第八話:『彼が望んだなら、私は手を引く』
わたくしは、気づいていました。
もう、何をしても、彼の目に映ることはないのだと。
それは感情ではなく、事実として。
傷つき、抗うほどに、見苦しくなるだけ。
ならばせめて、最後まで――美しくありたい。
それが、わたくしにできる、たった一つの意地でした。
王子殿下とフィリア・エストレア嬢の距離は、誰が見ても、明らかでした。
もはや噂というより、既定の流れのように語られていたのです。
「いずれ、正式な婚約発表があるだろう」と。
「王家も新時代を見据えたのだ」と。
「血筋よりも人を選ぶ王子は、美しい」と。
まことに――綺麗ごとばかり。
それらを耳にするたび、喉の奥が冷たくなるのを感じながらも、わたくしは微笑んでいました。
表情を崩すこともなく、取り巻きの前では「お幸せそうで何より」と言ってのけて。
笑顔のまま、紅茶のカップを持ち、舞踏の招待状を選び、書簡に筆を走らせる。
本心を、誰にも見せぬように。
涙を、誰にも気づかせぬように。
そうして、わたくしは“殿下のそば”から、静かに身を引いていきました。
公の場では席を一つずらし、話しかけることも減らし、目を合わせぬように。
意図的ではなく、自然に。
誰にも「避けている」と思わせぬように、巧みに。
殿下がそれに気づいたかは、わかりません。
ですが、ある日。
彼が、わたくしに向けてこう言ったのです。
「……最近、君と話していないな」
驚きました。
あの方が、わたくしの変化に言及されるなど――思ってもみなかったのです。
けれど、わたくしは微笑みました。
いつも通りの仮面で。
そして、こう答えました。
「殿下が、お忙しそうでしたから」
それ以上、彼は何も言いませんでした。
ただ、ほんの少しだけ、視線を外して、静かに頷いたのです。
きっと、わかっておられたのでしょう。
わたくしが、“終わり”を受け入れていることに。
もう、追いすがるつもりなどないことに。
あれは、最後の優しさでした。
「気づいている」と、伝えてくださったこと。
「それでいい」と、受け入れてくださったこと。
わたくしは、恋をしていました。
ただ、それだけだったのです。
王子妃の座が欲しかったわけではありません。
家の名誉のために執着したわけでもない。
ただ、あの方の隣に。
もう一度だけ、あの日のように並んで。
見てほしかっただけなのです。
わたくしという、一人の少女を。
でも、それは叶わなかった。
ならばせめて――
殿下が望む幸せを、邪魔するような女にはなりたくなかった。
“彼が望んだなら、私は手を引く”
それは、敗北の宣言ではありません。
自己犠牲でもありません。
わたくしが、あの方を“愛していた”という、唯一の証。
けれど、その証は。
誰にも知られることのない、ひとりきりの愛し方でした。
その夜。
ユリウス兄様が、何気ない顔でわたくしに言いました。
「ルーティア。おまえさ、最後の最後まで“令嬢”なんだな」
「もっと、みっともなく泣いたっていいのに」
わたくしは笑いました。
「それでは、“悪役令嬢”にすらなれませんわ」
「わたくしは、ただ――」
声が、ふと途切れたのは、喉が締め付けられたから。
続けようとしても、声が出なかったのです。
兄様は、それ以上何も言わず。
ただ静かに、そっと、わたくしの頭を撫でてくださいました。
……まるで、子どものように。
そのぬくもりに、わたくしは気づきました。
ああ、わたくしはもう、愛されることを求めてなどいないのだと。
ただ、“愛していた”と、伝えたかっただけなのだと。
そして。
それすらも、もう誰にも届かないのだと。




