前日譚6
途中から、変異種を数え忘れた。全部で何体いたのだろうか。もはや興味もない。
無数に転がる屍の真ん中で、たった一人で立ち尽くした。真上を見ると、雲がない空がある。平和な日と何も変わらない。
しかし、現実は……。
あの人は、村長ではないだろうか。血に濡れた髪をべたりと頬に貼り付けている。道の中央で横たわり、時間が止まっているかのように呼吸がない。他にも多くの人がいるが、みんなそうだった。月に照らされた白い肌は失われた時にいる。
たった一人でよかった。生存者がほしい。求めて彷徨った。しかしあるのは肉塊となった屍ばかり。乾きかけた血の粘り気に足を囚われ、村を征く足は徐々に緩やかになっていく。
シュミスを見つけた。胸から下は見当たらない。半分だけ開かれている瞼の奥にある瞳は濁っている。
今の今まで考えないようにしてた現実が目の前にある。笑いが堪えられなくなった。血の匂いしかしない村を見れば、誰も守る人が居ないのだと十分すぎるくらいに理解できる。
生存者もいない。もし居れば、命の香りに敏感な変異種が見逃すはずがない。ほんの一瞬だけでも生者らしき物を見つけたら、命に変えても狩りに行く。それが変異種だ。
まだ誰か助けられるかもしれないなんて、非現実的な妄想でしかない。
懐から一つ、何かが落ちた。ユークアルの実だ。もう潰れていて、形は歪だった。服には果肉が残り、汁が染み込んでもいた。
せっかくカナメアのために採ってきた実なのに、これでは完全に無駄足だった。皮が割れるくらい潰れて、血に一度落ちた木の実なんて口にできるはずがない。また採ってこなければ……いいや必要ないか。
頬を伝う雫があった。雨でもあるのかと空を見上げたが、そこには雲はない。丸い月だけがこちらを見下ろしていた。
「本当にユークアルの実を採ってきたの?」
ぞくりと背筋が震える。夜風に流れて声がした。少女の声だった。
月に背を向け、その声を確かめる。しかしそこには生者の影はなかった。ただ静かに寒風が流れるだけだ。呼吸している屍はいなかった。
しかし、それなのに、やはり声が聞こえるのだ。
「これはカナメアがとても喜ぶ。立ち止まっているけど、持っていってあげないの?」
声の方向をじっと見つめると、少女の屍に行き当たった。クフォが遊んでいた子どもたちの中に居たと思う。
その子は、腕と首があらぬ方向に曲がっていた。もう一方の腕はない。彼女が黙っていたなら、痛々しくて直視し続けられなかっただろう。
「でも、もう渡す意味はないのかな。残念だけど、クルエ村は滅んでしまった」
遺体が喋っていると確信したのはこの辺りからだった。
遺体が喋るのも、それを信じ込むのも、イカれているとしか表しようがない。でも、正常だとか異常だとか、そんな些事はどうでもよかった。誰も残っていないと信じざるを得なかったのに、自分以外に意識がある者がいる、それだけで救われる気がした。
「おまえが喋っているのか?」
なんて呼べばいいのかわからず雑な問いかけになり、直後に後悔から目を背けた。
答えを期待して遺体に声をかけるなんて初めてだ。接し方に戸惑うのは致し方ない。
「……俺はもうダメだな。遺体が喋っていると思い込んでいる」
気が狂うとはまさにこうなのかもしれない。自覚症状らしい症状はないが、今まで培ってきた一般論に、遺体とお友達になるという文言は、いたずら書きを含めてどこを探しても存在しない。
もしかしたらここには死者しかいないのかもしれない。それなら、遺体と話をしていることにも納得できる。
さて、ここにいる者は残らず死者なのか。あるいは狂人がいるのか。やっぱり遺体が喋っているのか。
「そうね。私は死んでしまったんだった。お話はせずに、静かにしていないと。教えてくれてありがとう」
遺体は優しげな口調を維持してそれだけ言うと遂に黙った。遺体に相応しく生気の欠片もない。
無理な力が加わった首には血の跡がある。血流は止まって、もう流れていない。
今までの遺体の発言は、幻聴の類だと断定する。そもそも、本当に遺体が喋るとしても、首が折れ曲がっては声が出ない。声が出ないってことは、喋れないってことだ。
狂人とは、自らを俯瞰視して狂っていると断じながらも、欲に勝てない者を指し示すのだろうか。そうなら、まさにここには狂人が一人いる。
