第十一話:『この命は、置いていきます』
蹄の音が、大地を揺らしていました。
森の空気が震え、木々の葉がざわめき、霧が引き裂かれる。
わたくしは、その中心で剣を構えておりました。
手の中にあるのは、幼少から父に叩き込まれた「ヴァレンシュタイン流」の細身の騎士剣。
その剣が、今は、少女一人の命を守るために振るわれている。
「怖くありません、大丈夫。目を閉じて」
震える少女の背中を、そっと押しました。
あの子は、わたくしを見上げて、目に涙を浮かべながら頷いた。
その姿が、あまりに幼い頃のわたくしに似ていて――
守りたい、と、心から思ったのです。
魔猪が咆哮する。
それは人の理を捨てた咆哮。
瘴気に染まり、もはや生き物とは呼べぬ、破滅の音。
わたくしは剣を突き立て、真正面からその巨体を受け止めました。
衝撃。
腕が痺れ、肺が潰れそうになる。
それでも、足は止めなかった。
誰も来てくれなくても構わない。
誰も見ていなくても構わない。
たった一人の命を、わたくしは守りたかったのです。
そして――
咄嗟の瞬間でした。
魔猪の三本角が横薙ぎに振るわれ、それが少女の背に迫ったのを見て、
わたくしは、身を投げ出しました。
「逃げて!」
その声が届いたのかどうか。
分かりません。
ただ、確かにその一撃を、わたくしは受け止めたのです。
肉が裂け、骨が軋み、呼吸が止まる。
それでも、腕を伸ばし。
少女の背を、押し出しました。
走れ、と。
生きて、と。
わたくしの命では届かなかった未来を、どうかその足で踏みしめてほしいと。
視界が霞み、世界が遠のいていく。
倒れたわたくしのそばに、剣が落ちる音がした。
濡れた土の匂い。
夜の空気。
木々の葉のざわめき。
そして、あの子の小さな足音が、森の奥へと遠ざかっていく音。
(よかった……)
(誰にも届かない人生でも……)
(最期くらい……誰かのために……)
それは、孤独ではありませんでした。
苦しみでも、悲しみでもなく――
ただ、静かな、ひとつの「選択」だったのです。
手の中には、小さなブローチが握られていました。
銀でできた、小さな、ラネイアの花の形をした飾り。
あの春の日、殿下と出会った庭園に咲いていた花。
いつか贈ろうと思って、けれど渡せなかった、たった一度の想いの形。
わたくしは、それを胸に当てて、微笑みました。
――ありがとう、殿下。
世界が、闇へと溶けていきます。
誰かの記憶から、ゆっくりと消えていくように。
けれど、それで良いのです。
わたくしの物語は、ここで終わり。
誰にも語られない、“悪役令嬢”の、幕引き。
この命は、置いていきます。
あなたの未来の、邪魔にならぬように。
だから、どうか。
あなたは――
――幸せに、なってくださいませ。




