあった。
昔は些細なことですぐ泣いていたユキが、俺の横で憂いを帯びた繊細な表情を見せると、俺は何がなんだかよく分からなくなって、気付けば唇に触れてしまっている。
ユキとのキスは、いつだって、重ねるだけの子供じみたものだ。それなのに、俺はその感触に思考を奪われてしまう。男同士だとか、幼馴染みだとか。そんな常識的なしがらみはどうでも良くなって、穏やかな満足感だけが残る。そして我に返った俺が狼狽えると、ユキはいつも「爛れた関係だね」と楽しそうに笑うのだ。
顔を離したとき、ユキはいつだって、底の見えない色の瞳で俺を映す。その色も、俺は苦手だった。まるで、知らない人間と対峙しているような気分になるから。
「ハル、また変な顔してる!」
「してねぇよ!」
「俺に夢中になりすぎだよ」
「言ってろ、馬鹿」
あはは、とユキが声を上げる。よく笑って、よく怒り、よく泣く。ころころと表情が変わるくせに、時折その起伏がすっと消え、静けさが訪れる。もう何年も一緒にいるのに、よく分からない変わった奴。それがユキだ。
俺から見ればわがままなユキの性格も、周りからは「素直」と好意的に受け止められている。ユキは人気者なのだ。どちらかというと、マスコット的な人気ではあるが。
いちいち引っ付いてくるな、と叱ってみせるくせに、俺はユキが目の届かないところへ行くと途端に落ち着かない気分になってしまう。我ながら勝手だ。傍に置きたい気持ちと、突き放したい気持ちとが心の中で相反してはぶつかっている。
これは何なんだろう。
認めたくないけれど、これは。
ポケットの中の手は、いつの間にか温かくなっていた。
◇◇◇
厳しかった寒さは徐々に緩み、陽の暖かさを肌で感じるようになった。空の青は澄んで、雲の流れも速い。
三月に入り、俺とユキは放課後の教室に残っていた。別に何をするわけでもなく、だらだらとスマホでゲームをしながら時間を過ごす。気付けばクラスメイトは俺たち以外全員帰ってしまっていた。「お前らほんとラブラブだな」とからかう声をいなすのも、不本意ながらもう慣れた。
俺とユキは「そういう関係」として認識されてしまっているのだから、今更否定したって焼け石に水だ。否定すればするほど、逆に怪しいと囃し立てられるだけなのだから。
「うっわ、ハル何してんの!超下手なんですけど!」
「手元が狂っただけだ。お前だってさっきミスっただろ」
「はー、ないわ。過去の失敗掘り起こす人、まじでないですね」
お互いにスマホをいじりながら軽口を叩き合う。ユキはわがままだけれど、付き合いが長いだけあって気を使わなくていいから楽だ。何を言っても、何を言われても、お互い受け流すことができる。悪意がそこに含まれていないと分かるから。
「あ、死んだし」
「……いい加減帰るか」
「そうだね。有意義な時間おわり」
外はもう陽が傾き、教室を赤く照らしている。だいぶ日が長くなった。小学生のころは、日の長さなんて気にも留めなかったのに、今は分かる。それを知識として理解できるくらいには、俺たちは成長している。
毎日毎日、同じような淡々とした日々が続いている。それに不満なんてない。
スマホを置いて大きく伸びをするとあくびが出た。それにつられたユキを見て、思わず笑みがこぼれる。正面に座るユキは、俺の反応に満足そうに目を細めると、机に肘をついて窓の外を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「三年になったら、さすがにハルとは別のクラスになるかもね」
当たり前のことを言われたのに、俺は驚いて言葉に詰まってしまった。
春休みが終わって、新学期になればまたクラス替えがある。何のいたずらか、俺とユキは二年連続で同じクラスだった。でも三年目となると難しいかもしれない。ユキと離れる。それを思うと、また腹の底がざわざわした。
「……どうだろうな」
「はは。一緒じゃなきゃやだ、って言ってくれないの?」
「誰が言うか」
「俺が言う。ハルと一緒じゃなきゃやだ」
へらへらとユキが俺の手を掴む。「この節ばった指がいいですよねぇ」と鑑定するように俺の手を眺めるユキは、この上なく楽しそうだ。そして、ちゃっかり指を絡めてくる。身体で覚えてしまった、ユキの指のなめらかさ。
「ハルとの時間も残り少ないからさぁ、雪斗くんは大切にしたいわけですよねぇ」
「は? 何だよそれ」
残り少ない、という言葉につい反応してしまった。誰もいない教室は音がよく響いて、ちょっと声を張っただけで声が際立って聴こえる。ユキは少し目を見開くと、いつものように人懐っこい笑顔を浮かべて答えた。
「だって、ずっと一緒にはいられないじゃん」
高校生活もあと一年しかないんだし、と事もなげに言うユキから、俺は目が離せなくなった。
そうだ。そうだよな。ユキの言う通りだ。
高校を卒業したら、俺たちは別々の進路を選ぶ可能性があるわけで。こうして一緒に時間を潰す過ごすこともなくなって、それで。
「……なんで?」
「なんでって……。なに、ハル超食いつくね」
繋いだ自分の手が、汗ばんでいくのを感じる。こんなときでも、ユキの手は冷たくて、余計に俺だけの体温が高いように思えた。なかなか温まらないユキの指がもどかしい。
ユキは俺を見つめながら諭すように続けた。
「だって無理でしょ。仮に大学まで一緒に行ったとしてさ、その後は? 同じ会社に就職すんの? そんなことってありえる?」
