※レラ=メイベル
※第三者視点
「産まれたか!?」
「えぇ……。元気な男の子……ひっっ!?」
先程まで聴こえていた悲鳴とは違う、産声が静かな室内に響く。
古ぼけた木で造られた室内は広く、中央にある質素なベッドには疲れ果てた顔の女性が寝ている。
その女性を見守るように傍らに立つ男性は嬉しそうな顔をしているが
男性が話しかけた老婆は恐怖、または遺憾の意で、顔を顰めていた。
産まれたばかりのまだ目も開かぬはずの赤子の左目にはそれはなく、代わりに透明な石の様なものが嵌っていたのだ。
短くはない産婆の人生で、少なくはない出産の立会いで、初めての事例。
―――死産。ないし障害。
当時の彼女はそう思ったという。
山奥の村『リキュウ』。
人口は100人と満たない農村の長の息子として赤子は生まれ落ちた。
住人の殆どが農作業や狩りで一日を終える長閑な村。
産婆の心配はよそに、村長の息子はすくすくと育っていった。
「レラ。私達は出かけるけど、森に入っちゃダメよ。」
「はーい。」
レラと名付けられた少年が産まれてから6年の月日が流れた。
左目は相変わらず透明な石のようだが、特に問題は見られず、両親はあまり気にかけなくなっていた。
リキュウの村長であるメイベル家は、同時にサイハク帝国の貴族でもある。
メイベル方伯。
とはいえ治める土地は山奥の小さな村1つだけ、という弱小貴族ではあるのだが。
月に一度、パーティーや挨拶周り、情報収集等の為に片道3日という旅を経て、サイハク帝国の都に赴く。
当然その旅路は決して安全ではなく、魔物に襲われる事もあれば、山賊に身ぐるみを剥がされてしまったり、気象により遭難してしまったりと危険が伴う。
故にまだ幼いレラを置いて出かけるのは常識的な判断といえよう。
「カーミル。レラをお願いね。」
「かしこまりました。奥様。どうかお気をつけて。」
カーミルと呼ばれた女性は、メイベル家のメイドである。齢は18。
見た目に華やかさこそないが、三つ編みにした長い赤い髪が踊る、真面目で優秀なメイド。
「カーミル。外に遊びに行こう!!」
「そうですね。今日は天気も良いですし。教会にでも行きましょうか。」
レラはカーミルによく懐いていた。カーミルもまた、弟のようにレラを可愛がっていた。
「おっ!レラ様。今日はいい天気ですねぇ。」
畑を耕している村人が気さくにレラに話しかけられるのは、メイベル家が慕われている証拠だ。
レラの父、ラムダ=メイベルは運こそ無いが、優秀な貴族である。
「おや…レラ様。カーミル。よく来たねぇ。」
教会の前の花壇に水を巻いているシスターが手を止めて優しく微笑むと。
「えぇ。良い天気なので、お祈りをしようかと。」
「シスター!今日もありがとう。」
レラもカーミルも自然と笑顔になる。それほどの優しい笑み。
山や森、小川に囲まれたこの村が、魔物や山賊に襲われない理由はここにある。
―――聖属性魔法“ホワイトカーテン”―――
齢50ともなるこのシスターが、村の四隅に設置した魔石に毎日かかさず魔力を注ぐ事で発動する魔法。
これのお陰で、村全体を悪意・殺意・邪気を持つ者から完全に不可視・不可侵にしている。
無論シスターの魔力を大きく上回る者には効果がないものの、村の近くにはそこまで強い魔物は生息していないし、獣人も生息していないので、安全対策としては完璧と言える。
小川に囲まれたこの村。要は小川まで歩けば悪意・殺意・邪気を持った者を見る事が出来る。向こう側の針葉樹が立ち並ぶ森には魔物達が跋扈し、最低でもこの魔物達に囲まれても生き延びる事が可能な者のみが、シスターが張る結界魔法の外に出る事が許される。
そして、小川の水を生活に使用している村人が、シスターの結界を誤って越えてしまう事がままあるのだが、そんな事例を除けばこの村は概ね平和である。
裏をかけば結界が無ければ人など住めない土地。
何故その様な土地を開拓したのかと問われるなら、ここが齎す『資源』がとてつもなく有益だという答えが返ってくる。
―――リキュウにのみ咲き誇る花『ブルーフラワー』―――
本来ならリキュウにのみ、というと語弊がある。獣人達が蔓延るブルーグラス平原では極々平凡な草花なのだから。
とはいえ人の住めるグリーングラス平原だけ、という話になればブルーフラワーはここにしか咲かない。
そしてそれは特殊な聖属性の魔力を込める事により、致命傷をたちどころに治してしまう妙薬になるのだから、どれほど有益かが良く解る。
―――それはともかく。
「カーミル。レラに変わりはなかったかしら?」
帰って来たレラの母フィリー=メイベルに問われたカーミルは
「おかえりなさいませ奥様。えぇ特には。ですが相変わらず……」
と、答える。
幾度と無く繰り返されたこのやりとりの中、『相変わらず』なのはレラの独り言である。
まるで見えない相手と話をしているかのような独り言。または行動。
思い返せば、レラが乳児だった頃から続いている。
「小人さんとお話しているんだよ。」
本人に聞いてみても、そのような答えが返ってくる。無論父も母も、カーミルにも『小人さん』の姿は見えていなかった。
あまりに長く続く一人息子のそれを心配したフィリーが、教会で見てもらおうとラムダに申告する。ラムダもそれを受け入れた。
教会とは、人々の支えであり、治療院であり、相談所である。全知全能の神である『ゴーマン』を崇拝する国教『ゴーマン教』の総本山がこの国にある。
都の教会に文を出した約1週間後。司祭がこの村を訪れた。
「これは……。『神の義肢』の一種であろうか……。つまり『神の義眼』……。」
