ゆりかごの外の世界
ある日、イレーネが俺を抱きながら本を読み聞かせた。
紙をめくる音と、文字をなぞる声。
その瞬間から、俺は「音」と「記号」を同時に結びつけられるようになっていた。
一度見て、聞けば、それが意味を持つものとして頭に刻まれる。
赤ん坊の身体に閉じ込められているのに、理解は大人以上の速度で進んでいるように感じた。
イレーネの声は物語を運び、ダモンの声は戦や歴史の記録を伝えた。
「川」「山」「都」――新しい言葉を知るたび、頭の中の地図に線が描かれていく。
やがて「アルカンディス」というこの世界の名も、その地図の中心に置かれるようになった。
母と父とは別に、三人の影が常に俺の周囲を行き来していた。
一人は年配の女性。
髪に白が混じり、いつもきちんとまとめられている。
入ってくるときの足音はゆっくりで、衣擦れの音まで静かだった。
俺の額に手を当てて体温を確かめ、布団の皺を伸ばし、部屋の空気を整える。
その仕草は几帳面だが冷たくはなく、「すべてを見てきた」という安心感を漂わせていた。
ある夜、イレーネが疲れて早く休んだとき、彼女は俺に小さな声で物語を読んでくれた。
抑揚の少ない声なのに、不思議と眠気が訪れ、気づけば朝を迎えていた。
一人は背の高い男。
廊下を歩く足音は重く、床板を踏むたびに一定の間隔で響く。
部屋に入るとまず窓を確認し、扉の鍵や壁際を見回す。
言葉数は少なく、返事は「はい」「ええ」程度。
しかしある日、彼が俺を抱き上げたとき、胸元から革の匂いが漂った。
見れば腰に短剣が下げられていた。
俺は無意識に手を伸ばしたが、彼はそれをそっと避け、代わりに俺の小さな手を自分の指で包み込んだ。
剣を触らせない厳しさと、守ろうとする優しさ――その両方が伝わった気がした。
最後の一人は若い少女。
足取りは軽く、部屋に入るときは扉を勢いよく開ける。
明るい声で歌を口ずさみながら掃除をし、俺を覗き込むと「ばあっ」と顔を近づけて笑わせる。
あるとき彼女は、自分の練習帳を持ち込み、文字をなぞっていた。
うまく書けずにペン先が滲むと、口を尖らせて俺に訴えるような視線を向ける。
俺が「うー」と声を出すと、「そうそう!」と勝手に励まされた気分になったらしい。
さらに彼女は俺に棒を握らせ、布の上に線を引かせた。
ぐにゃぐにゃの線に「上手!」と笑顔を見せ、まるで姉が弟を褒めるように頭を撫でた。
その笑顔は子どもっぽい無邪気さの中に、どこか温かい親しみを含んでいた。
三人はそれぞれ役割が違った。
年配の女性は家を整える目であり、背の高い男は屋敷を守る盾であり、若い少女は空気を明るくする灯のようだった。
三人の存在が重なることで、屋敷全体がひとつの大きな身体のように呼吸している。
その中心に、俺の小さなゆりかごが置かれている。
言葉の理解はさらに加速していった。
「水」「眠れ」「食べろ」
声と行動が結びつき、意味が自然に浮かぶ。
「静かに」「急げ」という会話の断片も、少しずつ場面と繋がり始めた。
そして、俺は時折、彼らの声を真似ようとした。
「……イレ……ネ」
拙い発音だったが、イレーネは驚いたように目を見開き、涙を浮かべながら俺を抱きしめた。
「……ダモ……ン」
ぎこちなくも名前を呼ぶと、ダモンは笑みをこらえきれず、大きな手で頭を撫でてくれた。
それは前の世界で得られなかったもの――名前を呼び、呼ばれる喜びだった。
やがて本を読んでもらうとき、俺は自分でページをめくろうとした。
小さな指先は力も足りず、紙はくしゃりと折れただけ。
それでもイレーネは「すごいわ」と笑い、ダモンは「慌てるな」と本を押さえた。
前世で積み重ねた知識は孤独を埋めるためのものにすぎなかった。
だが今は違う。
ここでは知識が、人と世界を繋ぐための橋になっている。
まだ足は動かせない。けれど、目と耳と手はすでに世界へと伸び始めている。




