超弩級! 満員電車の聖域防衛戦
地獄。
今日の通勤ラッシュは、まさにそう形容するのが相応しかった。
ぐえっ、とカエルの潰れたような声が漏れる。
僕は、乗った入り口の逆のドア際に押し込まれ、戸袋の手すりが胸に食い込む!
人、人、人! 視界の全てが人の壁で埋め尽くされている。
(こ、呼吸が…! あばらが軋む…!…………酸素…プリーズ…!)
その時! さらなる乗客ウェーブが僕を襲い、僕とドアの間に、ふわりと軽い存在が挟まってきた。
小柄な女性だ。
「きゃっ…!」
(うおぉっと!?)
不可抗力。
それは理解している。
だがしかし! 満員の圧力が、僕の体とドアとの間にいる彼女の存在を、嫌というほど意識させる。
特に…その…なんだ…脇腹に感じる、柔らかくも確かな…二つの輪郭?
瞬間、僕の脳内で別の種類の警報がけたたましく鳴り響いた!
これは一目惚れとは違う、もっと直接的で、生物的な信号!
『緊急警報! 緊急警報! 第六感応領域、未知の触覚情報受信! 高エネルギー反応、解析急げ!』
「グヘヘ…来たぜ来たぜ…!」
真っ先に反応したのは、よだれを垂らしそうな表情の【煩悩(リビドー担当)】だ!
「おい悠斗! 感じるか!? この奇跡的な密着!
これは脳の報酬系へのダイレクトアタックだ!
ドーパミン! セロトニン! 全部出せぇ!」
「待てぇい! この破廉恥漢めが!」
血相を変えて飛び出してきたのは、鋼鉄の意志を持つ【理性(倫理回路担当)】!
「断じて意識するな! これは事故だ! 不可抗力! 相手は何も悪くない! 貴様のその汚れたフィルターを通すな! 認知バイアスを排除しろ!」
「うるせぇ!」煩悩が反論する。
「不可抗力だからこそ素晴らしいんじゃないか! この背徳感! このスリル!
まさに『刺激追求性』の極み! 全感覚を研ぎ澄ませ! この一瞬を記憶に焼き付けるんだ!」
「焼き付けるな! 忘れろ! 無心になるんだ! そうだ、マインドフルネスだ!
今この瞬間の…って、違う! そっちに集中するな!」
理性が必死に雑念を振り払おうとする。
だが、無情にも電車の揺れが、断続的にその…柔らかい感触を僕の脇に伝えてくる。
(やばい…やばいって…! 顔に出る! ニヤけたら社会的に死ぬ!)
僕は奥歯をギリギリと噛みしめ、座席横の掴まり棒部分をつかんで額に脂汗を浮かべながら、必死に平静を装う。
脳内では煩悩軍と理性軍が、かつてない激戦を繰り広げている。
「いっそ腕で壁を作って空間を…!」理性が閃く。
「愚か者! 接触面積が減るではないか!」煩悩が叫ぶ。
「これ以上は危険だ! 紳士であれ!」
「紳士も時には獣になるのだ!」
そうだ、空間を作るんだ! このままでは僕の理性が蒸発する!
「だ、大丈夫ですか!?」
僕は、煩悩の抵抗を振り切り、全神経を腕に集中させてドアに突っ張った。
ぷるぷると震える腕。紳士的な行動…のはずが、必死すぎて顔は引きつっている。
僕の腕とドアの間にできた、わずかな聖域。
そこにすっぽり収まった彼女は、驚いたように僕を見上げていた。
くりっとした大きな瞳…。
(はっ…!)
そこで初めて、僕は彼女の顔をちゃんと認識した。
そして気づく。
彼女が、少し困ったような、でもどこか面白そうな表情で、僕の必死の形相を見ていることに。
「ふふっ…」
彼女が、くすりと笑った。
その瞬間――。
ドキューーーーン!!!
僕の脳内で、過去最大級の衝撃波が走った! 緊急会議? そんな悠長なものじゃない! 全神経細胞が一斉にスパークし、思考が完全にオーバーヒート!
【速い認知】が100ミリ秒で「カワイイ! 天使!」と断定!
【ドーパミン担当】が「計測不能! 臨界突破! もはやこれは純粋な幸福物質!」と絶叫!
【情熱的惹かれ担当】が「運命! これぞ運命の出会い! キターーーッ!」と号泣!
【理性】? ああ、彼は圧力で意識不明だ。
これが…これが「一目惚れ」の真髄か!
前回の「隣の席」や「エスカレーター」とは比較にならない、圧倒的な衝撃!
彼女の笑顔一つで、僕の世界は色づき、脳内物質はお祭り状態だ!
(この人だ…! きっと、この人こそ…!)
僕の脳が「ポジティブ・イリュージョン」全開で、彼女との輝かしい未来を勝手に描き始めた、まさにその刹那――
『――まもなく、〇〇駅、〇〇駅。お出口は、右側です』
ガタン! プシューッ!
無情にも電車は駅に到着し、僕が守っていたはずのドアが開いた。
瞬間、雪崩のように人々が降りていく。
「あ…!」
僕の腕の檻から解放された彼女は、人波に押されるようにホームへと降りていく。
振り返って、何か言いかけたような気もしたが、あっという間に雑踏の中に紛れて見えなくなってしまった。
「…………」
腕を突っ張ったまま、呆然と立ち尽くす僕。
さっきまでの脳内カーニバルは嘘のように静まり返り、祭りの後のような虚しさだけが残った。
(また…だ…)
掴みかけた(気がした)運命の糸は、またしても指の間をすり抜けていった。
一目惚れの衝撃は本物だったけど、それを持続させるチャンスは、今回も一瞬で消え去ったのだ 。
とほほ…僕の恋は、いつも化学反応止まりらしい。
次の駅まで、震える腕をさすりながら、僕は一人、夕焼け色の感傷に浸るのだった。