第六話:『選ばれたのは、あの子だった』
その夜、わたくしは、庭園の花を一輪髪に挿しました。
真紅のバラ。
誇り高く、美しく、そして――棘を持つ花。
鏡に映るわたくしは、いつもより少しだけ、淋しげに見えました。
それでも、微笑みを崩さずにドレスの裾を持ち上げ、ゆっくりと礼をしたのです。
「準備は、万端」
声に出すことで、胸の奥に沈んだ感情を封じ込める。
“王子妃としての器量”を、どんな場面でも見せねばならないのですから。
王宮主催の舞踏会。
それは、学院生活におけるもっとも格式高く、政治的な意味も含む“社交の檜舞台”でした。
出席するすべての者の名と立場は記録され、どの貴族とどの貴族が共に踊ったかは、周囲の憶測と評価に影響を及ぼします。
中でも、最も注目されるのは――
「第一舞踏」。
王族が舞踏会の冒頭で選ぶ、最初のペア。
その相手は、王族が最も信頼し、好意を寄せているとされる存在。
過去の慣例では、当然その場に立つべきは、わたくしのはずでした。
貴族の序列。血統。器量。過去の功績。
どれをとっても、わたくし以外の名を挙げる者はいなかったのです。
けれど、あの夜。
殿下――レオン・アーデルハイト様が手を差し出したのは、フィリア・エストレア嬢でした。
「お手を、取っていただけますか」
その声は、場内に静かに響きました。
そして、皆が息を呑む中、彼女が戸惑いながらその手を取るのを、誰も止めることはできませんでした。
視線が、わたくしに集まりました。
公爵令嬢。正統な王子妃候補。王家との縁組を前提に育てられた女。
けれど、わたくしは微笑みました。
ゆっくりと拍手をして、ただ一言。
「……お似合いですわ」
そう言って、礼をしたのです。
周囲の空気が一瞬凍りつき、それから誰かが拍手を始め、場が動き出しました。
まるで――何事もなかったかのように。
でも、わたくしは知っていました。
今、わたくしは、敗北したのだと。
舞踏会が進む間。
殿下と彼女が軽やかに踊る姿を、わたくしは遠くから見つめていました。
ほんの数年前。
剣を交わしたあの庭園で、彼がわたくしに手を差し伸べてくださった日の記憶が、どうしようもなく蘇ります。
あの方の手は、確かに温かかった。
その手を、いま――あの子が握っている。
なぜ、と思いました。
なぜ、あの方は、わたくしを見ないのか。
なぜ、努力してきたすべてが、報われないのか。
なぜ、“選ばれた”のは、あの子だったのか。
けれど、言葉にすることはできませんでした。
わたくしは、公爵令嬢。
嘆くことも、嫉妬することも、許されない立場。
微笑んで、杯を取り、談笑し、社交に興じる。
表情を崩さず、足音さえも優雅に。
わたくしは、“完璧な令嬢”として、その夜を最後まで演じ切りました。
……ええ、それは演技でした。
あの夜、礼拝堂の隅に身を寄せて、ひとり静かに座ったとき。
やっと、わたくしは泣くことを許されたのです。
ステンドグラスの光が届かぬ片隅。
誰にも見られぬ、誰も入ってこない、夜の礼拝堂で。
指先に、かすかに震える冷たさ。
足元に垂れたドレスの裾に、ぽたりと落ちるしずく。
それが涙だと気づくのに、少し時間がかかりました。
「……どうして、わたくしでは、なかったのでしょう」
誰に問うでもなく、ただ空へ向けて声を漏らす。
返事など、あるはずがありません。
けれど、それでも。
わたくしは、翌朝にはまた、笑って立ち上がるのです。
公爵令嬢として。
王子妃の座を、失ってもなお、誇りを捨てぬ女として。
――なぜなら。
あの方の隣に立てなかったとしても。
わたくしは、“ヴァレンシュタイン”の名を背負う者であり続けねばなりませんから。
(それでも)
(ほんの少しだけ)
(誰かが、この痛みに気づいてくれたなら……)
その“もしも”に、救われるほど、わたくしは弱くなかったはずでした。
……この時までは。




