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「私とデートに行きましょう」
そいつは至って無表情で言い放った。
「デート、って……お前……」
さすがに、深夜帯に生きている僕でも、こんな時間にデートに行くなんて考えたこともない。
ましてやこんな極寒の日に……行きたい訳ないだろう。
「私の行動可能時間は限られているのです。さあ、ぐずってないで行きましょう」
「は、はあ……?」
行動可能時間? なんだそれは。
訳が分からないまま、僕は女に手を引かれ、我が部屋をあとにした──。
「ううっ……寒い、んだけど」
「私は寒くないですよ」
明らからにおかしいのはこいつだった。
真冬の深夜に、寝間着のまま外にデートしに行くカップルがどこに居るのだ。
これも、レンタル彼女のサービスの一環なのだろうか……
(嬉しくないような、嬉しいような……)
……今まで、僕に彼女が出来たことはなかった。
昔から僕の周りには大人ばかりが、僕を守るようにして集まっていた。
そのおかげ……とでも言えばいいのか分からんが、僕は何不自由なく過ごせていた。
食べるのに困らなかった。学校には通わなかった。欲しい物は何でも揃った。
そんな環境で生きてきた自分が言うのもなんだが、とても人間らしい生活じゃなかった。
そんな生活が、今はどうなったんだ。
ふと、横を見れば、僕と同い年……いや、もっと若いか、見た目は美人の女と一緒に歩いているんだ。
これほど人間らしい事をしたのは初めてかもしれない。それほどのものだ。
「デートスポット、一ヶ所目は……こちらですっ」
そいつは高らかと声をあげ、僕の手を引くようにして走り出した。
(なんでまた、こんなとこに……)
僕が見上げたその大きな、大きなオブジェは、僕も一度は目にしたことがあるものだった。
「時計台、です~」
見れば分かる。
「なんでここなんだ?」
デートスポット……にしては、地味な所だと思う。デートにいったことがない僕が言うのはおかしいだろうけど……
「まあまあ、あの時計を見てて下さい」
そいつが指差した時計は、針が特殊な形をしていて、とてもいい趣味をしてるとは言えない……と思うが……
(……ん?)
何だろうか。この、下腹部が暖かく……感じる。
気味が悪い。気味が悪いぞ。
「…………」
変な気分になってきた僕は、時計台の近くにあったベンチに腰を下ろした。
「どうしたです? 疲れましたか?」
そんな僕を心配したのか、女は僕の顔を覗き込んでくる。
「そんな訳ないだろう。家から五分も歩いてないんだぞ」
「そうですね。そう言われてみれば、ここは結構近いですね」
そう言いながら、そいつは羽織っていた俺のコートを脱ぎ、俺の背中にかけてくれた。
(やさしい所があるんだな……)
しみじみと、そう思った。
「……あっ、そろそろ来ますね」
一体何が、何がくるんだ。僕は女の視線の先──時計台へ顔を向けた。
僕が顔を向けたのとほぼ同時に、時計台はその古びた姿を一転させた。
──眩しい。
僕は思わず、自分の右腕で視界を覆った。
「なんだよっ……この、眩しいの」
いくら腕で覆ったと言っても、完全に光を遮ることは出来ず、所々で漏れる光が僕の眼を刺すように伝わる。
痛い。
僕は直感などではなく、しっかりとした痛覚で感じた。
「……もうすぐ楽になりますよ」
わずかに聞こえたそいつの声。どこか、どこか優しい口調のように思えた。
やがて、光は徐々に弱まり、ほぼ元の状態に戻った。
(なんだったんだ? 今の……)
おそらく光を発していたであろう時計台を、僕は睨むようにして見たが、特に変わった様子はない。
しかし、どこかが変わった。変わったような気がする。
「さあ──」
そんな不思議な感覚を味わっていたのも束の間、そいつは僕の手を取り、ベンチに下ろしていた腰を浮かせ、次なる場所へと導き始めた。
不思議だ。
僕は自分の胸の辺りを撫でるように、何かを確かめていた。
(体が、軽い……)
そこまで重く感じていた訳ではないが、なんかこう、宙にでも浮いているかのような感じがするのだ。……宙に浮いたことなどないけど。
あの光か? あの光を浴びた直後から、こんな感じになっていた。
「…………」
うつむきながら歩く夜道。
僕は今、この世界の誰よりも不思議な体験をしていることだろう。
謎の女に出会い。そいつとデートに行き。謎の光を浴び。体が軽くなった。
まるで、聖なる光が僕の汚れきった体を洗浄したかのようだ。
「ところで」
時計台から少し歩いた場所で、そいつは口を開いた。
「あなたは、今まで楽しい事をした覚えはありますか?」
不意にかけられた問い。答えるのに、そこまで難しくなかった。
「無い。」
僕に楽しかった思い出などあるものか。あってたまるか。
いつも大人の作った輪の中に居て、いつも僕は泣きもしていないのに慰められていた。
気づけば一人暮らし。隣近所には全く面識がない。
学もない。欲もない。
まるで亡骸だ。
「そうですか……」
シュンとした様子で、そいつは再び歩き出す。
「ただ、今は楽しいかもしれない」
その言葉に驚き、そいつは歩くのを止め、僕の方を向いて微笑んだ。
驚いたのは僕の方も一緒だった。
自分の口で、『楽しい』なんて言った事あっただろうか?
