第四話:『あの子は、きっと私を壊す』
最初に噂を耳にしたのは、講義の終わり、回廊の石畳を歩いていたときだった。
「レオン殿下、平民の娘と昼食をともにされたらしいぞ」
「まさか、例のフィリア嬢か?」
「いやいや、いくら殿下でも、平民など眼中に……」
「だがな、見たんだ。図書室でふたりきりのところを。しかも――笑っていた」
“笑っていた”。
その言葉に、私は息を飲んだ。
殿下は――王太子レオン・アーデルハイト様は、誰に対しても公平で冷静な方だ。
たとえ貴族であれ、軽々に笑みを向けることなど、ほとんどなかった。
まして、異性に対してなど。
けれど。
その“笑み”が、もし本当だったとしたら。
それが“自然に浮かんだもの”だったのなら――
胸の奥で、鈍く、鈍く、何かが痛んだ。
私の知らぬ場所で。
私の知らぬ誰かに。
あの方が、微笑んでいたという事実が、どうしようもなく私を揺るがせた。
あの春の日、庭園で出逢った少年の笑顔。
「無理して笑わなくていい」
あの言葉を、あの温度を。
私だけが、記憶していたのではなかったのかと。
それすらも、ただの一瞬で、あの方にとっては“誰にでも向けられる表情”だったのかと。
……それが、怖かった。
何よりも、怖かった。
わたくしは、それから何度も“偶然”を装って、殿下とフィリア嬢の様子を観察するようになっていった。
公には「護衛の名目」、あるいは「公爵令嬢としての礼儀的関心」という建前を持ちながら。
誰にも咎められぬ範囲で、ただ、見ることしかできなかった。
殿下は、変わらず寛容でした。
フィリア嬢が魔術の練習に失敗して地面を焦がしたときも。
礼法の試験で居眠りをして減点されたときも。
苦笑を浮かべて、「次は気をつけるように」と言うだけで、それ以上の咎めはなかった。
優しいお方なのです。
けれど、そうではない。
その“優しさ”は、わたくしには決して向けられたことのない、やわらかな眼差しで。
ただの寛容ではなく、“親しみ”すら感じさせる温度が、そこにはあった。
(あの方は、あの子を……)
口に出すことすら恐ろしくて、言葉にできなかった。
否定すればするほど、目の前の事実が、鮮やかに突き刺さる。
そんな折。
わたくしの取り巻きたちが、静かに動き出した。
「ルーティア様、あの者は目障りですわ」
「平民の分際で、殿下のお傍に近づこうなど――身の程知らずにもほどがある」
「このままでは、令嬢方の間でも不満が高まりましょう」
わたくしは、黙ってその言葉を聞いていた。
そして、言うべきだったのだ。
「やめなさい」と。
「そんなことは、わたくしが望むものではない」と。
けれど、口を開けなかった。
否。
開けなかった、のではない。
開かなかったのだ。
喉が、凍ったように。
唇が、縫い付けられたかのように。
心のどこかで、わたくしは思っていたのだ。
(もし、あの子が自ら退いてくれたら)
(もし、もう一度だけ、わたくしの方を殿下が見てくださるのなら――)
それは、願望であり、嫉妬であり、そして罪であった。
ある日。
フィリア嬢の靴に、霊喰いの粉がまぶされていた。
使用法を誤れば魔力を吸い取られ、最悪意識を失う、危険な粉末。
発見される直前、廊下の隅で、それを仕込む使用人の姿が目撃された。
「誰の命令かは申せぬ」と震える声で、彼女は叫んだ。
「お嬢様のお傍に、近づくなと……それだけを……」
周囲の視線が、一斉に、わたくしを見た。
取り巻きは顔を背け、誰一人として声を上げなかった。
殿下はただ、静かに立っていた。
その瞳に浮かぶのは――
失望か、それとも、見限りか。
フィリア嬢は、泣きませんでした。
ただ、靴を脱ぎ捨て、静かに礼を言って、去っていきました。
「ご迷惑をおかけしました。以後、距離を取らせていただきます」
それだけを、凛とした声で。
わたくしは、その背を見送りながら。
何も言えませんでした。
「違う」とも。
「わたくしは知らなかった」とも。
言えば、全てが壊れるとわかっていたから。
言わなければ、“悪役”として、話は片付くと知っていたから。
その日、夜の部屋で、ユリウス兄様が言いました。
「やったのは取り巻きだろうけど、やらせたのはおまえの沈黙だな」
「口を開けば、救えたものを。開かなかったおまえが、それを壊した」
そして、最後にこう言ったのです。
「なあ、ルーティア。おまえの“恋”って、そんなに苦しいものか?」
答えられませんでした。
ええ、答えられるはずもありません。
だって、それはすでに――
恋ではなく、“呪い”になっていたのですから。




