第十二話:(最終話)『記憶の花が咲くならば』
少女は、走りに走った。
涙をこらえて、息を切らして、助けを叫んで。
「誰か~!誰か~!」と。
血に染まった布スカートの端が、森の枝に引っかかって千切れても。
小さな足が、泥に沈んでも。
──ルーティア様が、わたしを、守ってくれた。
その言葉を伝えなければならない。
絶対に、忘れさせてはならない。
まだ震える声で、少女は村へたどり着いた。
言葉にならない言葉を叫びながら、村人たちの手を取って、泣きながら訴えた。
「魔物が……! ルーティア様が……!」
大人たちは、信じられないという顔をした。
いや、信じたくなかったのかもしれない。
たとえ距離を置いていたとしても、あの令嬢が村に与えた恩は、誰よりも知っていたから。
だが、やがて剣を携えた者たちが森へ駆け出し、
少女が震える指で示した場所に、彼らはたどり着く。
そこには、赤黒く染まった草地と、倒れ伏す大きな魔猪の骸。
そして、その傍らに――
彼女は、静かに眠っていた。
「ルーティア様!ルーティア様!」
村人たちがいくら叫んでも、目を開けることは無かった。
微笑みを湛えたまま、まるで今にも目を開きそうなほど穏やかな顔で。
白い手には、血に濡れてもなお輝きを失わぬ銀のブローチが握られていた。
花の形。ラネイアの花。
――かつて、公爵令嬢がこよなく愛した、春の庭の花。
村に戻った一行の中で、誰もが口を噤んだ。
涙を見せぬよう、帽子を深く被り、下を向いた。
けれど、空は不思議と晴れていた。
風が優しく、ラネイアの種子が空に舞った。
少女は、声を張り上げて言った。
「ルーティア様は、わたしを助けてくれたの!」
「……誰よりも強くて、誰よりも優しかった!」
「魔物なんかに、負けたりしなかったんだから!」
その言葉が、風に乗って広がっていく。
誰が教えたわけでもなく、村の者たちは、彼女の眠る場所に花を植え始めた。
それはやがて、小さな花畑になった。
ラネイアの花は、この地には本来咲かぬはずだった。
けれど、不思議とその一輪が根付き、村の人々が手入れをするうちに、徐々に花を広げていったのです。
報が、ヴァレンシュタイン本邸へ届いたのは、その数日後のこと。
手紙は短く、簡潔に。
「ルーティア様、殉職されました」と。
何も語らぬ父、ジークフリード公爵。
その傍で、兄・ヴィルヘルムは静かに拳を握っていた。
やがて二人は、何の付き添いも連れず、トレイグ村を訪れた。
無言のまま、村の者たちに礼を尽くし。
無言のまま、ラネイアの花畑の前に立ち尽くした。
墓標は質素だった。
けれど、村人たちの手で磨かれ、整えられていた。
子供たちが作った小さなリースが手向けられ、
誰かが描いたらしい絵が、石に貼られていた。
そこには、少女が手を引かれながら笑っている。
剣を背に背負った、凛々しい女性の姿。
――ルーティア様。
「誰にも言わなかったけど、あの人、きっと天使だったと思う」
それが、絵の下に書かれていた、子供の文字。
父は、剣を墓前に立てた。
彼女が使っていた剣と同じ型のものであった。
兄は、胸元から取り出した勲章を添えた。
彼女が“学術・武技の両部門で首席卒業”した証の銀章。
花が、揺れていた。
風が、吹いていた。
誰も言葉を口にしなかった。
だが、確かに、その場にいたすべての者が、感じていた。
この地で、誰にも知られず、誰にも褒められず、
ひとり、少女を守って命を落とした“令嬢”のことを。
彼女は、確かにここに生きていた。
“誰かの幸せ”の背景として、誰にも見えぬ形で咲いた花のように。
だから、ある日、村人たちは言葉を交わしたのです。
「この花の名を、なんと呼ぼう?」
「ラネイアの花に、名前を添えてやろうじゃないか」
そして、その花はこう呼ばれるようになりました。
“ルーティアの花” と。
誰にも知られぬ英雄の名が、村の伝承に咲き残ったのです。
──『悪役令嬢は、救われることなく』・完