ないな。ない。
「それは良かったです、私は心配だったですから。あなたの事」
「そう。」
少しだけ、女の口調が変になった気がした。
もしや──いや、もしかしなくても、行動可能時間の制限とやらだろう。
そんな事を気にしていると、そいつは再び歩き始めた。僕もそれに続いていく。
「二つ目はこちらになります、よ」
「結構、歩いた、な……」
僕は少し息を切らしながらも、なんとかそいつに追いつき、二つ目の場所にたどり着いた。
「さきほどの時計台から、およそ三十分です」
時間の問題じゃないと思うが……
僕の体感では、もっと長い時間歩いたような気がした。
「ここは、えっと……」
僕が見渡すその場所は、見知らぬ地であった。
見たこともないような花がたくさん植えられていたり、変な形をしたイスもあった。
全く真新しい場所に来た。僕にはそれぐらしか分からなかった。
「山のふもとです。ここは、とても落ち着きま、すん」
ハッキリ、おかしいと感じたそいつの言葉は、自分でも分かってるらしく、若干バツが悪そうにしている。
「で、ここは何が起こる場所なんだ?」
僕はそれに気づかないフリをして、そいつに聞いた。
「まあ、もうすぐ分かりますよ」
さっきよりゆったりとした口調で、女は話した。
それからしばらく、僕は変な形のイスに座ってその時を待っていた。
とくに何か話す訳でもなく、女は僕の隣で静かに立っていた。
どれくらい時間が経っただろう。
僕には体内時計など装着されてこそないが、あればよかったなと思う。
「まだ、かな……」
少しギシギシした空気があったが、僕は気にせずそいつに話しかけた。
「もういいですね。次行きましょう、か」
なんだ。もういいのか。
少し残念な気にもなったが、まあいい、こいつに着いていこう。
何が起こったのかなんて、思い返さないでいいような気がした。
「分かった。行こう」
僕はそう言って立ち上がった。それを見て女は、クスっと笑うように微笑んだ。
「行きましょうか」
そしてまた、歩き出す。
僕は今度こそ遅れないように、少しそいつとの距離を縮めるように着いて行った。
僕は三つ目の場所に辿り着くまでに、色々、女の話を聞いた。
僕の顔は世間体的にはイケてる方か? 今社会ではどんなことが起こっているのか? バリボーって何なの?
そんな事を聞いてばっかいた。
僕にとって、これほど目を輝かせた時はないくらい、僕は知りたがった。
童心というのだろうか。
僕はとても、言葉に表せない気持ちの渦に居るようだった。
「さあ、着きましたよ。三つ目のデートスポットです」
「やっと着いた。やっと……」
長く短いような時間、僕は女と二人で歩いた。結果、着いた場所は……
「山の頂上になります、す」
と言われても、僕にはほとんど暗闇にしか見えない。
大体、こんな時間に来ても何も見えないのは確かなはずだ。
「……へえ」
だが、そこで曖昧な反応をするのも、なんか惜しく感じたので、僕は一応相槌を打ってやった。
「実は、ここが最終デートスポットになります」
最終という言葉に、僕は強く反応した。
「……そう、か」
極めて冷静に、沈着に。僕は自分をなだめた。
レンタル彼女も、もう行動可能時間が限界に近いのだろう。
それでも、ほんの二時間ほどしか行動していなかったが……
「では、失礼いたします、です」
先と同じどおり、そいつの口調はおかしくなっていた。
──だがそれよりも、そいつが僕の顔に、自分の顔をどんどん近づけてくる事の方が驚いた。
「なっ、何が失礼します、だっ……」
反射的に、僕は顔を逸らした。
急なことだったので、僕は動揺からか顔全体が紅潮していた。というか、火照っていた。
何をされるかなんて野暮な事は聞かないつもりだ。
今の今まで、僕はこいつの彼氏であり、こいつは僕の彼女なのだから。
たとえ仮だったとしても、その行為自体は変わらないのだろう。
僕は意を決めた。
「どうせ、誰も見てないだろうし……いい、か」
まだ火照る顔をさも隠さず、僕の目はしっかりとそいつを捉えていた。
しかし、経験などない。どうしたらいいのか、なんて分からない。
僕はそんな不安を押し切るようにして、そいつの唇を奪った。
