第七話:『“婚約破棄”と、微笑みの裏側』
「それは、あくまでも形式上の話だ」
――殿下のその言葉は、まるで刃のように、わたくしの胸に突き刺さりました。
けれど。
その場にいた誰よりも早く、わたくしは微笑んで、そして頷いたのです。
「ええ、殿下。仰るとおりでございますわ」
穏やかに、やわらかに、まるで最初から何もなかったかのように。
その日、王城において催された“学院選抜者表彰式”。
優秀な成績を修めた生徒たちを、王家自らが顕彰する儀式であり、同時に、社交の舞台でもありました。
例年通り、成績上位者には表彰状が与えられ、将来の進路における推薦枠も話題となる。
中でも、注目されたのは――
殿下が壇上で“王家と学園の関係性”について語る中で、唐突に話された、あの件。
「……それと。かねてより、ヴァレンシュタイン家のご息女――ルーティア嬢とのご関係について、誤解があるようですが」
会場が、静まりかえりました。
誰もが知っていたのです。
“王子妃候補”とは、ヴァレンシュタイン家の娘を指すのだと。
生まれたときから、そう教育され、そう認識されてきた。
疑う者など、ひとりとしていなかった。
けれど、殿下は続けました。
「彼女とは、幼少よりの縁であり、家同士の友誼も深い」
「しかしながら、正式な婚約関係は結ばれておりません」
「誤解が広まることで、彼女の名誉が損なわれてはならない」
「今後、いかなる立場においても、互いを尊重し、礼を尽くして参りましょう」
……それは、どこまでも、丁寧で、誠実な言葉でした。
誹りはひとつもなく、誰かを傷つける意図もなく。
けれど、あまりにも残酷だった。
“王子妃の座は、白紙である”
殿下がそう宣言したに等しい、その発言に。
わたくしの立場は――音もなく崩れ落ちました。
けれど、微笑みは崩しませんでした。
拍手が湧き起こる中で、周囲の視線が集中する中で。
背筋を伸ばし、花のように微笑む“ヴァレンシュタイン公爵令嬢”として、最後まで立ち続けました。
会が終わるころ。
わたくしは、ひとり静かに退出しようとしたその時。
背後から、声をかけられました。
「ルーティア」
振り返ると、そこには――兄、ヴィルヘルム様の姿がありました。
彼は、何も言わず、わたくしの前に立ち。
そして、そっと肩を抱いてくださったのです。
「……兄様」
「……よく、耐えたな」
たったそれだけの言葉が、胸を締めつけました。
わたくしは、兄様の胸に顔を伏せるようにして、小さく震えながら問いました。
「わたくし、何か……間違っていたのでしょうか?」
「努力して、笑って、誇りを忘れずに生きてきたのに……」
「なぜ……“わたくし”では、なかったのでしょう」
兄様は、しばらく黙っておられました。
そして、ひとことだけ――
「間違ってなど、いなかった」
と、言ってくださいました。
けれど、間違っていなかったとしても。
正しさが報われないことがあると、わたくしは、この日、知りました。
その夜。
屋敷へ戻ったわたくしは、部屋の奥、書き付けの引き出しから、あの日の記録を取り出しました。
あの春の日。
庭園で、殿下と剣を交えた記録。
ラネイアの花が咲いていた、あの時の想い。
「無理して笑わなくていい」
あの一言に救われて、生きてきた、すべて。
その記憶を、私は破ることも捨てることもできず、ただ、胸に抱いてベッドへ潜り込みました。
夜が明けるころ、目は腫れ、喉は乾き、指先は冷えきっていました。
けれど、泣きませんでした。
いいえ――
泣けなかったのです。
泣いたら、何もかも崩れてしまいそうで。
この“令嬢”という仮面が、砕けてしまいそうで。
だから、わたくしはまた、立ち上がる。
微笑む。
完璧であり続ける。
それが、“ヴァレンシュタインの娘”であるということだから。
(でも――本当は、ひとつだけ願っていたのです)
(せめて、あの人の口から、“ありがとう”の一言が、欲しかったと)