ついさっきまで喋っていた遺体に近寄った。近づけば近づく程よく見える。きっと美人になっただろう。首を折られたにしては、とても穏やかな表情をしていた。顔に恐怖はない。
ここには多くの遺体がある。人や変異種が主だ。どれも見て気分のいいものじゃないはずだが、何も感じられない。感情が抜け落ちたみたいだ。
少女の遺体の側に立っても、悲しみすらなかった。慣れとは恐ろしい。人を化け物に変える。ここにいる化け物は、命の抜け殻と枯れ草を同じ感覚で見られるらしい。
「俺が一人で生きていて、守るはずだった人たちが全員命を落としているのは、一体どういうことだろうな。命令違反の果てがこれだ」
「でも、あなたは救うためにユークアルの実を取りに行った」
また、遺体が喋りだす。
「静かにするんじゃないのか?」
「死んだら、静かにしていないといけないの?」
「自分で言ったんだろう」
「それが一般的な人間だから従ってみただけ」
足元の遺体は虚ろな目でこちらを見上げる。焦点が合うはずがないが、目が合った気がした。
喋る遺体は一体だけだった。子どもの肉体が口元だけを動かしている。この遺体だけが特別なのだろうか。他に会話を望む影はない。彼女が口を噤めば、たった一人の生き残りの呼吸音が村中を支配するだろう。小さな音が轟音になるほど、ここには動きがない。
幻覚と幻聴なら、他の遺体に動きがあってもいいと思った。どうして彼女だけが喋るのだろう。生前の彼女とは会話どころか、挨拶すらした覚えがない。
「君は他とは違うのか?」
もはや屍に問いかける行為自体に疑問もなかった。
「そうね。私は最初から生きていないから。生きているように見せていただけ」
そう言うと、遺体が動き出した。折れていた首が正常な角度まで戻り傷が塞がる。重心を無視して、浮き上がるようにして体を縦に起こすと、両足二本で体を支えた。立ったと言えばわかりやすいかもしれない。
しかし立っているだけで、顔色は死んだままだし、呼吸も心臓も動いていない。
「まるで生き返ったみたいでしょう。こうすれば話しやすい?」
声には明るさがあった。しかし血色は最悪だし、腕は折れ曲がったままだ。
「立っているだけじゃないか。まだ生きているとは言えないな」
「そうだった。つい忘れてしまうんだ。失敬失敬」
彼女に血がめぐる。開きっぱなしだった傷口から血液が吹き出した。その傷は瞬く間に塞がり、跡も消えて無くなる。血色も戻り、健康的な赤みを取り戻した。
なぜこの光景を驚かずに見ているのだろう。生者が死者になるなら幾度も見た。目の前で起きているのはその逆だ。見たことも聞いたこともない。
目の前で子どもが生き返る。これが現実なら、彼女は子どもじゃない。人間でもない。死から蘇られる人間なんていないのだから。
「おまえは、何者だ?」
見た目が子どもじゃなければ攻撃をしていたかもしれない。それくらいは動転していた。人間とは思えないからという理由で攻撃し、後になって後悔するのだ。彼女が子供の姿でよかった。
彼女はそんなこちらの心も知らない。時間がたっぷりある昼下がりのような平然とした面持ちで胸元に両手を当てていた。
「あなたは、私が私として交流した久しぶりの人。死体が話すのは変だと言いながら、生きている私に驚きを隠せない様子。変わった人ですね」
彼女は子どもの顔と体でありながら、子どもとは思えない優しげな微笑みを浮かべた。
その微笑みを見て、体内で湧き出した黒い油汁のようなねっとりした懐疑心が和らいだ。
「結局のところ、あんたは何だ。喋る死体か。死体に擬態できる特異体質でも持っていると考えればいいのか?」
「私の意味は少しだけ難解ですよ」
「わかるように説明してくれ」
「あなたが理解できることを祈ります」
「説明はしてくれるってことか。ありがとう」
彼女は小さな手を差し出した。こちらに向かって伸びる手は、掴めと主張してくる。
彼女の顔と手を交互に比べた。どうやらその手を掴まないと先に進めないらしい。
小さな手に手を重ねるようにした。小さな手はとても温かかった。さっきまで真っ青だったのが嘘のようだ。
「私は……」
彼女がそう口にした瞬間、何かが起きた。感覚の話をすると、周囲から全ての物が消失したような孤独感に包まれた。
身についていた癖から警戒を強め、魔法的な感知で周囲を見る。中範囲程度に広げた結界はその物の形と動きを全て捉える。そのはずだった。