レラを一目見た司祭が狼狽を隠せずに語る。
生まれた前、要するに魂の段階で神から体の一部を借り受けたもの、と説明した。
「うん。僕の目は『たましいをかりとり、あたえるもの』だって。」
『神の義眼』が擬人化し『小人さん』になり、彼にその能力を説明していた。
息子がそんな神聖なものを持っているとわかって喜ばない親はいないだろう。
だがその喜びは時間と共に大きく歪んでいったのだ。
1年後、村の人口は50人にまで減っていた。
そして村の中には大きく豪華な馬車が数台停まっている。
「『神の子』に、是非我が母の病を……!!!」
とても綺麗な貴族の服を着た若い男が、ラムダの前で土下座をすると
「何か戴けるのかしら?」
フィリーが代わって言葉を返す。
「馬車に持てるだけの金を用意致しました……!!」
そう。レラの両親は息子の能力を利用して私腹を肥やしていた。そしてその代償とは。
―――『たましいをかりとり、あたえるもの』
「いやぁぁぁぁ!!!」
「うるさい!神の一部となれるのだ!!子供などまた作れば良いだろう!!」
若い夫婦の家に無遠慮に押しかけるラムダは、夫に庇われる息子を連れ去ろうとする。
「ラムダ様!!私の命を差し上げます!!どうか……どうか息子だけは………!!」
「ほう…見上げた奴だ。望み通り、そうしてやろう。」
とてつもなく冷淡な瞳が村人を見下していた。
非力な彼らはこの村を抜けた時点で魔物に食い殺される。ただただ領主の暴力に怯えながら耐える毎日。
「もうおやめください!ラムダ様!!あなたは…私達のっっ!!」
息子を守り身を捧げる決意をした男の妻は、ラムダに縋り付き、そして
その胸を剣が貫き、ゴト、と体が落ちる。
「ふん。勿体無い事をしたな。」
「うぁぁぁぁ!!!!……リル!リィィィルゥゥゥゥ!」
暴れる男はラムダが連れている兵士に取り押さえられ、連行されてしまう。
「カーミル!その赤ん坊を連れてこい!!……くく。後で使おうじゃないか。」
静かになった血の匂いが充満する室内で泣いている子供を、悲壮な顔付きのカーミルがそっと抱き上げ
「ごめんね……。ごめんね……。」
大粒の涙を流していた。
「ねぇパパ。この魂は誰のものなの?」
「はは。そんな事が気になるのかいレラは。『虫』の魂だよ。」
「虫さんが可哀想だよ……。」
「レラは優しいね。でもなレラ。レラも魚や肉、パンを食べるだろう?それらは元々全て生きていたもの。
全ての命はな。他の命を奪う事で生きる事が出来る。
自分達が生きる為に、殺さなければならないんだ。」
冷淡な瞳と優しい声色、優しい笑み。ラムダはレラの前でこれを崩したりはしない。
「さぁレラ。今日はこの御婦人の病気を治して差し上げてね。……レラの命は人を救えるのだから、どんな命より重いわ。一生懸命生きてね。」
ギラついた瞳と暖かい掌でレラを撫でるフィリー。
カーテンで仕切られた奥に横たわる大きすぎる『虫』のシルエットを見てもレラは疑わない。
何故ならばレラは外の世界を見たことがなかったから。
もしもレラが一度でも、両親に連れられて都に行っていたなら、この時点で気付いた事だろう。
両親の周りに渦巻いた『神の義眼』だけが映し出す邪気というものに。
こういう『虫』もいるのだろう、と疑いもせずに魂を吸い出し、『神の義眼』を仲介させてから、婦人へと移動させる。
新たな魂を得た婦人の病気は嘘のように回復し、むしろ以前よりも元気になって、息子と共にレラに涙を流して、何度も頭を下げながら礼を言った。
それだけを見ているレラは、えへへと照れ笑いを返していた。
それからまた一年後。ついに村人はいなくなる。
《ねぇ。こんな事、いつまで続けるの?》
「こんな事?病気の人を治しているといけないの?」
久方ぶりに現れた目の前の『小人さん』と話す事が嬉しいレラは輝く笑顔を見せた。
もう2年も家の外に出ていない。
村人はおろか、カーミルとさえ会えていない。毎日毎日病気の人を治す多忙な日々。
「そういえば教会にもお祈りしに行ってないけど大丈夫かなぁ。」
《こんな事を続けたら、怒られちゃうよ?》
「誰に?パパ?ママ?」
《神様に……だよ。》
「神様……?この目をくれた人?」
《そう。君のパパとママは村の人を殺して、お金持ちを治させているんだよ?》
「……どうして?」
《お金が欲しいからさ。》
「ウソだ!!パパとママを悪くいうな!!」
『小人さん』への初めての激昂。焦燥にかられたレラに、目を見開き驚いて、それでもすぐに静かな目で『小人さん』は語り出す。
《もう僕は眠らなきゃ。》
「……。」
《もうすぐ…人に魂を移す事は出来なくなるよ。疲れちゃったんだ。》
「……。」
レラは答えない。
歪んだ優しさを愛情だと思い込んでしまっているから。
愛情を与えてくれるパパとママを悪く言った親友を許す事が出来なかった。
2年間。決して短くはない時間を薄暗いこの部屋で大半を過ごした。
窓は無く、太陽の光も遮られ、『魔石』に込められた火属性魔法によって全貌が照らし出される部屋。
部屋から出られるのは1日数回。トイレと風呂と食事の時。
そんな生活の中、いつだって両親が笑顔をくれた。優しさをくれた。
コンコン。
「レラ。入るぞ?」
「……ダメ!!そこで言って!?」
静かにレラの部屋の扉を叩く音の後に聞こえた、父の平たい声。
今、顔を合わせれば疑ってしまう。幼い心にそんな焦燥感が生まれる。
「……どうしたんだ?」
「……。」
「まぁいい。レラ。パパとママと都に行こう?」
「……。」