「…………」
「ね? だから、あと少し」
穏やかなユキの微笑みを見て、嫌いだ、と思った。
ユキの大人びた笑い方が嫌いだ。何もかもを簡単に手放してしまいそうな、その潔い表情が俺は大嫌いだ。
お前はいつまでも、わがままでいればいいのに。俺を振り回して、困らせる奴でいればいいのに。
俺は普段とは真逆の考えをしていた。
胸の中のざわめきが消えない。吐き気がするほどの焦燥感に、まともな思考は働かなかった。ユキと繋いだ手を組み直して、俺は身を乗り出した。
驚いた顔を視界に捉えた次の瞬間に、俺の唇がユキのそれに触れる。また、掌にじわりと汗が滲んだ。
数秒間の柔らかな感触の後に顔を離すと、戸惑いを浮かべるユキがそこにいた。
「……なんで、このタイミングでキス?」
「……わかんねぇよ」
俺だって、本気で分からない。こんな風に触れたら、ユキが調子に乗る。わがままが加速してしまう。そう思ったけれど、身体が勝手に動いてしまった。
「……したいからしたんだよ」
「あのね、ハルくん。それは理由じゃないと思いますよ」
「うるせぇ」
黙ってろ、と呟いて手を引き、もう一度唇を重ねた。触れるだけの、俺たちのキス。
「ちょ、ちょっと……!」
さすがに二回目は予想していなかったのだろう。ユキは勢いよく顔を離した。目を白黒させて、恐ろしいものでも見るような視線を向けてくる。
「せ、せ、」
「せ?」
「セクハラだろそれは!」
「お前が言うな」
今まで散々スキンシップを取ってきたのはどこのどいつだ。ユキは俺から逃げようとしたけれど、残念ながら繋がれた手のせいで、それはできなかった。ユキの指先の震えに気付いてしまって、笑えた。好きだ、と繰り返し言い続けてきたのはユキの方なのに、俺から仕掛けた途端、怖気づくとは。
「ユキ」
「なに」
「俺、お前のこと好きかも」
「は?」
は?じゃねえだろ。お前も俺のことが好きなんじゃないのかよ。ここは喜ぶところだろ。
けれどユキは、口を半開きにして俺を見たまま、固まってしまった。そしてその顔がじわじわ赤くなっていくのを、俺は呆気に取られて眺めていた。耳の先まで血が巡ったころ、ユキがぎこちなく動き出す。
「え、いや、え? ハル、何言ってんの?」
「だから、お前のこと好きかもって」
「えっ……ちょ、ちょっと待って、えっ…いや、え?」
「…………」
ユキは何かを呟きながら手をあたふたと動かしてみせたあと、「ええ!?」と叫んで机に突っ伏してしまった。呻くユキの後頭部に視線を落としながら、俺は純粋な驚きを感じていた。
意外だ。意外すぎる。こんなしおらしい反応を見せるなんて。こいつのことだから、「やっと俺の魅力に気付いたか」とか言ってつけ上がるものだと思ってたのに。……それでも手を離さないところが、ユキらしいのだけれど。
しばらく待ってみたが、ユキは唸るばかりで顔を上げないものだから、俺は痺れを切らして声を掛けた。
「おい、何とか言え」
「むり……全然むりでしょ……」
「さっきの言葉、無かったことにするぞ」
「それはやだ!」
焦ったように顔を上げたユキと目が合う。
ユキの顔は赤いままで、それでいて表情は泣き出しそうに崩れていた。さっきまで見せていた大人びた余裕なんてまるで無い。みっともないその姿に俺は心から満足する。それで良いんだよ。お前はそれで。
俺はもう一度身を乗り出した。
「なあ、キスしていい?」
「え」
「いいよな」
答えを聞かずに、本日三度目のキスをしようとしたところで、ユキは「ひぇっ」と悲鳴を上げ、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。自然と、繋いでいた手も離れてしまう。ユキは動揺にぶれまくった声で言った。
「そういうのは!好きとか、そういうのは!」
「なんだよ」
「ちゃ、ちゃんと段階踏んでから言うもんだ!」
「中学入ってすぐ襲って来たのはお前だろうが」
「あああれは! 違うだろ!」
「どう違うんだよ」
ユキは「うるさいな!」と吐き捨てて、いそいそと帰る支度を始めた。面白くなさそうに顰めた横顔に吹き出すと、ユキはじろりと俺を睨んでより一層不機嫌な顔になる。
本当に、気まぐれというか何というか。
「ユキ」
「なに」
「俺、本気だから」
「…………」
口に出したらはっきりした。俺はユキが好き。だから、「一緒にはいられない」という言葉に腹が立った。
結局俺はホモだったのか、と落胆する気持ちはあったけれど、別にいいか、とも思えた。どちらにしたって俺とユキは、周りからそういう組み合わせとして見られているんだから。だったら、それを利用したら良いだけだ。
「……あっそ」
ユキはそれだけ呟くと、バッグを持って一人で教室から出て行ってしまった。うつむいて顔を隠そうとしていたけれど、過去最高に赤くなっているのがバレバレだった。
「……置いていくのかよ」
呟きは、意外と大きく響いた。暗くなってきた教室で、俺は勝手に緩む頬を押さえて、宙を仰ぐ。
なるほど、あいつは押しに弱いのか。
新たに知ったユキの一面。俺だけに見せる顔。一応これは、両思いという状態になると思うが、ユキは一体どうするつもりなのだろうか。
俺にはあいつの考え方は分からない。けれど、それでいい。振り回されるのはもう慣れてしまっている。それに、あいつのわがままを聞くのは、そんなに嫌いじゃないから。
芽吹きの季節は、すぐそこまで来ていた。