愛のことば
ちっとも美しくなどないの。
こんな感情。
ちっとも美しくなどないの。
嗚呼、それでも私は。
愛のことば
透き通った琥珀色の液体の中で、透明な球体が綺麗な音色を奏でて転がる。カラン、と。
氷が奏でる軽やかな音に、私はうっとりと耳を澄ませた。
「いい音ね」
僅かに低めのハスキーな声が背後で響く。
私は、肩にかかるくらいにまで伸びた髪の毛を手でまとめながら、背後を振り向いた。
「遅かったね、祥子」
「悪い。部長に捕まったのよ」
短い黒髪を撫でつけた長身の美女が、隣のスツールにさっと腰を下ろす。
その腕にかけられていたルイヴィトンの鞄は、まるで小学生が手提げ鞄を投げ捨てるみたいにぞんざいに床に捨て置かれた。
なんとも大胆な、と思って呆れたのは知り合ってすぐの頃で、今はその雑な態度が好きでたまらない。
「マスター、私にも彼女と同じものを」
ハスキーな声で短く注文すると、さっと私のテーブルを見つめる。
「原澤、何も食べてないの? それでウィスキーロック? 随分とまあ男前じゃない!」
「祥子を待ってたんだもん。まだちょっと舐めただけ」
私は、もう、と嘆息して、こじゃれたメニューを手に取った。
綺麗な文字で美味しそうなものが色々と書かれているが、目が躍ってしまい、いまいち選べない。
「あ、祥子。日本酒がある。洋酒でいいの?」
「今日は気分じゃないのよ」
「そうしたら、オリーブ食べたいなぁ、私」
「何を飲んでも結局頼むんじゃないの」
呆れたような祥子の言葉に、私はそれもそうだね、とだけ返してメニューを手渡した。
黒いショートが良く似合う美しい彼女は、柳川祥子という。
今日付けで私の部下になった女である。
実際には、昨日まで同い年の同期で同僚だった。
次年度から立ち上がる新事業に、責任者として参画してもらいたい、という打診が上司から下りてきたのは今から二か月前の話で、その話は私と祥子の両者に言い渡された。
二か月後に昇任試験があるから、それを受けてもらいたい、と言われ、私は祥子の意向を探った。どうせなら、祥子にリーダーになってもらって私はそれを支える役がいい、という腹があったからだ。
昇任試験を受けるか、と聞いたら祥子は、受ける、と言った。
自分も受けるから、あなたも受けて、と言われて、それで私も受けることにしたのだ。
だが結果を貰って、すべてのカードを開くと、結局昇進したのは私だけだった。祥子は最初から試験を辞退していたらしいのだ。
今日のこの席は私の昇進祝い、ということになっているが、私としては事の真相を聞き出すつもりで端から臨戦態勢だった。
そりゃあウィスキーのロックで鼻息も荒くなる。
「祥子、あのね! そもそも」
「原澤。まずは乾杯よ」
「え? うん、そうだね」
「原澤の昇進を祝って、乾杯」
私はつられるようにグラスを持ち上げて、祥子のそれと打ち鳴らした。
だが、響く音に心を奪われている場合ではない。
「祥子! 聞いてよ、なんで祥子は」
「原澤。私はね、貴方のほうがリーダーに向いている、と部長に言ってきたわ、入社からずっとよ」
遮るように言い渡された言葉に、私はぽかん、と口を開けた。
「そもそも人の上に立つ者は、大らかであることが一番重要なのよ。私にはその素養がないわ」
「そんなっ」
「事実よ、原澤。でも、それにしたって貴方は私に気を使い過ぎなのよ」
祥子はちらりと笑うと、グラスに満たされた酒を軽く煽った。
綺麗な指先に目を奪われる。
「貴方にだけ昇進の話を持って行っても貴方は断るって思ったわ」
「だから、一緒にってことにして、貴方だけ受けなかったの?」
「そうよ」
事もなげに告げた強い視線に、くらり、と視界が揺れる。
酷い、と思うよりも先に、美しさで言葉が詰まった。
「祥子、だって」
「私は貴方の下で、貴方を支える役がやりたいのよ」
自分が考えていたことと、まるっきり同じセリフを聞いて、私は思わず笑ってしまった。
「同じだね」
「そう?」
「うん、私も同じことを考えていたんだもの」
私は綺麗な彼女のことがどこまでも好きだった。
同性でありながら、はじめて『触れたい』と願った相手だった。
強く、美しく、逞しい。
まるで戦に出る乙女のような清廉とした潔さを纏った彼女のことが、何よりも誰よりも好きだった。
「祥子」
彼女が部下になってしまったことへの戸惑いは未だに拭えない。
だとしても。
それでも彼女も私と同じことを考えてくれていた、という事実が私の心を羽のように軽くしていた。
「私、祥子とキスがしてみたいわ」
「奇遇ね。私もよ」
え、と驚くより早く、祥子の手が伸びてくる。
首の後ろを柔らかな指で引き寄せられ、あっという間に唇が重なった。押し付けられた柔い感触に、どくん、と心臓が逸る。
「んっ」
「原澤。そうならそうと言ってちょうだい」
「え」
祥子は触れただけで唇を離すと、すぐにまたウィスキーを飲み始めた。
店のマスターは何食わぬ顔で皿を磨いていて、何が何だか分からない。何が起きたのかしら、と。
私はそっと唇に触れて、呆然と祥子を見つめた。
「こら。そんなに物欲しげな目で見ないでちょうだい」
「だって、今のなにか、良く分らなくて」
「簡単よ。キスをしたの」
「そう、だけど」
どくどく、と心臓が煩い。
でも、嫌な鼓動ではなかった。
祥子は、いつの間にかカウンターに置かれていた可愛らしい小皿からオリーブを摘み、私の口元に運んだ。
誘われるままそれを口に含み、訳が分からないまま咀嚼する。
「美味しい」
「もう一回、しても、いい?」
「え?」
祥子は、酷くバツの悪そうな顔でウィスキー片手に、ぽつりと呟いた。カラン、と氷が軽やかな音色を奏でる。
「祥子、私が好きなの?」
ぼんやりと私は間抜けにもそんなことを聞いてしまった。
祥子は呆れたように溜め息を吐き、項垂れる。
「ええ、大好きよ。悪い? 私はね、貴方のことが、もう」
「祥子、私もよ」
「え?」
驚く祥子の頬に手を添えて、今度は私から祥子の唇に触れた。
暖かい感触に、ふわりと体が浮くような心地がする。
「好きみたい、祥子」
「……そうならそうと言ってちょうだい」
「今、言ったもん」
憮然とする祥子に、私はにっこりと笑い返して、ウィスキーのグラスを傾けた。真球に近い氷が、ころころとグラスの中で踊る。
子供みたいで笑ってしまう。
いい年をした大人の女らしく、もう少しスマートに出来ればよかったのに。
私は、愛しい部下を横目に、ちらりと笑った。
『好き』
それは、なんて不器用で不格好な感情なのかしら。
ちっとも美しくなどないの。
こんな感情。
ちっとも美しくなどないの。
嗚呼、それでも私は。
愛のことばを紡がずにはおれなかった。
『好き』
「祥子、もう一回、しない?」
「奇遇ね、私もそう言おうと思っていたのよ」
私たちは、少女のように笑いあって、互いの頬にそっと指を伸ばした。
愛のことばを、告げるために。
Fin.
最後までお読み頂き有り難う御座いました。
常々書きたいと思っていたGL作品です。
共感してくれる方がいることを願って。
個人的にはすごく楽しく書けました。
この二人では、いつか18禁を書いてもいいかもしれません。