「帝王様のご子息が病に倒れられたという文が届いた。レラでしか救えないのだ。……明日ここを発つからな。」
ラムダは薄気味悪く口元を歪ませていた。それを懸命に噛み殺しながら、息子に努めて優しく優しく声をかける。
――――帝王の子息を治す事が出来たなら、公爵になる事さえ夢ではない。
笑わずには居られなかった。2年間で稼いだ金と、公爵という絶大な地位が手に入るチャンス。
そしてそれは、神の能力を持つ息子がいれば、とても簡単に、何の苦労もなく手に入る。
――方伯が民を殺す。
そんな絶対に許される事のない罪への言い逃れの準備も万全だ。
破壊された家屋や教会。腐りかけた、または既に白骨化された村人の死体は村全体に゛満遍なく不自然じゃないように゛転がされている。
都へ出立したら結界の中枢である『魔石』を破壊し、こう言うだけでいい。
「村が魔物に襲われた。」と。
都へ出立前の深夜。暗闇に沈む不気味な程静かな領主の館に不穏な影が動く。
キィ…という音と共にレラが居る魔石に照らされた部屋から、真っ暗な廊下に光が漏れる。
「レラ様。お逃げ下さい。」
「カーミル!?」
「しっ……!お静かに願います……。」
この時点で、リキュウの村で生存しているのはたった5人。
メイベル家の3人、そのメイド。そして結界の為に゛生かされている゛シスター。
公爵への道が拓きかけた方伯が浮かれるのは無理もないだろう。
村で唯一、人が居る家のリビングには大量の酒の空瓶が並べられ、幸せそうな顔をしてテーブルに伏して眠る、その家の夫婦が居た。
この機を待っていたといわんばかりにカーミルが動く。
まずメイベル家倉庫に縛られているシスターを解放し。
村で起きた惨状の原因にして、何も知らされていないレラが幽閉された部屋に急ぐ。
「……まずはお外に出ましょう。ラムダ様とフィリー様は就寝なさっていますので、お静かに願います。」
部屋から連れ出された少年がカーミルに従った理由。
それはカーミルという姉のように慕う者だから、ともう一つ。
カーミルには無いのだ。父や母の周りに渦巻く黒い何かが。
見ているだけで不快感さえ覚えるその黒がない。
そしてそれは、レラに安堵を感じさせていた。
カーミルに手を引かれ、静かに外に出たレラは、ボロボロの法衣を纏ったシスターに抱き締められる。
「レラ様……。良かった……。」
「シスター。お久しぶりです。あれ?ケガをしているの?」
シスターの顔には見慣れた笑顔がない。それどころか腫れ上がり傷だらけの肌が露出している。
「レラ様。お水です。とりあえずこれを飲んで、私達の話を聞いて下さい。」
カーミルから差し出された水に疑う事なく口をつけると、急激な眠気に襲われ、
「あれ……カーミルぅ……眠くなってきちゃった……。」
「はい。レラ様。私の背中に乗って下さい。」
手を後ろに回して屈んだカーミルの背に身を預けるレラは、2年ぶりの人肌の暖かさと、急激な眠気に逆らう事なく、意識を手放した。
レラが目を醒ますと、周りの景色が村ではなく、森になっていた。
夜明けの少し前、うっすらと白んだ森の中で、血だらけで倒れる法衣姿の女性と、絶望に満たされた顔の若い女性と、女性に背負われている少年が、体長50センチはある黒光りする大きな蟻に襲われていた。
蟻という生物の特性上、群れる事が当たり前である。
3人を取り囲む無数の大蟻。逃げるにしろ追い付かれるのは必至だし、その前に退路がない状態。
血の気の引いた顔のカーミルは言葉を漏らす。
「レラ様。私とシスターが囮になりま…………え?」
レラがその透明な左目で蟻を見回すと、次々と蟻の体から青白い光の球が浮かぶ。
次の瞬間、ズズズッッとそれら全てが左目に吸い込まれていく。
そして知る事になる。
『虫』の純粋過ぎる魂の色を。
今までレラが吸い出したどの魂とも違う、透明な青白さ。
レラは知る事になる。
今まで吸い出した魂は、『虫』のそれではなかったという事を。
そもそも自然と共に生きる生物には邪気は無い。
ただ彼らは゛生活をしているだけ゛なのだから。
彼らにとって当たり前の行動。
そこに邪気などは無く。
ただ歩いているだけで、足の裏にいる幾つかの命を踏み潰してしまう。
そこに害意などは無く。
蟻達のテリトリーを不躾に荒らしたのは、ここにいる3人なのだから。
《そう。君のパパとママは村の人を殺して、お金持ちを治させているんだよ?》
そんな言葉を思い出しながら、蟻の魂をシスターに移そうとして
シスターの体の上で、パンッッと弾けたのを見ると。
《入らないよ。種族が違うもの。》
そんな言葉が頭の中から聞こえた。
――事実が繋がってしまう。
今まで吸っていた魂と明らかに違う色。
魂は、別種族に与えると拒絶により弾けてしまう事。
どれだけの人を治して
それだけの人の魂を抜いた。
傷だらけのシスターと
やつれた顔のカーミルも。
少年の全身からは嫌な汗がダラダラと流れて
ぐでっと項垂れたかと思えば
「あは……アハハハハハハハハハハハ!!!」
高らかな渇いた笑い声を上げた。
その時カーミルは
まだ絶望から立ち直れない弱さと
目の前の危険が回避された安堵と
一瞬にして多数の魔物を殺してしまった幼い子に対しての恐怖感と
一目で致命傷と解る、まだ息のある親しい人の姿を見た戸惑いで
ただただ立ち尽くすのみであった。
少し遅れて壊れた少年に気付いたカーミルは、急いでレラを抱きしめる。
「レラ様!!!どうか気を確かに……!!!」
「アハハハ。ねぇカーミル?僕はね、村の人を殺したの。殺したんでしょ?みーんなもう居ないんでしょ?そうでしょ?ねぇ?ねぇねぇカーミル?アハハハ。」