──奪った。という表現通り、今度は僕からいったのだ。
時に激しく。舌を絡ませたり、空いている右手で、そいつの腰を引きつけたりした。
無我夢中だった。
これが理性崩壊と言うのだろうか。まるで獣みたいだった。
「んん……」
少し息が苦しくなった所で、僕はそいつの唇から離した。
そしてまた、大きく息を吸った後で、優しいキスを何度も何度もした。
時に二人して微笑み合い、強く抱きしめたりしながら。
僕は、僕は今まで味わったことのない幸福を感じた。
‘今まで’がどうでもよくなるような、そんな感じがした。
──気づけば、僕の頬には一滴の涙が伝っていた。
悲しいのではない。
決して、悲しいのではない。
嬉しい、嬉しいんだ。
よく分からないけれど、とても嬉しいんだ。
こんなに、この世界を素晴らしいと思ったことはない。
これほど、この世界を好きになった事はない。
僕はこいつを、こいつを見つけた時から、変わっていった。
何も変わらない日々が僕を苦しめていた。
幾多の不安が僕を押しつぶそうとした。
どれほどの大人が僕を知った。
どれだけの、どのくらいの‘愛’を今まで感じたんだ?
ない。
僕が愛を感じた事など、今まで一度もない。
そんな過去なんて、どうでもいいのだ。どうにでもなれ。
なぜなら僕は──。僕は──。
今、最高の‘愛’を感じているのだから──。
「もう、そろそろ……」
僕は有無を言わず、そいつを離した。
十分、僕は愛された。この一瞬で。
「これから、どうする」
嗚咽がまじり、よく聞こえなかっただろうが、そいつは僕の言葉をはなから聞くつもりはなかったらしく、僕から一歩二歩、離れた。
「私、あなたの彼女。なれてましたか?」
そして、また変な口調で、淡々と話し出した。ほんの二時間前のように。
「ああ、うん。僕はとても楽しかった」
今度は柔らかく返事した。あの時抱いていた不審感などない。
「よかった、です、です」
僕の言葉が嬉しかったのか、とても可愛らしく微笑んでいる。
──ああ。
──ああ、なんて幸せだったろう。
そう短くなかっただろうか。
「…………」
思いにふけっていると、自然と僕の体から力が抜けてきた。
遂には、ガクンと足から力が抜け地面に膝をついてしまった。
──そんな事は気にしない。
僕はまだ、夢の悦の最中だった。
いつからか体が軽い。
あの時の時計台だったか……確かそこに居た時に……だったか。
僕は朦朧としてくる意識の中、必死になって記憶をたどった。
──もう、耳が聞こえなくなってしまった。
そいつの声が聞こえない。
そいつまだ確かに、僕の目の前にいる。笑ってくれている。
あの、山のふもとで過ごした時間。
あの時間は、僕にとって持て余した時間だったのかもしれない。
あの時からもっと、話していれば……もっとそいつの声を聞けたのに。
──声が出ない。
もう、そいつと話してやることさえ出来なくなった。
感覚がない。
話すどころか、キスさえも僕は出来ないのか。
いや──いい。それでいいのかもしれない。
僕はまだ、夢の悦の最中だ。終わっていない──。
ここまで来るのに、どれだけの時間そいつと話しただろうか。
どんな事を話していただろう……思い出せない。
──何も見えない。
だが、怖くない。怖くないんだ。
そいつが居る。目で耳で感じ取っている訳じゃない。
僕は、記憶の中に居るそいつの姿をハッキリ思い出していた。
初めて会った、あの場所はどこだったか。
どんな会話をしただろうか。
キスの味はどんなだったか。
もう。何も感じない。何も感じられない。
──ただ、そいつの事だけは忘れない。忘れられない。
自分は『レンタル彼女』だと、そいつは言っていた。
だが、僕は知った。
そんな造りものの体・心でも、人を幸せに出来る。
僕が立証されたんだ。そいつに。
ニセモノの愛じゃない。本物だ。
冷えきった僕の体を暖かくしてくれた愛だ。
そいつは、僕を決別させてくれた。
──いらぬ過去は忘れよう。
ただ一つだけ覚えておこう──僕を愛してくれた女の事を──。
僕は、永遠の幸福へと、向かった──。 The end..
この物語はフィクションです。実在する団体、人物とは関係ありません。