第二話:『花と剣と、檻の中』
あの人は、やさしくなかった。
父――ジークフリード・フォン・ヴァレンシュタイン。
王国剣士団の総長にして、軍政の頂点に立つ男。
“氷の公爵”と渾名されるほど冷徹で、何よりも『名誉』を重んじる人でした。
私に向けられたその眼差しには、ぬくもりというものがなかった。
けれど、それを冷たいと思ったことは一度もないのです。
彼が私に求めたのは、ただひとつ。
「王子妃としての資質」
それはつまり、従順であり、聡明であり、誇り高くあること。
そして何より、“無駄な感情”に振り回されないこと。
「誇りは、剣と同じだ」
「磨かねば鈍り、油断すれば折れる。……お前も、そうであるべきだ、ルーティア」
あの人は、そう言って私の手に剣を握らせました。
五歳の頃でした。
兄たちが毎朝、庭で剣の素振りをしているのを見て、私も同じことをしたいと願ったのです。
言葉にした記憶はありません。
けれど、ある夜、屋敷の裏庭に忍び込んで、訓練用の木剣をこっそり振っていた私を、父は黙って見ていました。
その翌朝。
何も言わずに、彼は本物の木剣を渡してきたのです。
「無駄ではないものにだけ、教える価値がある」
それが、私の剣の始まりでした。
母――エレオノーラ様は、また別の意味で厳しい方でした。
病弱で、常に床に伏しておられましたが、私に求める期待は、父と同等か、それ以上だったかもしれません。
「ルーティア。女であることは、弱さではありません」
「けれど、誇りを纏わぬ美しさなど、貴族の娘には相応しくない」
「貴女は、玉座の傍に立つために生まれたのです。そのことを、決して忘れてはなりません」
彼女は、私の髪を撫でながら、笑うことはありませんでした。
微笑んだことすら、あったかどうか。
けれど、私はその手が好きでした。
どこか冷たく、けれど、心を引き締めるような温度がありました。
私には、二人の兄がおります。
長兄――ヴィルヘルム兄様は、父に似て、言葉少なく、正道を重んじるお方です。
家の名誉を守るため、誰よりも努力をしていると、私は知っています。
父には一度も逆らわず、母にも異を唱えず。
けれど、私のことは、いつも遠くから見守ってくださいました。
夜遅くまで剣の稽古をしていた時、疲れて倒れた私を、黙って部屋まで抱き上げてくれたこともありました。
その時、私は彼の胸に顔を伏せて、はじめて声を漏らしました。
「わたくし、がんばっていますのに……どうして、誰も、褒めてはくれませんの……」
ヴィルヘルム兄様は、その時も一言も言わず、ただ、そっと頭を撫でてくれました。
言葉ではなく、仕草でくれるやさしさ――それが、兄様なのです。
そして、次兄――ユリウス兄様。
……ええ、あの方のことは、どう説明すればよいのでしょうか。
一言で言うなら、“問題児”です。
社交界では女たらしと噂され、父の命には従わず、母には皮肉ばかり。
「自由であること」が彼の美学であり、他人に従うくらいなら牢にでも入ると豪語するお方。
けれど、その奔放さの奥に、彼はよく目を凝らしています。
鋭く、そして……とてもやさしく。
私が、父に剣の型を失敗して打たれた日のこと。
背中に打撲の痛みを隠して、書斎に戻った私に、ユリウス兄様は言いました。
「痛いなら、痛いって言えばいい」
「我慢すれば強くなるってのは、嘘だ。壊れるだけだ」
「おまえが無理をするたびに、誰かが安心して見過ごすようになる。それがいちばん、腹立たしいんだよ」
そう言って、彼は痛む背を冷やしてくれました。
氷嚢を布で巻いて、「泣いたっていい」と茶化してくる彼に、私は返しました。
「泣くものですか。ヴァレンシュタインの名を継ぐ娘が、涙など……」
「……ああ、そうか。じゃあ泣くな。俺が代わりに怒っといてやる」
そう言って、兄様は本当に怒りに行ってしまいました。
父に対して、大声で。わざとらしく。
私の失敗を、自分の失敗にすり替えるように。
……情けないほど、私には、それが救いだったのです。
けれど、それでも。
この家は、檻でした。
父の剣の訓練。
母の冷たい教育。
兄たちの優しさも、その檻の外には広がらない。
――だから私は、そこに希望を見たのです。
あの春の日。
ラネイアの香る王城の庭で、私に手を差し伸べてくれた少年に。
王太子、レオン・アーデルハイト殿下。
「強いな。でも、無理して笑わなくていい」
あの一言が。
私という“檻の中の花”に、初めて差し込んだ光でした。
その光を、私は信じてしまった。
この努力は報われると。
この痛みは意味があると。
私が“ふさわしい女”になれば、あの人はもう一度、私を見てくれるのだと。
……けれど、そんな願いは。
これから訪れる、たったひとりの“平民の少女”によって、崩れてゆくのです。
まだ名も知らぬその少女が、私の世界をゆっくりと、確実に、侵していくことになるとは――
この時の私は、夢にも思っておりませんでした。