壊れた少年の左目は深紅に染まり、同じ色の涙を流していた。
「レラ様……。」
カタカタと震える腕で出来る限り力強く、少年を抱きしめるカーミルの腕。
「え……?待ってよ。待って待って待って!何で……?ウソだ!!」
レラの焦った叫びに周りを見渡すカーミルは、シスターの体から赤く透明な球が浮かび上がるのを見た。
そしてそれがレラの左目に吸い込まれる瞬間も。
彼女の脳裏に浮かんだのはシスターの言葉。
何故『義肢』、『義眼』と呼ばれるのか。
『神の眼』ではなく『神の義眼』と呼ばれる所以。
「使っている内に壊れてしまう。……司祭様はそう仰っていた。」
「『神の力を真似ようとした偽物』。そう呼ぶ人達もいるみたいね。」
「壊れてしまえば、きっと災いを生むわ。」
カーミルの記憶が瞬時にシスターの言葉を再生し
――レラ様は壊れた『神の義眼』でシスターを見た。
――恐らくその眼で見た魂を喰らうだけのものになった。
そんな仮定に辿り着く。
レラの後頭部を抑えつけ、自分の腹に顔を埋めさせた。
「っぐ。ひっぐ。うぇぇ。」
理解はしている。
何も知らない子供が多大な罪を背負われているだけだと。
「カーミルぅぅぅ……。」
事実を知り、壊れてしまう程に傷付く優しい子だと。
けれど仕方がなかった。
「とりあえずお水を飲んで落ち着いて下さいレラ様。」
彼女が持っていた睡眠薬を水に混ぜて渡し、少年を眠らせたのは。
眠らせた少年を置き去りにして、一人で逃げてしまったのは。
彼女は優秀なメイドだがその前に、平凡な人なのだから。
大虐殺の片棒を担がされ
死の恐怖を何度も叩き付けられて
何度も絶望して
簡単に死を招いてしまう少年を受け入れろ、だなんてあまりに酷過ぎる。
彼女は森の中を必死に、振り返る事なく走り抜けて行く。
そんな彼女の心に裏切ってしまったという後ろめたさもなく
ただただ゛生きたい゛と思っていたとしても
責められる訳がない。
むしろここまで良く逃げなかった、と褒められて然るべきである。
「はっはっは。まさか主が『人』を拾ってこようとはな。」
「仕方あるまい。捨て置けば虫か鳥の餌だ。」
虚ろな意識の少年の耳に、そんな声が聴こえてくる。
組んだ木材に藁を広げただけといった竪穴住居のような家屋の、寝心地が悪そうな麻の布団にレラは寝かされていた。
寝転がりながら半分開いた目が映し出したのは2人。
白髪の老人と、白が混じった黒髪の壮年の男。
2人の共通点は、牛のような顔、頭から突き出した2本の角、腰から下に簑のような服を着ている所。そして年齢に見合わない鍛え上げられれた肉体。一瞬束なった髪のようにも見える垂れ下がった耳。
角・耳・髪の色、そして顔の作りは牛のようで。人と敵対しながらも、人が支配するグリーングラス平原に暮らす獣人。
――ミノタウロス。『人』からはそう呼ばれ恐れられている。
「里の者には説明が必要だろうなぁ。」
「……だからこうして長を頼っているのではないか。」
白髪の老人は長と呼ばれ。
「我々、野牛族の聖地を荒らす『人』共と戦う筆頭戦士が、情けを持ってるとはな。なぁ角よ。」
壮年の男は角と呼ばれていた。
「あぁ。青草山に入るんじゃなかった。こんな事になるなら、黒漠を越える手間の方が楽だ。」
迷惑そうな言葉とは裏腹に、男の顔はどこか穏やかで。レラを見つめる瞳には慈愛の光を宿している。
「しかしお主の話が本当だとすると、ちと厄介だなぁ。大蟻に囲まれて五体満足。それどころか蟻は全て死んでいたんだろう?」
「そうだ。蟻は傷一つ無く絶命していた。……まるで魂だけを抜き取ったようにな。」
「ふむ……。こんな子供がやったとは思えんが……。まぁ警戒はしておくか。」
老人は自身の顎髭を撫でながら難しい顔をした。
眼前の『人』の子は、獣人でも生き延びるのが難しい状況下で寝ていたのだ。
少年から感じる霊力は『人』にしては高いが、獣人から見れば圧倒的に劣る故、そこまでの驚異にはなり得ないとは解っているのだが。
「……カーミルは!?」
麻の布団からガバっと体を起こしたレラは声を上げる。
眠る前に抱き締めてくれていた女性がここに居ないからだ。
「おうおう。起きたかい『人』の子よ。……随分おかしな左目を持っとるなぁ。」
開かれたレラの左目に気付いた老人は訝しげな視線を送り
「カーミルとは女か……?お前が眠る横で既に事切れていたので、埋葬したぞ。」
壮年の男はレラの問いに答える。
無論だが、事切れていたのはシスターだ。彼は敵であるはずの『人』の死体を、律儀に埋葬したのだ。
だがそれはレラには正しい意味で伝わらない。
カーミルが死んだ。目の前の獣人にそう告げられたと捉えた。
獣人=『人』に仇なす者。
神の力を使えるとはいえ、『人』であるレラはそのように教わって育てられた故に。
確かに感じていたカーミルの温もりを奪ったのは目の前の獣人。
そう捉えたとしても不思議はない。
レラの左目から紅い涙が流れる。
《無駄だよ。君の霊……いや、魔力を上回る魂は抜けない。》
目の前の獣人の魂を吸い出そうとしたのだろうが、不発に終わる。
《彼は敵じゃないよ。ちゃんと見て?邪気は見えないでしょ?》
頭の中から聞こえた『小人さん』の声が答えを示してくれはしたが
カーミルを失った少年の傷は深く
「お前が殺したのかぁぁぁあ!!!」
と怒鳴り散らし、紅い涙がまた一筋流れる。
「おいおい。錯乱しとるなぁ。聞きたい事は沢山あるのに。」
「全くもって面倒だ。」
獣人2人は冷静に錯乱した少年を見つめて息を吐くと、
