第一話:『花咲く日、彼と出逢う』
あれは、白い花の咲く季節のことでした。
私が初めて、ラネイアの香りを憎らしいと思った日のことです。
あの甘い匂いを嗅ぐたびに、心の奥底がざわめくのは、今も変わりません。
王都にて催された春の晩餐会。
ヴァレンシュタイン家の嫡女として、私はついに“舞台”へ上がる時を迎えていました。
それはつまり、ただの子供ではいられないということ。
世間に向けて、「将来の王子妃候補」としての器量を示さねばならないということ。
「公爵令嬢は、ただ美しければよいのではありません」
「愚かな振る舞いひとつで、家の名誉が損なわれるのです」
「笑顔は一分の角度で。語尾はやわらかく、声色は丁寧に」
言われ飽きた教訓の数々が、脳裏で反響するたび、私は喉が渇く思いでした。
たかが八歳の少女に、そこまで求めるなどと――正直、馬鹿げていると今でも思っています。
私は、完璧であらねばなりませんでした。
愛らしく、聡明で、誇り高く。何より、「王子の隣に立つにふさわしい」存在で。
けれど。
だからこそ、私は逃げ出したのです。
広すぎる庭園の奥。
古い石畳の路地をひとり辿り、小さなラネイアの咲く区画へと身を隠しました。
静かな香りと、淡い日差しと、風に揺れる白い花々。
そのどれもが、舞踏会の喧騒とは違って、穏やかで。
私は、ほんの少し、息をつきたかっただけなのです。
「……あれ。こんなところに誰かいるとは、思わなかったな」
その声に、思わず肩を跳ねさせました。
振り向けば、そこには少年が一人、私を見下ろすように立っていました。
金の髪に、深い琥珀の瞳。
緋と黒の礼服にあしらわれた紋章――王家の象徴。
その気品ある佇まいは、誰であってもひと目で気づくでしょう。
彼こそが、この国の第一王子。
私の“未来の婚約者”として名を挙げられている少年――
「……レオン、殿下」
私がそう名を呼ぶと、彼はひとつ眉を上げて笑いました。
「名前を知っているのか。では、君が……ヴァレンシュタイン家の娘か」
「はい。ルーティア・フォン・ヴァレンシュタインでございます」
「なるほど。確かに、貴族の娘らしい顔つきをしている」
「そうでしょうか」
「うん。気が強そうだ」
無遠慮な物言いに、私は少しだけ目を細めました。
初対面の相手に対する言葉としては、あまりに不用意です。
「殿下のご印象に添えたのなら、幸いにございます」
「ふうん。皮肉を言うんだな、君」
「いいえ。事実を申し上げただけです」
口調こそ穏やかに。
けれど、私は確かにムキになっていたと思います。
八歳の子供にしては、ずいぶんと大人ぶった対話だったかもしれません。
しかし彼もまた、子供らしくはありませんでした。
「退屈していたんだ。少し付き合ってくれ」
そう言って彼は、手にしていたものを私へ放りました。
受け取ったそれは――木刀。
王族の訓練用に使われる、重みのある稽古用の剣でした。
「……これは?」
「試してみたくてね。君、剣の稽古をしているだろう?」
「なぜ、そう思われたのですか」
「君の歩き方を見れば、わかる。足運びに無駄がない」
私は言葉を失いました。
気づかれないようにしていたはずなのに。
女性が剣を習うことをよく思わない者も多いこの国で、誰にも明かさず通してきたのに。
彼は、たった一目で見抜いたのです。
「一本勝負。手加減はしない。構えてくれ」
それは、挑戦でした。
見下されているわけでも、侮られているわけでもない。
ただ純粋に、私の“力”を試そうとしている。
そのことが、どうしようもなく――誇らしかった。
「……では、お受けいたします」
私たちは剣を構え、庭園の一角を舞台に、静かに対峙しました。
一呼吸。
そして――踏み込む。
私は全力で剣を振るいました。
木刀の重さを殺し、最短距離で斬り込む。
幼い体に刻まれた、訓練の成果。
けれど彼は、それをすべて受け止め、流し、躱し。
五合も交えた頃には、息が上がっていたのは私の方でした。
そして六合目。
彼の刃が私の剣を高く弾き飛ばし、手から滑り落ちる音が響いた。
私は、ひざをつきました。
それでも、礼は忘れずに。
「……お見事、でした」
そう口にした時。
彼は、ふっと顔を近づけ、私の手を取って言いました。
「強かったよ。君は本当に、剣を知っている」
「ですが、私は……負けました」
「うん。でも、それでいい。誰だって、最初は負けるものだ」
「……悔しくなど、ありません」
「それでも、泣きそうな顔をしている」
私は、はっとして彼を見上げました。
彼の目は、真っすぐに私を見ていて。
そして、ほんの少しだけ、優しく微笑んでいました。
「君がそんなに頑張っていること、誰かが知っているべきだと思ったんだ」
その言葉に――私は、こらえきれずに、涙をこぼしました。
こんなにも、無様で。
こんなにも、嬉しかった。
ああ、私はきっと。
この日から、あの人を愛してしまったのだと思います。
恋など、知るはずもなかった八歳の少女が。
心のどこかに、確かに灯ってしまったこの感情を。
私は、人生の最後まで――背負って生きることになったのです。




