03F ヒバリの魔法
――同時刻。
とある街の住宅街。その外れに建てられた築数十年の古いアパートの前に、一台の黒塗りの車が停車していた。
外からは内側が見えぬよう、スモークフィルムの張られた車体。その助手席のドアが開けられ、中から一人の女性が顔を出す。
歳は二十代前半といったところだろう。モデルのようにスラリと引き締まった長身に、否が応にも人目を引く銀髪を後頭部で束ねている。
黒のパンツスーツをかっちりと着こなした彼女は、かけていたサングラスの隙間から鋭い鳶色の瞳を覗かせ、正面のアパートを見据えた。
「ここで間違いないのですね?」
「おう、おたくさんから提供されたデータが確かならな」
キッと、まるで親の仇を見るような目つきのまま、女が尋ねかける。それに答えたのは、運転席側に座っている無精ひげを生やした男性だった。
女性と同じく黒のスーツにネクタイ姿の彼は、しかし彼女とは対照的にだらしなくハンドルにもたれ掛かりながら語る。
「この街で小規模な《門》が開いたのが五日前。その後の追跡には手間取ったが、今もここから観測されている魔力波長と、おたくから提出されたデータはほぼドンピシャで一致してる。まさか勘違いでしたってオチはないだろ」
「そうですか……ならば、一刻も早く乗り込みましょう」
「おいおい、物騒だなぁ。ここは真昼の住宅街だぞ」
男の言葉に女は険しい表情のまま小さく頷き、車内から布に包まれた一メートル強ほどの長さの棒状の物体を取り出す。
それを頭が痛そうな様子で眺める男。一瞬、やめさせるべきかとも考えたが、彼女が一度こうと決めたら頑として譲らないことを知っていたため、結局はため息を一つ吐くに留めた。
「いいか、実力行使は最後の手段だ。あくまで穏便に。俺たちの仕事はこれ以上事態を大きくさせず、何事もなかったかのように収束させることだ」
「わかっています……ええ、わかっていますとも」
あ、駄目だこれ……全然聞いてねぇ、と。
表面上は冷静そうだが、軽く目を血走らせてアパートから視線を外さない女に、一応は釘を刺そうとした彼はガシガシと髪を掻き毟った。
この明らかな人選ミスに、仕事を振った上司を恨む男である。
「さあ、行きましょう。部屋は何番ですか?」
「…………205号室、二階に上がって突き当りの部屋だ」
意気揚々と表現するにはあまりにも荒々しい威圧感を撒き散らしながら、彼女は真っすぐ階段を目指す。
「まったく、せめて派手な騒ぎは起こさないでくれよ」
慌てて車から降りた男は、その背中を追い掛けながら誰にともなくそう呟くのだった。
*
そもそも、異世界人にとっての魔法とは、神々から与えられた加護の一種であるらしい。
人間が本来持ち得る才能や機能ではなく、文字通り超常の存在から下賜された力が、人の意志によって形を持ったモノ。それを人々は魔法と呼称しているのである。
ゆえに、シャルの世界では魔法が使える人間と、そうでない人間は明確に区分されている。
これは努力すればどうにかなるという話ではない。生まれながらに《天恵》と呼ばれる神々の祝福を持たない人間は、どう足掻いたところで魔法を扱えないのだ。
そして、それはつまり……異世界人ですらない地球人の俺は、逆立ちしたって魔法を使うことができないという事でもある。
――たった一つの、裏技とでも言うべき方法を除いて。
「ほら、ヒバリ。もっと身体の力を抜いて……私にすべてを預けるように」
「あ、ああ……」
耳をくすぐるシャルの吐息と囁き。人形よろしく背後から抱きすくめられた俺は、背中越しに伝わる彼女の体温に動揺から抜け出せずにいた。
何だこれ? どうしてこうなった?
切っ掛けは、『魔法を使ってみたい』というありふれた一言だったはずだ。
それがどういう訳だか、会って五日の美少女との濃厚すぎるディープキスを経験し、更にはこうして一分の隙間もなく密着された状態で、彼女の指示に従わなければならない状況に陥っている。
曰く、これが最も魔法を使う感覚を共有しやすいのだという。
いやいや、天恵や加護がどうだと言う話は何処へ行ったのかと。
思わず疑問を覚えずにはいられなかったのだが、他でもないシャルにそう断言されては強く否定もできず、俺は半ばなし崩し的にこの状況へと持ち込まれてしまっていた。
しかし、いくら寝食を共にした仲だとは言え、やはりこの体勢はやり過ぎではないだろうか?