壮年の男は音も立てずにレラの背後へと素早く回り、後頭部にトンっと手刀を入れる。
「あ……カーミ……ル。」
レラは再び意識を手放す事になった。
「香!これはどこに運べばいい?」
「あぁそれはこっちにお願い。」
――半年後。
レラは角の妻である香が用意する夕食の配膳をしていた。
邪気がない獣人達との生活は心地好く、霊力の格差により魂を吸い出す事も無く。
穏やかな瞳と優しい声を持つ香は、レラが知る母の様で。
力強く落ち着いた頼りがいのある角は、レラが知る父の様で。
そこに『小人さん』の感情操作が加わり。
レラは笑顔を取り戻していた。
『小人さん』曰く
平穏な生活を長期間続けるか、
神気が濃い土地で7日間瞑想するか、
神力を体内に取り入れる事で、
左目は元の色に戻る。
逆に、憎しみに身を任せてしまえば
利己的に誰かの魂を取り入れたなら
左目は黒に染まり、無尽蔵に魂を吸いながら、レラの魂をも蝕んでいくと。
紅い目は制御が利かず、魂を消滅させてしまう事がある。
それはつまり輪廻も転生も有り得ない。
生きたという証さえも、空気に混ざって消えてしまう。
そして紅い目は、黒くなる事を望む。
自身を紅くなるまで追い詰めた、宿主を恨むように。
透明な世界で《小人さん》と触れ合えて。
紅い世界では姿を見せず。
黒い世界では言葉すら紡げない。
レラは平穏な生活を続ける事にする。
自害するという結論を出す程歳を重ねておらず、
全てを忘れてしまう程幼くもないのだが、
《力を取り戻したら、ちゃんとした使い方を教えるね。
その頃君は大人になっているから、罪の償い方も教えよう。》
そんな『小人さん』の言葉を信じて。
「お!レラでねぇか!畑手伝ってけや。」
「うん!任せてよ!」
レラが野牛族の里を歩けば、皆が親しむ言葉をかけてくる。
獣人達は弁える。
『人』とは生き方が違うと。
獣人は1つの使命に向かい生きる種族。
野牛族でいえば聖域を守る為だけに生きる事。
無論個々の幸福を感じる心はあるのだが、何に置いても使命を全うする事が優先される。
だが『人』は違う。
様々な形の欲望を持ち、思想を持ち、生きる事で新たな何かを求める様に出来ている。
獣人達は弁える。
『人』に対する若干の偏見はあれど、全ての個体がそうではないと。
例えばレラのように。
ただただ愛情を渇望する『人』の個体は、獣人達の使命を害する事はない。
「今日は畑を手伝ったんだ!」
「そっかぁ。レラはいい子だね。」
柔らかな笑顔でレラを撫でる香の掌はとても温かく、凍てついた少年の心を溶かす手助けをした。
「カーミルもそうやって褒めてくれたんだ……。パパとママも……。」
それでもまだ少年の闇は深く、笑顔が即座に凍りつく事がある。
「……レラ。今度聖域に行ってみるか……?」
角が発した言葉を聞きレラが顔を上げた。
「行っていいの?」
「あぁ。長の許しは得ている。これを手首に巻いておけ。」
角がレラに差し出したのは、5ミリ程の大きさの『精霊の欠片』を繋いだブレスレット。
「これには長の霊力が込められていてな。獣人に認められた証になるのだ。」
「まぁ。良かったわね。レラ。」
「……うん。」
レラは丸い目で飾られた手首をまじまじと眺めている。振ってみたり、掌を上で広げて見上げてみたり。
右目は、霊力が込められて青く輝く『精霊の欠片』を映し
左目は、込められた力強い青白い霊力の光を映す。
「ふふ。嬉しいねレラ。」
「うん!!」
可愛らしく頷くレラを見ると、自分も嬉しくなる。
角と香は、レラを自分達の息子のように可愛いがっていた。
そんな平穏な日々がまた半年と過ぎていき
それはあくまでも唐突に奪われた。
――カンカンカンカン
野牛族の里に警鐘が鳴り響き、少し遅れて男が叫ぶ声が聞こえた。
「奇襲だあああぁぁ!!男は前へ!!女子供は里を守護しろ!!」
焦燥感に侵された叫び声に、里の空気は一変する。
慌てて戦闘準備を整える男逹。
女子供は地下室に閉じ籠る。
いち早く巨大な戦斧を手に走った、角が里の入り口で待ち構えるが。
白銀の甲冑に身を包んだ『人』の大群が押し寄せていた事に驚きを隠せないでいた。
ガシャガシャという甲冑が擦れる音が聞こえる頃には
――四面楚歌。
そう言える程の『人』が里を囲んでいた。
「おわあぁあ!」
「ひぃぃ。つ…強すぎる。」
殆ど前触れもなく襲われた里だが、『人』が獣人達に純粋な戦闘能力で勝る訳もなく。
50人という少ない戦力でも圧される事はなかった。
獣人達は手に握られた巨大な戦斧を振りかざし、次々に『人』を撃退していく。
「“スパイラルファイア”」
突然角の周りに幾つかの炎が渦巻き、そして次の瞬間、渦巻いた炎が一斉に飛びかかってきたのを、戦斧でかき消した。
「ひゅう。やっぱ下級魔法じゃダメか。ははっっ。やべぇな楽しくなってきた!」
「ふん……。『契約者』か。」
角が目の前の『人』から感じた魔力は、自分の霊力を圧倒的に上回っていると理解出来た。
そして野牛族は、自身の肉体を強化させる霊術しか扱う事が出来ず、遠距離からの攻撃する『魔法』との相性は極めて悪い。
が当然退く訳にはいかず。
――地底世界を支配する竜よ。我の魔力を吸いこの世の全てを焼き付くす力の片鱗を与えたまえ――
「「“スパイラルファイア”」」
『非契約者』の詠唱魔法がそこらから聞こえ、ゴォッという音と共に、里のあちこちから火柱が上がる。
「くっ……。」
角は歯噛みをする。
里で一番戦闘能力が高いのが自分だと解っていたから。
そしてそんな自分は、目の前の『魔導師』に敗北するだろうと。
「余所見してんなぁ!!
