01F ある日の夜道、拾ったのは――
一瞬、俺は自身の頭がおかしくなってしまったのかと錯覚した。
それは十二月初めの、肌寒い風が容赦なく吹きつける寒空の下。暗いアスファルトの夜道を点々と照らす電柱の寂しげな明かりの下で、俺は彼女を見つけてしまった。
――『ひるつてくたさり』。
ミミズが這いずり回ったような、小学生でもまだ綺麗に書けるだろう誤字だらけの木版を抱えた少女。多分、『ひろってください』と伝えたいのだということはわかる。捨て猫にでもなったつもりなのだろうか?
見た感じ、歳は俺よりも幾分か低い。おそらく中学生か、もしくはギリギリ高校生ほどだろう。
真夜中の暗闇でも目立つ太陽の如き金髪を腰まで伸ばし、着ているのは童話の世界から飛び出して来たかのような煌びやかな薄青色のドレス。肌は処女雪のように白く透きとおり、手足は妖精のように華奢だ。
「くしゅっ!」
まるで等身大に作られた精巧な人形のように美しかったが、彼女は自身が生きた人間だと主張するよう一つくしゃみをする。
当然だ。雪こそ振ってはいないが、こんな寒い日にあんな薄手の装いでは、風邪を引いたっておかしくない。
ズズッと真っ赤になった鼻を啜る少女の様子に、俺は彼女が血の通った人であることを再認識する。
しかし、何故?
だが、次に浮かび上がったのは、こんな夜道にあのような目立つ格好で、一体彼女は何をしたいのだろうかと言う純然たる疑問だった。
まさか本当に捨てられたペットのように、拾ってくれる人が現れるのを待っているわけではあるまい。ドラマか何かの撮影でもしているのだろうか?
気になって周囲を見渡してみるが、近辺には俺と少女以外の気配はない。
シンっと静まり返った野外には、夜風と俺たちの呼吸の音ばかりが響いていた。
と……そこで俺は、少女の素性に関するもう一つの仮説に思い至る。
可能性としては、宝くじに当たるよりもずっと低い。けれど、もはやそれ以外には考えられない推測に、俺は額に手を当てて星空を見上げた。
「マジかよ……」
思わず、自身の幸運とも悪運ともわからぬ運命に呟いた。
そう。つまりきっと、彼女はいわゆる――
「っ!?」
ぐうぅ~、と。
そこで、少し離れた俺の耳にまで届く腹の音が聞こえてきた。
無論、鳴らしたのは件の少女である。
「うぅぅ~!」
彼女は顔を林檎のように真っ赤に染め、人目もないのに恥ずかしげにお腹を押さえる。しばらくは歯噛みしながら悔しそうに唸っていたが、やがて何かを諦めたかのように一つ息を零した。
何と言うべきか、見ているだけでこちらまでひもじい思いが湧き上がってくる。
チラリ、と俺は手元に視線を落とす。そこには先程コンビニに寄った際に、夜食として買ったサンドイッチの入ったビニール袋が握られていた。
……きっと、ついつい捨て猫に構ってしまう人というのは、皆このような気持ちだったのだろう。
俺はため息とともに覚悟を決め、曲がり角の暗がりから少女の下へと足を進める。
彼女もこちらに気づいたのだろう。近づいてくる俺に警戒するよう、僅かに身体が強張ったのが確認できた。
「あー……あの、だな」
「…………」
数字に直して、おおよそ二メートル弱ほど。互いに手を伸ばせば指先が触れ合いそうな距離を開けたまま、俺は少女に話しかける。
いや、しかし。こういう時はなんと声をかければいいのだろう。下手すれば……いや、普通に今の俺って不審者一直線コースなんじゃなかろうか?
