第2話 逆らえない引力
文化部の部室は、十字塔と呼ばれる旧校舎にある。
帰宅部の俺にとって、まったく用のない場所。
その3階。
桐原が所属する「音楽文化研究会」なる、存在すらも怪しい同好会の部室は、
部室とは名ばかりの、音楽用の機材倉庫だった。
「・・・なんだこの部屋」
答える声はなくて、それは空気に吸い込まれた。
かつて「音楽室」として使っていたその部屋は、
パンチングボードのような防音壁が、今でも機能している。
ガランとした空間の端に、バリケードのように積み上げられた、机とイス。
その横に、役目を終えた足踏みオルガン。
五線の引かれた、薄汚れた白板の下に、
まだ使えそうな大量の黒い譜面台が、絡み合ったように立てかけられている。
「葬式かよ・・・」
俺にそうつぶやかせたのは、何より異様な「床」の光景。
中身があるのかないのか、黒い楽器のハードケースが不規則に並んでいて、
その中央には、バイオリンの親玉みたいな巨大なケースが、口を開けて横たわる。
「桐原・・・?」
彼女との待ち合わせに彼女がいた。
当然の事なのに、俺は驚いた。
彼女はまるで、棺桶に横たわるように、ケースの中で、目を瞑っていた。
時間がとまったように、そこだけ違う空気が流れているような、奇妙な錯覚を覚える。
眠っているのかと思ったけど、すぐに違うと気づいた。
真上から見下ろす距離まで近づくと、
彼女が教室を出るときに持っていた巾着袋から、長いコードがのびて、
あのデカイヘッドホンに繋がっている。
「本宮クン、どうしたの?」
「いや、お前がどうした」
気配に気づいた彼女が、目も開けずに言うから、
間髪いれずにそう返した。
ヘッドホンしたままなので、ちゃんと聞こえたかどうかは分からない。
彼女も、それには答えなかった。
今朝から今まで、桐原は、何事もなかったかのように、半日を過ごした。
まったく、彼女の精神力には感心する。
クラスのほかの奴らは、彼女の異変に全く気が付いていないのだ。
「熱の事、他の人には黙っててくれて、有難う」
ケースの中で、彼女はそう言って、やっとヘッドホンを外した。
「有難うじゃねぇよ。このネコ被り。黙ってないと本性ばらすって脅したのは誰だ」
「本当はそんな感じなんだ。その方がいいのに」
誰にでも懐っこいという仮面を脱いだ俺の乱暴な言葉使いに、
彼女は少しも驚かない。
朝、熱があるんじゃないかと声をかけたら、そんな思いもかけない言葉が返ってきた。
桐原リコ、タダモノではない。
驚きはあったが、彼女にネコが通用しないって事が、
なんだか少し嬉しいような、奇妙な気持ちになったのも確か。
「人にはそれなりに、訳ってもんがあるんだよ」
「そうだね・・・ごめんなさい」
「別に怒ってねぇよ。っていうか、起きれるか?」
「うん。大丈夫・・・」
大儀そうに半身を起こしながら、桐原は困ったように笑った。
綺麗な人間は、どんな顔しても綺麗だけれど、
日頃は芯の通った強さを見せる桐原の、微妙な隙間を見た気がした。
「立ち上がりたいんだけど、手貸してくれる?」
そう言って両手を伸ばした彼女の手のひらが、
子供みたいに指を広げていたので、
思わず頬が弛みそうになるのを堪えるのに、努力が必要だった。
抱きしめたい・・・突然に湧き上がった衝動。
ただ思っただけで気付かれたような気がして、俺は妙な咳払いをしてしまった。
「やっぱ、熱上がってんだろ。目が潤んでる」
彼女の要求には応えず、しゃがみこんで手を額に当てると、驚くほど熱かった。
「約束通り、帰れよ」
「分かってる。もう多分無理・・・」
「己の限界を知れてよかったな」
俺は、わざと素っ気ない言葉をかけた。
今からとる行動を、彼女に警戒されるのが、怖かったのかもしれない。
「え・・・」
そうちいさな声を上げただけで、彼女はオレの腕に収まっていた。
いわゆる「お姫様抱っこ」で。
思ったよりもずっと・・・軽かった。
「もうそんな気力もないと思うけど、暴れんなよ。保健室まで運ぶから」
「なんだ・・・家まで送ってくれないの?」
「意外に、減らない口だな。だったら歩けるうちに大人しくおくられてりゃ良かったんだ」
「・・・ちょっと失敗したなぁ」
「何が」
「朝に言う事きいてれば、送ってくれたんだ」
「そこはそうだろ。男としては」
平然とした振りをしながら、オレは考えていた。
桐原は、おれに送ってほしかったという事なのかと。
そう思うと悪い気はしなかった。
悪い気どころか、強引にでもそうしておけば良かったとも思う。
「やっぱり、失敗したなぁ・・・」
もう一度、つぶやくように彼女が言う。
「だから、何が?」
「本宮啓志を甘く見てたかも。ま、予感はあったんだけど」
「何の話だ」
「バリアを張ってたのに」
「だから、なんの話だ」
「バリアを張ってるの。誰も私に気付かないように」
でもね・・・と彼女は続けた。
「クラスがえして最初に目が合った時ね、なんでか視線外せなかったの。そしたらね、『どうした?』って本宮クンの目が訊いてくれてる気がしたの。これは直感・・・」
次第に頼りなく小さくなっていく彼女の声に耳を傾けながら、
俺はすれ違う人間全ての視線に晒されていた。
十字塔から保健室までは、あまり人気がないのが救いだが、
まるで引き寄せられるかの用に皆が振り返っていく。
まるでドラマのようなこの俺たちの始まりは、
やっぱりドラマのような展開をしていくのだろうか。
そんなくだらない事を考えながら、それも悪くないと思えるだけの引力。
この腕の中に・・・確かに有った。