しかしわからない。どこに何があるかは把握できたが、動きがまるでわからない。
初めてのことだった。後方にある落ち葉と思われる小さな物体が、空中で動きを止めているように感じられるのだ。
少女の手を離し、目で後ろを確認した。目を見開く原因になったのは、空中に浮いたまま落ちようとしない落ち葉だ。
「私の得意技」
少女は自慢をしたいのだろうか。そのわりには無表情が過ぎるが、胸を張っているように見えなくもない。
「これが?」
落ち葉に触れてみた。しかし微動だにしない。腕が震えるほど力を加えても、欠けすらしなかった。
「私はこういう存在です。あなたを除いた同じ今を連続させて、世界を固定させました」
世界の固定と聞こえた。言葉通りに受け取るなら、世界全てが木の葉と同じようになっている。試しに手近な変異種の屍を蹴転がしてみた。しかし失敗する。木の葉と同じで全く動かない。
「稀に魔法ではない特別な能力を持つ者がいる。それってことかな?」
「厳密には違います。私は法則そのものです」
思考が回らないのは、頭が悪いからではないだろう。法則そのものとは、妄想癖を拗らせているのだろうか。しかし実際に起きている出来事を思うと馬鹿にできない。落ち葉が完全に空中で停止している。
「あれこれ省略すると、過去、もしくは未来を再現できます。その葉っぱもそう。ほんの少し前の過去を連続して再現し続けているから動かなくなっている。本当は動いているんだけど、すぐに私が元の位置まで戻している、と言えば通じるかな?」
摘んだ落ち葉へ必至に力を加えている逆側で、少女が笑顔で落ち葉をもとの位置まで戻す姿を幻視した。
「バカバカしい? でもそれが私。あなたの名前は、セルトゥム・カロシーク?」
「どうして名前を知っているんだ? 言ったっけか? 頭の中を読めるとか言うなよ」
「セルトゥムのお仲間さんから聞いた」
「クフォか」
「そう。あの優しい人から」
クフォが優しい? そんな印象は全く無かったんだが。子どもが目の前だとそんな面が表に出てくるのかもしれない。
結局、この村で残ったのは、正体不明の少女一人だけだった。彼女も死んだようだが、今では元気だ。クフォの最後の願いを守れたのだろうか。いいや、彼女は……。
「こっちからは、なんて呼べばいいんだ?」
まだ少女の名前を聞いていない。いつまでも、おまえと呼ぶのも疲れる。
「名前はない。この肉体の名前はあるけど、私の名前じゃない」
「じゃあその体の名前でいいよ。一方的に名前を知られているのは不公平だから、さっさと教えろ」
「セルトゥムは一つ勘違いしている。私はこの少女に取り憑いていただけで、この少女ではない。そして私は自分の名前を捨てたため持っていない」
「取り憑いている?」
さっき手が触れたとき、体温があった。今は呼吸もしているし、生きていると断定するに足る情報が溢れている。だから彼女は生きている。そう考えるのが自然だ。それなのに、小さな不安が心に黒い点を作る。黒い点が邪魔で仕方がないが、除去は諸刃の剣である。それでも希望を信じて不安の排斥にかかる。
「おまえが取り憑いている、その女の子はどうなっている? 助かったんだよな」
少女の口元が表情を変えずに動き始めた瞬間に、その後に続く言葉を察した。
「セルトゥムも見たでしょう。この子の無残な姿を。還らないよ」
「そうか。そうだよな」
少女が起き上がる前の光景を思い出す。月明かりと血と死体ばかりだった。
「それで、名前は?」
まだ聞かせてもらっていない。いつまでもおまえと呼びたくないのだ。早く教えろ。
「しつこいですね。本当にないんですよ……あっ」
「あっ、ってなんだ? 名前を思い出したか?」
「これも私の名前じゃないですけど、パゼリカと呼ばれていた時期がありました。私が取り憑いていた宿主が、私にそう名前をつけたのです」
「パゼリカ?」
「はい。パゼリカ・フルーナ」
どんな名前が出てくるのかと思えば、想像していたよりずっといい名前だった。
名前がわかったところで、本題に切り出す。
「パゼリカ、教えて欲しい。この村で何があった? ずっと見ていただろ? 宿主? の女の子を見殺しにしながら」
「私にこの子を守る盾はありません。たった一人生かしても、村の崩壊と両親の死に耐えられる心は持っていなかった。村全てを救ったとしても、悲劇を遅らせるだけ。唯一助けられたとしたら、それはセルトゥムの魔法。だからセルトゥムがいる間に、変異種に襲われなければいけなかった」
