加奈子に突然やってきた不幸
「近所の幼馴染みの加奈ちゃん」
賢一郎のその言葉に、加奈子は呆然とした。
加奈子は賢一郎が好きだ。
加奈子と賢一郎の母親達は幼馴染みの親友同士で、相次いで結婚してからも、やっぱり近所に住んでいて、子供を産んだのも一年と差がなかったものだから、それこそ、親子三代、家族ぐるみの付き合いをしていた。
「加奈ちゃん、可愛いわよねえ、ねえ美奈子、おっきくなったら加奈ちゃんウチの賢ちゃんのお嫁さんにちょうだいよ」
「いいわよ〜賢ちゃんイケメンだしね〜。ぜひもらってやってちょうだい」
二人が小さかった頃は母親同士のそんな会話はしょっちゅうだったし最初は刷り込みだったかもしれない。それでも長い時間をともに過ごし、色々な経験を共有することで、加奈子の想いはどんどん深まっていった。そして二十二歳になった今、賢一郎に対する想いは、完全に女が男に向けるものだ。
思春期を迎えて以降、ずっと加奈子は賢一郎に恋してきたのだ。
小学、中学、高校、大学と一学年違いながらずっと一緒にいる彼らを、周囲の人間はカップルとして扱ったし、加奈子の「賢ちゃん大好き、愛してる」という言葉が拒絶されたことはない。
賢一郎は加奈子にキスもしていた。
ただ、それは軽いものに留まり、それ以上手を出してきたことは一度もなかったが。加奈子としては、大事にされているのかなと嬉しく思う一方、賢一郎となら、もっと親密な関係に進みたかった。
だから、とうとう、大学二年の年の二十歳の誕生日の日に、思い切った誘惑を試みた。早生まれの賢一郎が大学三年生で、やはり二十歳の時だ。
恥ずかしさから大胆になりきれなかったのがいけなかったのだろうか、賢一郎にその場は流されてしまい、失敗に終わった。
こんなことして、真面目な性格の賢一郎に嫌がられたんじゃないか。加奈子は居たたまれない気持ちになったが、賢一郎はその後も変わらず優しく接してくれたので、ほっと安心するとともに、やっぱり結婚するまでお預けなのかと、少しだけがっかりしたものだ。
大ばかだった。
加奈子の目の前で、加奈子以外の存在に与えられているそれが、すぐには飲み込めない。
賢一郎が社会人になってからは、一緒に過ごせる時間がガクンと減っていたのに、元々真面目な賢一郎の「早く会社に慣れたいから」という言葉を受け入れてしまった。本当は寂しかったのに。心のどこかで小さな不安を感じないわけではなかったのに。
それでも、なるべく機会を見つけては一緒に過ごそうとしたのだが、就職活動や、大学の卒業論文など、現実問題として加奈子自身も忙しかったものだから、それを気遣う賢一郎の言葉に流されてしまった。
だって、会っている時の賢一郎は変わらず優しく、慈しまれているという実感は与えられていたから。寂しさや、小さな不安は、その都度癒されてしまった。その慈しみが、どんな対象に向けられたものだか、まるで分かっていなかったくせに。本当に大ばかだった。
就活が無事終わり、卒論も仕上がったのに、二月十四日は休日出勤の出張だと言われて会えなかったことを、加奈子はもっと気にするべきだったのだ。
自宅の最寄り駅のロータリーで、ばったり会った賢一郎が驚くべきことを口にしたのは大学卒業を控えた二月後半の土曜日のこと。
「賢ちゃん、こんなところで会えるなんて嬉しい! あれ、そちらの方は?」
「今日はウチの親への紹介だったんだ」
「え、誰を? 賢ちゃんてば、何言って……」
「こちら会社の先輩の、て言うか。婚約者の佐藤香苗さん」
「……コンヤクシャ? って、え?」
賢一郎が何を言っているのか、理解できない。
(え、コンヤクシャってナニ語だっけ?)
一気に混乱した加奈子のことは「近所の幼馴染みで妹みたいなひとつ下の加奈ちゃん」と紹介された。
(妹!? 加奈「ちゃん」!? 今まで賢ちゃんからちゃん付けで呼ばれたことないんだけど! どういうことなの!?)
「かな、かなからしたら六つ下になるよね。加奈ちゃんすごくイイ子だからさ、これから可愛がってやって」
(かな!?)
頭の中が真っ白になった。年齢のことに触れた賢一郎に香苗が親密そうにひじ打ちを喰らわせるのを見ても、ろくに言葉も出てこない。
「初めまして、加奈ちゃん。私も加奈ちゃんて呼んでもいいかな。賢一からウワサはかねがね聞いてるから、なんか初対面ていう気がしないな。あ、安心してね、いい噂しか聞いてないから。私、賢一のトレーナーだったの。賢一、真面目でしょ、すごくやりやすい後輩だった。でも、それが賢一の手だったの。五つも年下のくせにいつの間にか内側に入り込まれちゃって、オトされちゃった!」
立ち話も何だから、そう言って連れていかれたロータリー脇の喫茶店で、朗らかに話す香苗という人は、賢一郎より年上であることを少し気恥ずかしそうにしながらも、気さくに感じよく加奈子に接し、そして加奈子のことを、完全に賢一郎の妹として扱った。
まだ混乱から立ち直っていない加奈子は、否定することも、口をはさむことすらままならず、目の前ですすむ会話を、ただただ黙って聞いていた。
「オレ、実は一目惚れでさ、言ってなくてごめんな、でもすっげー頑張ったんだよ、自分の仕事をまずは一生懸命やらないと、かなに認めてもらえないしさ!」
(ごめんて何が、一目惚れってどういうことなの、会社に入ってすぐってこと? で、でも、その前も、その後も、わたしにキス、してくれたよね……?)
「加奈ちゃん、一人っ子なんでしょう、でもお兄ちゃんをとられたとか思わないで、お姉ちゃんが増えたと思ってね。来週の土曜日にはウチの両親に二人で挨拶にいくの。結婚式には招待するから、是非来てね!」
(え、今までのあれは、妹に対する親愛のキスだったていうの……!?)
なんかもう、なにもかもがわからない。
二人の左手に燦然と輝く指輪。
異次元の世界に足を踏み入れた気分。
(あなたはわたしの彼氏じゃなかったの!?)