第十話:『最果ての村にて』
馬車に揺られながら、わたくしは窓の外を見つめておりました。
延々と続く林、風に揺れる草の海、石ころばかりの小道。
王都の整えられた石畳とはまるで違う、**「辺境」**と呼ばれる地の風景。
けれど、それを見て、胸の内はむしろ落ち着いておりました。
王都を離れたのは、卒業から半月後のことでした。
社交界はしばらくざわつきましたが、公には「療養と視察を兼ねた長期滞在」として通達が出されました。
父も、兄たちも、何も言いませんでした。
その沈黙こそが、理解と――哀しみの証でした。
向かったのは、ヴァレンシュタイン領の最北、トレイグ村。
最果ての村。
地図には載っていても、王城にその名を記す者はほとんどいないほど、僻地にございます。
年に数度、盗賊が越境し、近年では魔物の出現すら報告されていた場所。
わたくしはそこに、自ら希望して、足を運んだのです。
目的は、ただ一つ。
“何かを成す”ためではなく。
“何かから逃れる”ためでもなく。
――わたくしという人間を、ここで、もう一度定めるために。
初めて訪れた村は、想像していた以上に荒れておりました。
外壁の柵は半ば朽ち、井戸は干上がりかけており、夜になると明かりがほとんど消える。
笑顔の少ない人々。警戒の眼差し。
「公爵令嬢がなぜここに?」と口には出さずとも、誰もがそう思っているのが分かりました。
けれど、構いませんでした。
好かれる必要など、どこにもなかったのです。
翌日より、わたくしは鍬を取りました。
城で育ち、王都で着飾り、礼儀作法と魔法理論ばかりを学んできた身。
けれど、剣を握るよりも――
この地では、井戸を掘る方が、意味を持つのだと理解しておりました。
数日後には、土の魔法を応用して灌漑の導線を引き直しました。
さらに、診療所の不足薬品を王都経由で補充し、盗賊避けの防壁に魔除けの印を再設置。
ただの“令嬢”ではなく、“役に立つ者”であろうと努力したのです。
徐々に、村の子どもたちが寄ってくるようになりました。
最初は、遠巻きに見ていただけの子が、少しずつ笑うようになった。
それは、どんな勲章や評価よりも、尊いものでした。
「ルーティアさま、剣、見せて!」
「わたしもやる! 構え、これで合ってる?」
「お姫さまみたいなのに、がんばるんだね……」
いいえ、お姫さまではございません。
ただの、“一人の女”です。
恋をして、負けて、忘れられて。
それでも、生きる場所を探している――そんな、凡庸な人間です。
だからこそ。
この地で、わたくしは“過去”を語りませんでした。
王子殿下の名も。
学園での栄誉も。
舞踏会の栄華も。
すべて、過去のこととして、胸の奥に閉じ込めたまま。
ただ、“今”を生きることだけを考えました。
朝日とともに起き、畑を回り、警備に立ち、夜は日誌をつけて眠る。
そんな当たり前の時間が、わたくしを救ってくれていたのです。
けれど――
穏やかな日々というものは、決して永遠ではございません。
それは、ある日の夕方。
西の森から、魔物の“猪”が現れたとの報が入ったのです。
報せを持ってきたのは、まだ十にも満たぬ子どもでした。
顔を真っ赤にし、泣きながら叫ぶように伝えてくれました。
「森にいた……! でっかいイノシシ! 角が三本あって……お父さん、逃げられなかった……!」
「妹が、まだ森の中に……っ!」
わたくしは即座に腰の剣を取り、村の男たちを募りました。
けれど、誰もが怯えていた。
それは当然のことです。
魔物は、ただの野生生物ではありません。
瘴気に呑まれ、理を失い、攻撃性だけを増幅させた存在。
しかも、この村には騎士団も、術師もいない。
「わたくしが行きます」
そう告げると、村長が立ち上がり、苦々しい声で言いました。
「……あなたは、公爵の娘だ。そんな危険な――」
「公爵家の娘である前に、この地に立つ者の一人です」
わたくしは、静かにそう答えました。
「今、この村で“剣を振れる者”がいるのなら、名に関係なく、それが行くべきなのです」
その言葉に、誰も反論はしませんでした。
代わりに、村長はそっと、わたくしの手にお守りを握らせてくださいました。
小さな、手縫いの布袋。
「帰ってきなさい」と、それだけを。
夕闇の森は、霧が立ち込めておりました。
咆哮が響くたび、木々が震え、鳥たちが一斉に飛び立つ。
奥へ、奥へ。
足音を忍ばせながら、わたくしは剣を抜きました。
そして――それは、そこにいました。
巨躯。鋼のような体毛。赤黒く濁った三本角の魔猪。
その蹄が地を打つたび、草が薙ぎ倒される。
その後ろに、震える少女の影。
わたくしは、剣を構えました。
そして、駆け出したのです。
この命は、もう誰かのために捧げられても構わない。
それが“あの方”のものではなくとも。
せめて、この村の、小さな命のために――
剣が火花を散らした、その瞬間。
心は、不思議なほど静かでした。
まるで、すべてが赦されたかのように。