確かに、俺とシャルの関係は悪いモノではなかっただろう。だが、ここに至るまでが突然過ぎてどのような反応を示すのが正解なのか、生まれてこの方恋人の一人も作れない俺にはサッパリわからなかった。
正直、かなりヤバい。詳しくは言えないが、少しでも気を抜けば一生シャルに軽蔑されてしまう様な事になりかねなかった。
「もう、ちゃんと集中してよ! 私の心臓の音を聞いて、それに合わせるようなイメージで」
俺の気が散っていることが伝わってしまっているのだろう。不満げなシャルはさらに腕に力を込め、俺に身体を押し付けてくる。あ、意外に大きい……じゃない。
ギュムリと間でつぶれた二つの柔らかな塊の感触を必死に意識から追い出し、ひとまず俺はこの場を切り抜けるため彼女のアドバイスに従うことにした。
「緊張しなくていいから。まずは肩の力を抜くところから始めて」
「わ、わかった……」
邪念を捨て去るべく目を閉じた暗闇の中で、俺はゆっくりと息を吐きながら強張った肩の力を抜く。
すると、とくん、とくん……と、今まではわからなかった心臓の鼓動が響いてくる。シャルが生きている証、穏やかな熱のこもった音色だ。
常に一定のリズムで刻まれるそれは、次第に俺の中から不純な煩悩を取り除き、まるで夢を見ているかのような感覚に精神を誘い始める。
「そう、それでいいの。そのまま息を大きく吸って……吐いて…………もう一度吸って」
「すぅ……はぁ…………」
言われるがままに深呼吸を繰り返していく内に、いつしか俺はゆっくりと身体が溶けだしていくような不思議な錯覚を味わっていた。
足先からふくらはぎへ。指先から二の腕へ。身体の末端から徐々に感覚が曖昧になっていくにも拘らず、俺は不安を覚えるどころか心地よい安堵感に浸っていた。
「もっと、もっと深くまで教えて……ヒバリの心を」
後ろのシャルと呼吸を重ね合わせる。さらには鼓動を重ね合わせる。ついには意識を重ね合わせる。
ゆっくりと、同調を深めていく。額に汗が滲む。心を覆い隠す外殻を一枚一枚、丁寧に処理して潜り抜けていく。
目指すはすべての物理的な柵や境界を捨て去り、剥き出しの精神同士を通い合わせた極致。魂の最奥――
「あ――見えた」
唐突に、頭の中で視界が拓ける。
多大な時間を掛けながらもその場所にたどり着いた瞬間、ふと、俺は彼女の中に眩く力強い輝きが存在していることに気がついた。
本能で理解する。これが神々の祝福なのだと。
そしてそれは、いつの間にか俺の中にも存在していた。
シャルと比べればずっと小さく弱々しい、けれど確かにそこにある光へと、俺はそっと指を伸ばす。
「うん……ちゃんとヒバリも加護と接触できた」
耳元でシャルが何事かを呟いたよう聞こえたが、それを気にする余裕なんてない。
一度自覚さえしてしまえば、そこから力を引き出すのは蛇口を捻るよりも簡単だった。
「――光よ」
細い糸を手繰り寄せるよう、慎重に流れを作る。それを束ねて人差し指へと集めれば、ポッと豆電球のような光が指先の宙に出現した。
「でき、た……?」
マジマジと、俺は自身が生み出した光を見つめる。
今にも消えてしまいそうな、電化製品で簡単に代用できてしまう程度の明かりであろうとも、これは間違いなく俺が発動させた魔法である。
「や――」
やった。その一言を俺が発するよりも先に、背後から襲って来た衝撃によって言葉に詰まる。
「やったわね、ヒバリ! ちゃんと魔法が使えてるわ! それも光の魔法だなんて、凄く珍しいのに!」
ブンブンと遠慮もなしに肩を掴まれ、身体を振り回される。ともすれば俺よりも喜んでいるシャルに、俺は微笑ましい思いで頬を緩ませた。
無論、俺も興奮している。歓喜している。
だけどそれ以上に、今はこの目の前の少女の存在が愛おしく思えた。先程の濃密な体験が心と身体の両方に刻みつけられているのだろう。これまでよりもずっと身近に彼女を感じられた。
ありがとう、と。
自然、湧き上がってくる感謝の念を口にしようと、俺はシャルに向き直る。
――が。
ピンポーン、と。そんな俺の行動を挫くかのようなタイミングで、インターホンの音が部屋に響いたのだった。