涙は浮かんでいないが、その目には悲しみが浮かんでいた。パゼリカは、助けられなかった少女を大切に思っていたのかもしれない。これら全てが演技で、こちらが勝手に思い込んでいるだけかもしれないが。
パゼリカは怪しく笑った。
「ここで私からも交渉を。セルトゥム、私の宿主になりませんか? 私なら、この村が変異種に襲われる前の状態まで復元できる。今から未来の時間に、村が生きていた過去と同じ状況を作る。村そのものを、この体のように生き返らせる」
村を生き返らせると言う、パゼリカの表情には一辺の冗談もない。
「よくわかってないんだが、村を救え、そういう意味だな?」
その問は肯定された。勘違いかと思える程に小さく頷かれただけだったが間違いない。
パゼリカが続けた。
「絵本の一ページ目を複写して、巻末に差し込む。そうすると、本の時間軸では一ページ目で起こったことが、巻末でも起こるでしょう。それと同じように、変異種に襲われる直前の村を、未来の時間に差し込みます。セルトゥムはその村を救う。これで平和な村が残るわけです」
「つまり、昔に戻る? 信じがたいが……」
ついさっき、目の前で死体に血色が戻った。あれもありえない事象だった。魔法に関しては詳しい部類にはいるのだが、人を蘇らせる魔法はない。しかし現実に目の前であったのだ。
この世には知らないことだらけ。それは理解していたつもりだが、考えが甘かったらしい。
常識と非常識の境界線がぐわぐわ揺れている。今ならどんな現実離れした話でも否定できそうにない。死人に命を戻す方法があるなら、人を守る重要性が下がるのではないかと考えてしまう程だ。
「その解釈がわかりやすいなら。しかし間違っているのは覚えておいてください。得られる結果は似ていても別物です」
パゼリカは滅んだこの村を救えと言う。もう既に滅んでしまった村を救う手段はない。普通ならそうだが、……パゼリカによるとできるらしい。
眼前に広がる悲劇を防げたなら、そのための行動を取りたかった。後悔に後悔が重なり自己嫌悪が強まって押しつぶされそうなくらいだ。こちらのためにも、クルエ村の人たちには笑顔でいてほしかった。
今、正にクルエ村は滅んでいる。パゼリカが他の誰かに頼っていたら、既に村は救われていたのではないだろうか。他意を邪推してしまう。
「どうして俺なんだ? 他にもいるだろ」
「この村に来る人で、十分な力を持っているのが、ここ数年では一人だけだった」
この辺りは田舎も田舎だ。人通りがまるでないのもよく分かる。観光資源もなにもない上に、ワトワリシャ山脈のすぐ北側という、立地の悪さばかりが目立つ。変異種の目撃証言も多く、遂には変異種に滅ぼされてしまった。
確かに他にはいなかったのだろう。しかし……。
「俺たちの隊長は? あの人も実力者だ」
隊長は強い。実戦経験も十分で、無茶な戦い方は決してしない信頼できる人だ。
パゼリカが隊長の何を知っているのかと疑問だが、少女の頭はゆっくりと横に振られ簡単に隊長を否定してみせた。
「あの人はダメ。危なくなったら逃げるもの。逃げられなかったみたいだけど。それにセルトゥムの方が強いでしょう?」
少女から目をそらす。返す言葉がなかったからだ。
隊長は目標達成が困難だとみたら撤退を選択するだろう。命が掛かっているなら尚更だ。状況によっては、隊長が村を捨てる決断を下すのは想像できる。
個の実力も、パゼリカの言う通り隊長よりこちらが勝っている。対人の模擬戦での話だが、隊長に負けたことはない。対変異種になるとまた別だが、チーム内では最高戦力だった。
「わかった。正直、俺じゃないといけない理由なんてどうでもいい。とにかく、パゼリカと協力すれば、既に滅んでしまった村を助けられるってことでいいんだな?」
「半分正解。クルエ村は変異種に攻撃されてなくなった。過去の事実は変えようがない。私がやるのは、過去と同じ状況を未来に作り出すこと。私は村を生き返らせられる。でも同時に変異種の襲撃も一緒に蘇らせてしまう。その襲撃の結果を変える力がない。セルトゥムに期待するのはその力。襲撃の結果を変えてほしい。もう少し詳しく説明する?」
「いいよ。どうせ理解できない」
「そう」