そもそも言葉は通じているのだろうか? 相手は見るからに外国人特有の容姿をしているし、何より俺の想像通りなら、地球上の言語が一切通じない可能性すらある。
今更ながらに、バクバクと派手に心臓が高鳴ってきた。ここで彼女に悲鳴の一つでも上げられれば、きっと明日の新聞には俺の名前が載ることになるだろう。
じいぃ……と、少女は警戒心の強い野良猫のように、困り果てる俺の顔を見つめてくる。
その星屑を閉じ込めた大粒の宝石の如き蒼色の瞳に覗き込まれ、内心の焦燥と怯懦を見透かされたように感じた俺は、半ば自棄になって持っていたビニール袋を突き出した。
「これ、どうぞっ!?」
「っ!?」
勢いよく差し出された腕に、ビクリと肩を震わせた少女。幸いにもこちらに害意がないことは伝わったようで、おっかなびっくりといった態度でビニール袋を受け取った。
しかし中を覗き、それが食べ物だとわかったのだろう。怪訝な表情からパッと花が綻ぶような笑顔を浮かべた彼女に、俺はようやく安堵の息を吐く。
だが、やはりこれで確信してしまった。
「? ???」
サンドイッチの包装を不思議そうに観察し、四苦八苦しながら剥がしている少女の姿は、到底現代を生きる若者のものとは思えない。
ましてや、透明なビニールを訝しげな顔で観察する様子は、外国人のものですらないだろう。
――異世界人。
今からちょうど一年ほど前、地球各地で開かれた《門》を通じて繋がった異世界の人間たち。
魔物と呼ばれる危険な生物が生息し、魔法なんて不可思議な力が存在する、本来ならば互いの存在すら認知できなかったはずの世界の住人が今、俺の前にいた。
「どうなってるんだよ、これ……」
現在、《門》が開いたほとんどの国で、異世界人との交流は制限されている。
理由としては、まだ向こう側の安全が確認されていない、条約の締結に難儀しているなど色々と報道されてはいるが、本当のところはわからない。
少なくとも現段階で、実際に彼らと会えるのは、一部の政治家や研究職に就いている人などに限定されていた。こんな道端で偶然に遭遇するような存在じゃない。
では、やはり彼女は異世界人などではなく、ただの世間知らずな外国人なのだろうか? いやいやそれこそあり得ない。
俺はようやくビニール包装を破き、サンドイッチにありつけた少女を眺める。
どこか気品を感じられる仕草で、小さく一口ずつパンを齧っている姿は、そんじょそこらの金持ちが形だけでも真似できるようなモノには思えなかった。
さて、これはどうするべきなのだろう。
善良な一般市民としては、警察に一報を入れるのが正しい行動なのだろう。例え異世界人じゃなくたって、こんな夜中に出歩く少女を保護しない理由はない。
けれど、そんな常識的な判断と相反する、興味と好奇心に由来する思考が、俺の中に芽生えていることも否定できなかった。
チョンチョン――と。
考えに耽っていると、気づけばサンドイッチを食べ終えていた少女が俺の着ているコートの裾を引っ張っていた。
下から見上げてくるアイドルも裸足で逃げ出す可愛らしい顔立ちに、不覚にもドキリと胸が跳ねるのを自覚する。
「あー……、いぅー……ぇえぉ?」
彼女は何度かたどたどしく口を開き、その後ブツブツと何事かを小さく呟いた後、驚くべきことに流暢な日本語で語り掛けてきた。
「食べ物を恵んでくれてありがとう、通りすがりの親切な人! とっても美味しかったわ!」
「え? ああ、うん。どういたしまして?」
てっきり日本語が話せないとばかり思っていただけに、俺は盛大に戸惑ってしどろもどろな返事をしてしまう。
そしてその姿が滑稽だったのか、少女はクスクスと口元に手を当てて笑いながら、グイっと一気に距離を詰めてきた。
「ねえ、貴方の名前を教えて?」
「な、名前!? ひ、雲雀 奏多だけど……」
「ヒバリ? 素敵な名前ね!」
ギュッと手を握られる。重ねられた柔らかな手のひらの感覚にカッと頬に血が上り、頭の中をにぎわせていた混乱に拍車がかかった。
「あのね、ヒバリ! 私、貴方にお願いがあるの!」
「おね、がい……?」
鼻先が触れ合いそうな程の至近距離まで、彼女の美貌が迫ってくる。吐息がくすぐったく首筋を撫で、俺の視線は少女の柔らかそうな唇に吸い寄せられていた。
やばい。くらくらする。はなれなきゃ。あまいにおいが。あれ。いや。おいしそう。でも。ぱんくずついてる。あれ?
カラカラと思考が空転する。ブツ切れの単語ばかりが浮かび上がり、もはや意味ある言葉として繋がってくれなかった。
そして、そんな混迷の絶頂に陥っていた俺へと、まるでちょっとしたお使いを頼むかのような気軽さで彼女は告げる。
「私を拾って! 貴方の家で暮らさせて!」
「わ、わかった」
――我に返った瞬間、俺が頭を抱える羽目になったのは言うまでもない。