風魔韻旅情-旅の始まり-
ゼルコバ共和国立魔法騎士養成学院。
通称、アカデミー。
そこに勤める教師の一人に、フマインという名の者がいた。
彼はいつものように、自分の弟子である少年と組み手をしている。
そして、これもいつものように少年を軽々と放り投げてその組み手を終わらせた。
ドサッという音と共に地面に落とされたバナー。
そのまま動かなくなる。
もしや打ち所が悪かったかと心配になったフマインが駆け寄ろうとした瞬間。
「だぁー!!また負けた!!一回も勝てねぇ!!!くーやーしーいー!!!」
地面に寝転がったまま手足をジタバタするバナーを見て、心配が杞憂だった安堵と、感情を表現し過ぎな弟子に対するおかしさが相まって苦笑してしまう。
「悔しいという気持ちがあるのはいい事だ。その気持ちが無くなってしまうと向上心まで無くなってしまうからね。それに、二年前の春からほぼ毎日稽古を付けてきた身として分かるよ。バナー君は確実に強くなってる」
「ホント!?」
ガバッと起き上がり、顔を輝かせる愛弟子。
「うん。一瞬の状況判断も以前より早く的確になってるし、こちらの攻撃もよく躱せるようになってきてる。これからは少しずつ、攻撃から防御、防御から攻撃へ、スムーズに繋げる方法を探ってみたらどうだろう?」
「あー、それも分かっちゃいますよねー。どうにも、その辺が上手くいかなくて気持ち悪いんすよ。カウンターが上手く出来ないというか…」
「カウンターは狙って出来る事は少ない。こういう攻撃が来たらこう返そう、などと考えていても、大抵そんな攻撃は来ないからね。自分が相手より格上ならば、相手の攻撃を読めたりするが、バナー君が相手取る人でそういう人はいないんじゃないかい?」
「その通りですよ師匠ぉ〜。俺もユウもアサギも組み手好きだから実力も差が付かなくて。マナや師匠にはいつも一瞬でやられちゃうし…前から聞きたかったんですけど、師匠はどうしてそんなに強くなったんですか?」
「どうして、か… ちょっと長い話になるけど、いいかい?」
「モチロンっす!!ユウ達はまだ授業あるし、マナもどっか行ってるし、是非聞かせてください!!」
「ふむ。じゃあ休憩がてら縁側で話そうか。お茶でも飲みながら」
道場の裏手にはフマインの住居があり、いつもはその間にある庭で組み手をしている。
住居側には縁側があり、休憩時間はそこでのんびりするのが常になっていた。
今もそこに二人で座り、バナーが淹れてきたお茶をすすりながら、歴戦の強者は静かに語り出した。
◇◆◇
トキョウ。
共和国や帝国がある大陸から遥か東。
日出ずる国と呼ばれる、海に囲まれた小さい島国である。
ユウ達が生きる今より百三十年程前、この小さな島国で血で血を洗う程激しい内戦があった。
その頃は国の名をオエドといった。
遥か昔から、この島国は独自の社会形成がされており、そこで独自に培われた技術発展の様相は他国に類を見ないものになっていた。
取り分けて刀鍛冶などの鋳造技術は、現在でも全世界最高の技術を誇る。
当時、オエドを支配していたのは将軍という位を持つ貴族達だった。
その貴族達の最高位に位置するのは大将軍。
大将軍はオエド全国の政治、軍事、司法などの、およそ国民に関わる全ての事を掌中に収め、支配していた。
弱者に厳しく、強者に甘い。
そんな階級差別的社会が長らく続いている。
フマインが生を受けたのはそんな時代だった。
オエドの中心であり将軍が住まう天上の都・トクガワ。
大将軍を歴任している家系の名前から取られたその大都市から、遠く離れた西国の小さな島。
フマインはそこで生まれ、そこで育った。
優しい父母と姉に囲まれて伸び伸びと育っていた少年。
貧しいながらも充実した暮らしだったと言える。
しかし、そんな寧日は突如として終わりを告げた。
ある日の深夜。
騒がしさに目を覚ましたフマインは、自分の部屋の窓から見える見慣れた町が、轟々と燃える様を目の当たりにする。
混乱する頭の中で真っ先に考えた家族の事。
家の玄関へと足を向けたフマインを、その部屋に飛び込んできた影が制した。
その影の正体は敬愛する姉。
姉自身のお腹辺りまでしかない身長のフマインを抱き止め、安心させようとして笑顔を向ける。
しかしその表情はフマインが今まで見てきた姉の優しい笑顔から、遠くかけ離れたものだった。
誰のものか分からない血がベッタリと付き、振り乱された髪がその血と絡まり合い顔に張り付いている。
そして、いつも優しく髪を梳かしてくれた手には短刀が握られ、その刀身もまた誰かの血で濡れている。
「ねえさま、なにがあったの? とうさまとかあさまは?」
幼いながらも只事ではない事態が起きていることを察したフマインは、震える声で姉に尋ねた。
だが姉はそれには応えず、荒い息のまま話し出した。
「いいですかフマイン。私にしっかりとついて来なさい。この町はもうダメ… 幕府の連中にここがバレました。ここから逃げますよ!」
「にげるって…? とうさまとかあさまは!?」
「来なさい!!」
姉に手を引かれ、家の裏口から飛び出したフマイン。
二人の足は、すぐ目の前に広がっている深い森の中へ。
無造作に伸びる枝葉で腕や脚を切りながらも彼女たちは走った。
後ろからは悲鳴が絶え間なく聴こえている。
どれほど走っただろうか。
気付くと、そこは山の中腹の開けた場所。
生まれ育った町ははるか下の方に見え、町全体から火の手が上がっている。
足は鉛のように重くなり、全身から汗が吹き出した状態で立ち止まった二人。
姉はフマインの前に屈み込み、着物の懐から紐閉じの書物と短刀を取り出し、それをフマインに渡す。
「いいですかフマイン。わたしが導けるのはここまでです。ここから先はあなた自身の足で道を見つけなさい」
「え…?」
フマインはその時ようやく気付く。
姉の左の腹部からおびただしい量の血が出ている事に。
その血は着物を下まで伝い、足首にまで達している。
その夜は満月まであと数日の十三夜月。
薄曇りの空から木洩れ出た月明かりが、姉の顔を照らす。
その表情はさっきとは打って変わって、フマインが今まで見てきた中で最も美しかった。
顔にこびりついていた血は汗によって流れ、張り付いていた髪は走り続けたせいで後ろに流されていた。
そして汗によるものではない一筋の雫が、姉の左頬を伝う。
「生きて。その書をわたし達に代わって守り通して。こんな国捨ててしまっても構わない。あなたが日々を健やかに生きていってくれれば、それで、もう…」
ぐらり。と、姉の体が傾いだ。
「ねえさま!!!」
姉は地面に倒れ伏し、呼吸は次第に浅くなっていく。
「日々の努力を怠らず、優しくされたら感謝を。そしてあなたが接する皆さんに笑顔を向けなさい。さすれば、望むものが与えられるでしょう… 生きて… フマイン…」
フマインが握る姉の手から、一切の力が抜ける。
体を揺すっても、どれだけ声を枯らし名を呼んでも、その瞳はフマインを映さない。
彼が愛したあの笑顔はこの時、永遠に失われたのだ。
そこからどこをどう歩いたか覚えていない。
気付くと彼は、見知らぬ天井を見上げていた。