“スパイラルツイスト”!!」
まるで放たれた矢のような速度で、炎で象られた槍が、角の頭を目掛けて襲いかかる。
戦斧の腹でそれを受け、決死の力を込めて槍を地面へと受け流した瞬間、大地を蹴り『魔導師』に飛びかかるが。
戦斧は空を切り、角の視界に映ったのは焼けている里だけだった。
「“イグニートフレア”!!」
声のする方向、上へと視線を移した角が見た物は、自身の肉体の何倍かの大きさの火球。
一瞬火の壁かと錯覚する程のそれが角にズズズっという音と共に着弾し。
角の身体にまとわりつくかのように焼き焦がす。
「ブオオオオォォォ……」
角は叫ぶ。
身体が灼ける激痛と、
自分の半分程の体躯しかない小さき者に手も足も出ない悔しさと、
里を、聖域を守る事が出来ない不甲斐なさに。
そして……角の叫びが消える。
「はっっ!楽勝!!」
自身の魔力の1/3を持っていかれる程の上級魔法を放つのは、決して楽ではなかったはずなのだが、
強がり……いや愉悦とも取れる笑みを『魔導師』は浮かべ。
里の中へと走っていった。
――地下室。
この里の家屋全てと繋がる、地下の穴の壁に平たい石を張った空間。
元々体の大きな野牛族が入るための地下室はかなり広く、暫く籠城出来る程の食料も備蓄されている。
家屋に隠された扉を開くとその空間に辿り着く事が出来るが、そう簡単な物ではない。
擬態され、封印霊術が施された扉。
無論強化の霊術しか扱えない野牛族の為、『固く閉ざす』という程度の封印だが、
『人』の力程度では大人10人でも開かない程のもの。
しかしそれも上位悪魔の力には到底及ばずに、すぐにこじ開けられてしまう。
「あはぁ。こんなに居るじゃねぇか。」
不躾に侵入してきた『人』。
一目で解る『魔導師』の圧倒的な魔力に、その場に居たレラを含む全員が戦慄する。
そしてその直後に『人』の大群が地下室に流れ込んできたという事は、
里の男共が全滅してしまったという事はすぐに理解出来た。
「えっとぉ…。」
『魔導師』は戦慄し、固まっている獣人の女を一人一人を舐めるように見回し、
「まぁ…こいつでいいか。」
と、里の女の一人に『隷属の魔法陣』を刻む。
霊力とは全く異なるの魔力という物を刻まれる、という事は
拒絶反応により全身に激痛が襲いかかるのだが、女は声すらあげない。
それは目の前の圧倒的魔力への萎縮。
『生きながらに死ぬ』ような恐怖感は、思考はおろか肺までも麻痺させ、
ただそこに『魔導師』が立っているだけで、意識を失ってしまう者も少なくなかった。
絶望的な野牛族の救いは、『魔導師』が一人しかいなかったという事と
地の精霊の眷属故に、『火』に対しての耐性が高かった事。
そして、
「後はてめえらでもやれんだろ?」
と『魔導師』が奴隷にされた女を連れて去った事。
圧倒的な魔力の呪縛から逃れた女達は思考する。
どの様にして、この状況を切り抜けるか。
どの様にして、これから先『聖域』を守り続けるのか。
多勢の白銀の甲冑の胸には、炎の竜が刻印されている。これは襲撃者が『炎の騎士団』だという事を意味していて、
―――火の耐性があり、強靭な肉体を持つ野牛族の男達は、死んではいない可能性が高い。
それに気付いたのは香だった。
「レラ……。お願いがあるの。」
隣で怯えるレラの耳元で、香は極めて小さく声を発しながら床をコツンと叩く。
「私の下に、更に地下に降りる階段があるわ。ずっと進むと獣人族の世界に辿り着く。」
「え…?」
「どこの誰でも良い。この腕輪を届けて欲しいの。」
香がレラの右手に着けられたブレスレットに手を触れると、青白い光がぽうっと包む。
「嫌だ。…香も一緒に行こう?」
「ごめんね。私はまだやる事があるから。ね?お願い。」
「……。」
俯いたレラの頭を撫でて、優しい声で続ける香。
「大丈夫。私達は殺される事はないわ。お願いレラ。貴方にしか出来ないの。」
事実その通りだ。獣人である以上、他の獣人達からの攻撃は受けないが、他の動植物からの攻撃がある。
大蟻の群れをどの様に看破したのかは、この里では長と角と香だけが知っている。
「行って。お互い生きてまた会いましょう。」
扉を少し開けて、レラと食料が入った袋を押し込む香。
それが『人』の目に映らないように、他の女達が集まって隠した。
閉められた扉はもうレラの力で開く事はない。当然のようにこの扉にも封印が施されていたからだ。
「うぅ…。僕が強ければ…。」
階段に座り込んでしまったレラの右目から透明な雫が流れる。
仮に『魔導師』の魔力をレラが上回っていたなら。
あるいは自分が大人で、角と共に戦えていたなら。
少なくともこんな状況には陥らなかったと、レラは思う。
「……行かなきゃ……。泣いている場合じゃない。」
自分に言い聞かせるようにバシンっと頬を殴り、歩き出した。
長い長い終わりの見えない暗い通路。もうどれくらい歩いただろうか。
暗闇の中でも、昼間のように明るく見える左目の助けられながら、ただひたすらに歩く。
《ダメだよ。ダメ!憎しみを持たないで!!》
―――笑っていたのだ。あそこに居た『人』達は。
甲冑に身を包んでいた為、表情こそ解らないが。少なくとも甲冑を着ていない『魔導師』は。
にたぁ…と下卑た笑みをこぼしていたのだ。
「弱い者を蹂躙するのが楽しくて仕方がない。」
言葉を聴かずとも伝わる程の悪意を。
レラは憎んでいた。
一週間程歩き続けてやっと見えた日の光。
青い葉を茂らせた森が広がり、鳥のさえずりが聞こえる。
そこは『人』であるレラからすれば、異質な光景。
――青い葉が生い茂る森。
極めて清んだ空気。