不思議と、パゼリカの笑顔が尖って見えた。気の所為だろう。固まっているかのようにずっと同じ笑顔のままだし。
今後、どうするかは決めている。パゼリカの提案を飲もうと思う。クルエ村は滅びました。チームは全滅しました。なんて報告をソルクレルカまで持ち帰りたくない。ユークアルの実の採取という命令違反の果てが凄惨な結果なのだから、厳しい罰は想像に難くない。
保身のためを除いても、パゼリカの提案は魅力的だ。一度滅ぼされた村を救える。失敗をやり直せるなんて、これより甘い果実があるだろうか。こんな悲惨な村はあってはいけないのだ。救わなければいけない。
「クルエ村を救えるなら、やろう。宿主になればいいんだっけか? 宿主になって変わることは?」
「いつでもどこでも、私とお話ができます」
「他には?」
「生活の全てが私に覗かれるかもしれない」
「痛みがあるとか、寿命が減るとかは? 記憶力に変化が現れたり、自分の意思がなくなって、この体をパゼリカの精神が支配したりしないのか?」
「しないよ。でもそう、死ぬまで一緒になるくらいかな。セルトゥムの心は奪わないから、そこは安心していいですよ。そんなことは出来ません」
「わかった。信じよう。それで、どうすれば宿主になれる」
「その前に、お願いがあります。一つは今回の件を秘匿すること。ここでの会話、すべての出来事も。クルエ村が滅んだ話もです。もう一つは」
パゼリカの口が止まる。なぜかはわからないが止まった。お互い無言で見合わせ、少しの時間が経過する。いつまで続くのだろうと先に思ったのは、おそらくこちらだ。顎でパゼリカを促した。
「いつかで構いません。行きたいところがあるので、そこまで付き合ってくれません?」
「それくらい、もちろんいいさ。場所によるけど。フィマハクネだったら諦めてもらうしかない。ハシュバだったら、まだなんとかできる。これが限界だ」
「何の価値もない場所です。私の故郷」
「故郷に帰りたいってなら、許可もいらない。どこなんだ?」
「世界の向こう側。もはや存在していた痕跡すらない、枯れきった世界」
「枯れきった? もしかしてフィマハクネか?」
「いいえ、違います」
「ハクネじゃないなら、なんとかなるかな? 確約はできないけど、それでよければ」
「ありがとう」
一瞬だけ、この場所が晴れたような気がした。勘違いで間違いないだろう。ここには死体の山しかないのだから。
勘違いでも、そう感じられたのは事実なのだ。それだけで気分が少し明るくなった。変異種の死体と、村人の遺体ばかりのこの土地で気分がいいなんて、精神異常もいいところだ。
「もう俺に訊いておくことはないか?」
「セルトゥムは質問ないの?」
「クルエ村の人たちを今からでも救えるなら、他は些事だ。関心事たり得ないね」
聞いた限り、宿主になる欠点はなさそうだった。本当に些事だと思っている。
「本心からそう思えるのは凄いことよ。私とは違う」
じっと此方を見る目が潤んでいる。
「私の言葉が全て嘘だとか考えないの? 会ったばかりで信用してもらえるのは嬉しいけど、信頼しすぎるのは、ちょっと危ういんじゃない?」
「自分で言うかよ。……もし頭から嘘だったら、嫌うくらいはするよ」
「それなら大丈夫。私は嘘が苦手だから」
「なんだ。パゼリカも嘘を言うんじゃないか。言う通り、信頼しすぎないようにしよう」
静かな村に小さな笑い声だけが広がる。とても小さな笑い声だったが、あまりにも静かだからよく響いた。いくら遠くまで広がっても、その声は無意味に消えていく。周囲には人も変異種もいない。他に笑い声を聞く存在はなかった。
「宿主になるには、どうしたらいい? 立っているだけでいいの?」
小さな手が差し出される。
「よろしく」
間違いなく握手を求めてのことだ。しかし本当にそうなのだろうか。相手は正体不明で理解不能な存在だ。少なくとも、死体を蘇らせられる能力がある。そんな相手に常識が通用するとは思えない。
低い身長から、斜め上に伸びる手は、遠くにいる誰かへの挨拶にも見える。手のひらが上を向いているから、それはないか。
じっとしていると、痺れを切らしたパゼリカが足音を立てながら近づいてくる。
「よろしくの握手!」
そう言って、こちらの右手を奪っていった。
身長差のため斜めに張った腕が揺れる。少女の明るい顔は、ずっと見ていられそうなくらい安心できた。