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「つまり、お前は、ただの女に過ぎない。ということだ」
薄暗い部屋の中、二人の男女が真剣な面持ちで話し合っている。
(これは洒落にならなくなってきたぞ……)
片方の男は、頭を抱え、とても悩ましそうだ。
「そうなんですね。やっと、分かったような気がします、か?」
もう片方の女は、まったく男の言葉を理解出来ていないようだ。
「お前、そろそろ警察に引き渡すぞ。こんな真夜中に、警察も迷惑するだろうけど……」
「嫌なんですが」
女は口で断りを入れるものの、両手を丸の形にして、オッケーサインを作っている。一体どこの国の文化が、このようなジェスチャーを教えているというのだろう。男はまた、頭を抱え、大きなため息をついた。
「いい加減、もうこのやりとりが疲れた。僕が悪いのか?」
「私? 私は、レンタルですよ?」
僕の言葉なんて、まるで聞いていない。
あの時、なんで僕はこいつを見つけてしまったのだろう。神さまの悪戯なのか。
(この女……どうやら普通の人間じゃないらしいしな……)
聞くところによると──大事な部分は何も聞けていないが──
この女は、‘造られた’らしい。
一体誰に? そう聞いても、「レンタルします?」などと供述する始末。
正直、僕の理解力を越える人格の持ち主が居るとは思わなかった。
「……もう一度聞くぞ、お前は、誰に、造られた?」
「レンタルしますかな?」
「…………」
──時刻は、短針が二時を越え、三時に差し掛かろうとしているころ。
何の進展もないまま、ただ時間だけが進んでいる。
(本当にどうしようか、どうしたらいいんだろう)
本来、このような身元不明な者は、警察に突き出してしまえばいいんだろうが……何故か、何故か僕は目を離せなかった。こいつの挙動や言動に。
僕には考えや奇策はない。だから、どうすることも出来ないのは明らかなんだ。
でも、どうしてだろうか。
「どうしたのです?」
僕は、こいつが気になって気になって、しょうがない。
「どうもしないよ。お前がどうにかしてるからね」
「……そう、なんです。レンタルしません?」
「…………」
僕は、ふと、あることに気がついた。
──レンタルしません?
こいつは、何度も、何度も、そう言っている。そう言っているんだ。
これは何かあるのでは? 僕は直感的にそう思った。
「レンタル、レンタルってどういう事なんだ?」
僕は自分の声が、さっきよりも荒くなっている事に気がついた。
「……レンタル。レンタルされたいの、です」
「な、なにをっ」
「‘私’です、ですよ?」
(……ッ……)
──そうか! 分かった!
僕の頭の中で、複雑に絡まっていた紐が解けたような気がした。
(こいつ、きっと僕にレンタルしてもらうために、ここに来たんだ)
自分でも分かっている。なんて阿呆な考えだと。
(こいつが造られた、それは、ロボットかなんかだからだろう)
こいつを造ったのは、どこかの科学者。その科学者は、こいつをレンタルとして野に離したのだろう。
そしてたどり着いたのが、僕の住んでいるアパート。
筋は立っている。
否定は出来ない。
しかし、なにか違うような気もする。
「……お前、僕にレンタルして欲しいんだな?」
「そう、そういうことかな? そうだ?」
一々、疑問形なのが頭にくるが、ロボットなら不具合があってもおかしくない。
(しかし。どう見ても、ただの女にしか見えない)
そこだ。そこなのだ。
僕の中で、上手く合点のいかない部分は。
どう見ても、どう考えても、ただの女にしか見えない。
それがロボットだって? ありえない。わらえない冗談だ。
(でも、ロボット以外に考えられる可能性は……)
浮かぶわけがない。
僕は、天才の科学者でも全知全能の神さまでもない。
分かるわけない。
「レンタル、しません?」
だから、こいつをもし、もしレンタルするような事があれば、どうなるのか。
──僕は……
「…………」
不敵にも、笑みがこぼれた。
(こんなお伽話、聞いたことない)
普通なら、ありえない事が今起きているんだ。
目の前に、目の先に、得体の知れないロボットが居る。
僕はそう思うと、自然と笑ってしまう。狂ってしまっている。
「ありえないのにっ……なんでっ、だろう」
不思議そうに、そいつは首を傾げている。
「どうしたのでしょう。でした」
──ああ。
──ああ、そうか。
僕は笑うのをこらえ、至って冷静な頭で考える。
──僕はうれしいんだ。
──僕はとても、嬉しいんだ。
いつまでも変わらないと思っていた日常が、僕が望んだその未来が、こうやって僕の目の前に現れたんだ、これは他でもない、僕の日常なんだ。
変わればなんだっていい。元なんて忘れてしまえ。
僕が、僕が居る。そして、そいつもここに居る。それだけで十分なんだ。やった。やったぞ。
ついに、僕はこの日常を手に入れたんだ。
──狂っていた。
少し前の時間に、あの時だ、あの時言った言葉は取り消さなければならない。
この中でおかしいのは、僕だった。
僕の方が、圧倒的におかしいのだ。
こうして、頭だけが冷静なままで、目の前の現実に沈着で居ることができる。
まったくもって、精神と身体のバランスがとれていないのだ。
「…………」
ついに言葉さえ出なくなってしまう。
なぜだ? どうしてだ?