神聖さを具現化したような空間。
この心安らぐ柔らかな場所は、恐らく『人』が荒らしていない事が条件で成り立つ。
そしてそんな空間だからこそ、先住者はいるもので。
――カチカチカチカチ……
音が聞こえた方向へと視線を移すと、大蟻の群れが、牙を擦り合わせているのを見た。
幾日ぶりかの外の風景を堪能していた少年は、息を1つ吐き、
「……邪魔だよ。」
命を奪う事に何の抵抗もないような、低く冷淡な声を発した瞬間、
その場に居た数十という数の蟻を息絶えさせた。
浮かんだ魂はパリンっという音と共に崩れ落ちていき。
やがて歩き出した少年は、そんな事は気にもくれず。
鬱憤を晴らすかのように、目に映る全ての生物を殺していった。
黒い涙を流しながら。
「……。」
青く澄んだ泉で、水を飲もうと水面に顔を近付けた事で。
レラは左目が黒くなっている事を確認した。
『人』の魂は吸ってはいないにしても、自分が憎しみに支配された自覚はあった。
森に生きる虫を、鳥を、動物を。
彼が殺した大半は、敵意のない者逹だという事にも気づいていながら。
「ふう。」
水を飲み終えたレラは、今度は自分を落ち着かせる為の息を吐く。
右手にはめられた『精霊の欠片』のブレスレットを見て。
――これを獣人に見せなければいけない。
自身に課せられた使命を再確認する。
テレサ帝国、炎の騎士団。
その名前はレラも知識として知っている。
帝国を守る騎士団の中で火属性魔法を操り、魔法耐性防具に身を包んだ集団。
団長は『ゴブリン』という下位の魔族との『契約者』で、上級魔法を放てる程の実力者だと。
レラが見た『魔導師』は、上位の悪魔との『契約者』で、団長ではなかったのだが、そこまでは解る訳もなく。
ただただ『契約者』が持つ禍々しい邪気と魔力に、圧倒されるだけであった。
ともすれば、煌々と燃えている炭を素手で掴める程火に強い野牛族が、火魔法に灼かれ死ぬ事はないとレラは楽観する。
自分がブレスレットを届けるのも、野牛族が身を癒す間、『聖域』を守る者の派遣依頼だろう。
それは概ね正解であり。
状況を整理したレラは、澄んだ空気も手伝って、少し落ち着きを取り戻していた。
レラが食料の入った袋を開けてみると、干した魚が1つだけしか入っていない事に気付く。
節約してきた食料がついに底を尽きたのだ。
「なんだそれーー。めしかーーー?」
突然足元から聞こえた声に警戒心を強めるレラ。
後ろに飛び退き、声の主へと視線をやると……妙な生き物が見えた。
尾が生えた、赤みがかった灰と黒の40センチ程の毛玉に目と耳と口があって、言葉を話している。
少なくともレラは、このような奇怪な生物を見たことがない。
……どうやら攻撃はしてこなそうだ。敵意も魔力も感じない。
「…?」
「めしーーー。めしーーー。うまっ!」
「あれ!?」
レラが軽く傾げた首を元に戻している一瞬で、確かに手に持っていたはずの最後の食料は、目の前の毛玉に食べられていた。
レラは戦慄する。
――魔力を感じない。それは圧倒的とも形容し難い程の、魔力の格差がある事を意味する事を知っていたから。
それは『神の義眼』を持ってしても見えない程の強大な魔力。
例えばこの毛玉が、殺意を持って魔力を解放しただけで、自分は絶命してしまうだろうと。
……しかし幸いにして敵意は無く、言葉が通じるらしい。
「君は……何者?」
「おれはしゃもじだーーーーーー」
レラは混乱する。
確かに言葉は通じているようなのだが。
子供のような物言い。
聞き取りにくい酷く高い声。
強大過ぎる魔力。
『しゃもじ』という聞いた事もない種族。
半ば諦めたレラが肩を落としながら何とか言葉を紡ぐ。
「ひどいよ。僕のご飯だったのに。」
「あ、なおとにおこられるかな?」
「知らないよ。……ナオトってなに?」
「なおとしらないのかー。じゃあついてきて。めしあげるからー。」
「えっ!?……ねぇちょっと!待ってよ!!」
尾を高々と天に上げた毛玉が歩き出したのを、必死に追い掛けるレラ。
どうやら手足はあるようだ。
獣のような形をしているが、小さすぎて。
この様な色合いで、言語を操る獣など、少なくとも自分の知識には存在せず。
それでも邪気も敵意も見えない毛玉を必死に追い掛けた。
「ねえ!ちょ……っと、はや、いよ……。」
レラが声を発した次の瞬間、数多くあったはずの樹が消えた。
森を抜けたのだ。
地平線が見える程の青。
夕暮れ時の空は少し赤く。
森と同じく神聖さを感じる空間。
「にゃおとーーーーーーーーー。めしつくれーーーーー。」
突然、毛玉が叫ぶ。
にゃおと?ナオトじゃなかったっけ?と内心に秘めたレラは、そこで不思議な『人』と出会う事になる。
黒髪、黒い瞳。黄色かかった白っぽい肌の、白い服を着た男。
この世界で黒髪の『人』はそういない。そして何よりも、
――邪気が見えない。
『人』である以上、大なり小なり邪気は渦巻いているのが普通で。
カーミルやシスターですら薄く見えたそれはまるで見えない。毛玉と同じく、理解を超えた魔力の保持者であるという事がそうさせている、という可能性も否めなくはないが。
邪気が見えない『人』と出会ったのは、これが初めてである。
「こいつがはらへったってーーー。」
毛玉が男に話かけているのを見たレラは、
この男が『ナオト』ないし『にゃおと』であるという事を確信した。
極めて奇怪な話だ。
レラが魔力を感じないという事は、少なくとも先日見た『魔導師』ですら足元にも及ばない存在だということ。
『人』の世界で、そんな存在は『王』や『神』と呼称され、国を建国しているはずで。