なんだ? 僕は今どうすればいいんだ?
どんどん混乱の渦中に飲み込まれていく。
情緒不安定。それが今の状況にピッタリ合うかもしれない。
それほどに僕の‘中の外側’は狂っていた。
──その時だった。
トン、と、僕の肩に、そいつの手が置かれた。
体温を感じる。
「大丈夫、でしょうか?」
淡々と話すその姿が、僕のバランスを元に戻してくれた。
いや、現実を見た。現実を見たから、僕は安定できたのだ。
「あ、うん……大丈夫」
こいつがいなければ、どうなっていただろう。
考えるだけで、背筋が凍りつきそうだった。
(さて、と。改めて、こいつを……どうするか)
どこまで考えたのだっけか。
僕の頭はまだ混乱を振りきれていなかった。
僕の肩から、そいつの手が離れた。
すると、そいつはまた、淡々と話始めた。
「私、私なんです。もうだって、そういえばだって、そんな事になるんだそう。そろそろ、レンタル?」
「……そうだ」
レンタルだ。
僕はレンタルを迫られているんだ。
言い換えれば、現実通りに生きるのか、現実から逸脱しますか、そういうことなのだ。
こいつをレンタルすれば、僕は、望んだ日常を手に入れる。レンタルということは、こいつを‘借りる’ということなんだから。
もし、レンタルせずに警察へ引き渡せば、きっと、現実から逸脱せずにすむだろう。造った人には申し訳ない結果だが、廃処分だろう。
(じっくり考えるな。またおかしくなりそうだ)
そう言い聞かせながらも、少し、考える。
「レンタル、する」
僕はそいつに言い放った。
「了解した、んです。セットアップ開始します、です」
女はそう言うと、急に黙り込んでしまった。セットアップがどうとか言っていたが、関係あるのだろうか。
(とはいえ、この道を選んでしまったのか、僕は)
現実から逸脱した現実。
僕を待ち受けているすべての事象が、恐怖に思えた。
「セットアップ完了、レンタル彼女、サービス開始」
淡々と繰り出した言葉、さっきと……何かが変わっている。
(どうなったんだ?)
外見が変わったか、と聞かれればそうでもない。
声か? 声量や言葉遣い、気の抜けていた声ではなくハキハキしている。
「……ど、どういう……」
さっきと様子が違うそいつに、少し焦りながらも、尋ねる。
「こんにちは、こんばんは、私の彼氏様」
ペコリ と、そいつはお辞儀し、顔を上げたかと思えば、にこにこと微笑んでいる。
(ん、んん……)
どうやら本当に変わってしまったらしい。
いい方向に、だといいけれど。
「突然で申し訳ないのですが、何か、食べれる物はございますか」
「あ、ああ……あるよ」
なぜか改まってしまい、僕は変貌した女に呆気にとられながら、ほんの一時間前に買った弁当を、そいつに渡す。
季節のこともあってか、少し冷たかった。
こんな冷たいものを食べさせていいのだろうか。
(ロボットだから、いいのか?)
そいつが弁当を食べ始めようと、袋を裂いている姿を目で追っていた。
──いや、待てよ。
「ロボットって、食事しないといけないのか?」
咄嗟に、僕の口から言葉が出た。
「私はロボットではありませんよ」
返ってきた言葉に、僕は自分の耳を疑った。
「え? ロボットじゃないの?」
「ええ、私はロボットじゃありません」
その事に僕は驚きを隠せないが、もう一つ、驚くべきことが起こっていた。
(食べるのが……はやい……)
驚異的なスピードだ。
ちゃんと噛んでいるのかどうか分からないくらい、口に物を入れる早さが尋常じゃない。
「ご馳走さまです」
なんてことだ。なんてことなんだ。
僕は目と耳の両方を疑っていた。とても深く、そして慎重に。
(三十秒……いや、もしかしたら二十秒……)
それほどの短時間で、そいつは弁当を平らげたのだ。
「あり、えない……」
今僕は唖然としているだろうから、きっとこれは普通ではないことが起きている証拠になって結果……
「──ありえなくありません」
そいつは再び口を開いた。
「私はあなたにレンタルされた彼女です。ロボットではありませんし、ロボットでもありません」
「ああ、あ……そうか……そう」
「ですから、食事はとります。比較的短い時間で」
──比較的だと、どこの誰と比較したのか教えて欲しいくらいだ。
そいつは、特に表情を変える訳でもなく、凛とした姿形で話す。
「でも、さ、それだとお前は……」
「──重ねて突然なのですが」
そいつは、僕の言葉の上に自分の言葉をかぶせてきた。
というより、はなから聞く気がなかったかのように思える。
「私と、デートに行きましょう」