それがブルーグラス平原の無駄に広い草原で、決して豪華とは言えない服を着て寝ているのだから。
更に、
「お腹がすいてるの?」
レラとの身長差を配慮した屈んだ姿勢。そして優しい声。
慈愛が溢れるその行動と言動はレラを混乱させ、視線を逸らすという行動を起こさせた。
「しゃもじ。どうしたんだ?」
どうやら『しゃもじ』は種族では無く、毛玉の名前のようだ。
答えないレラの様子を気遣う心配り。……目の前の男は王族でもなければ、『魔導師』でもなさそうだ。
というのも、王族や、神と呼称されている『人』、または『魔導師』といった人種は、
――鳴かない鳥は殺し、響かない鐘は壊す。
という言葉が生まれる程、残忍な性格である事が多い為だ。
この男にそんな様子は微塵も見られない。
「れらがおれにめしをくわせてくれたからーなおとにめしをつくらせるのー。」
「……キミが僕のご飯をとったんでしょ!」
レラが反射的に毛玉の言葉を否定すると。
男は何故か安心したような顔になる。
「レラくん?って言うの?」
恐る恐るというように聞いてきた男の腰は低く。
怖がっている自分は失礼なのかもしれないとレラは思う。
「……うん。」
と戸惑いつつも答えたレラを見て、嬉しそうな顔をするこの男には、恐らく自分をどうこうしようとする気はないだろうと確信出来た。
草原を走る……いや跳びはねる変な魚の魂を吸って、男と毛玉の狩りを手伝う。
どうやら本当にご飯を食べさせてくれるようだ。
「何をしたんだ…?」
「…………魂を吸い出したんだ。」
その言葉を聞いた一瞬、男の目が丸くなったが。
すぐに治まり、毛玉に視線を移していた。
「あんまり驚かないね?」
「まぁ、あいつが恐ろしく強いしね。」
――まぁ確かにね。とレラは思う。
毛玉は体長1メートルはあろう大きな変な魚を、ただ触れただけ……いや触れる前、恐らく衝撃波で爆散させていた。
間近に見て感じた魚の強さとは、その表皮の固さにあると理解を出来た上で。
吹き飛ばすならまだしも、爆散させる程の力を持つ毛玉。
――例えばこれが戦場ならば。
幾千もの大群の魂を吸い出すのはレラには不可能である。
魂を吸い出すのには魔力を消費し、対象の魔力による抵抗もある。
休憩無しならば100~200が限度であろう。
又はレラの魔力を上回る存在が少なからず存在する為、『神の義眼』を持ってしても、数の力には敵わない。
だが目の前の奇怪な毛玉は、人海をただ走り抜けるだけで済むだろう。
それにより生まれた衝撃波は、鎧や甲冑が防げる訳もなく、為す術もなく軍隊は壊滅する。
そんな仮説が思い浮かんだレラは、背筋が少し寒くなり。
敵視された時点で、自分は与えられた使命を全う出来ないという事を危惧した。
「あの子からは邪気を感じない。お兄ちゃんからも。すごく強いのに。」
だがそれはすぐに消える。邪気がないという事は、敵意がないにも等しい。
少なからず今すぐには、自分を攻撃したりはしないだろう、と断言出来た。
「邪気とかって感じるもんなの?」
男の言葉にハッとする。
当たり前になりつつあるが、邪気を見る事が出来るのは『神の義眼』の固有能力で。
現段階では主に魂を抜き去るという恐ろしい固有能力を保持している。
「僕はね。左目は、色んなものが見えるんだ。自分より強い魔力を持つ魂は吸い出せないから…怖がらないでね?」
幼いレラは、直接お願いする術以外を知らない。
困ったように笑う少年を見て、男は爽やかな笑顔で少年の頭をかき乱した。
「わわわわっっ!」
乱暴とはいえ、『人』に撫でられたのはカーミルと別れてからは一度もない事を思い出し。
少しだけ涙腺が緩む。
「良し!飯にしよう!ちょっと待ってろ。」
この不思議な男の料理はやはり不思議だった。
腰の鞘からは剣ではなく、白木の平たく先の丸まった棒を抜き。
そしてそれはすぐに刃物の形に変わる。
白木の刃物なのに、表皮が硬いはずの魚は、まるで抵抗を見せずにみるみる解体されていった。
白木の棒は様々な形になり。
塩を出したり、黒い液体を出したり、水を出したり。
そんな不思議な棒を使いこなしていた。
かと思えば、魚の切り身がいきなり浮き上がり、いきなり焼けて。
恐らく15分ぐらいであろうか。瞬く間に魚は食事へと変貌を遂げた。
魚を生で食べようとしたり。
生の魚に、凄く塩味の効いた黒い液体をつけたり。
甘くて塩辛い変な液体に絡めて焼き上げたり。
そんな不思議な料理は、レラの口内から満足感を刺激する。
――美味しい。
黒いぼそぼそとしたパンであったり。
魚や肉を茹でた後の汁に、野菜を入れたものであったり。
貴族であるレラ=メイベルはそんな贅沢な食生活を送っていたのはずなのだが。
ただ焼いた魚にしても。
初めて食べる生のままの魚にしても。
何故か表面だけ焦がされた切り身にしても。
黒いねっとりとした液体に絡まった魚にしても。
同じ魚のはずなのに、1つ1つ味が異なっていた。
――そして何よりも。
心が洗われていく。
レラはそんな気持ちに満たされて。
食事が終わる頃には
「すっごく美味しかったお兄ちゃん!!」
と、満面の笑みを見せる。
その後、仲睦まじく話す男と毛玉を見ていたレラは。
微笑む男の顔が、急に訝しげな視線になった事に気付く。
その先はレラの左目だった。
《あれ?……何で……?》
『小人さん』が呟くのを聞いて
左目が紅くなっている事に気付く。
「え……何で……?ご飯食べたから……?」
《うん。そうみたい。……何だろうね。》
『小人さん』にも解らない事が解る訳もなく。
男に言われるまま、獣人の里に向かう事にした。




