春が似合う君にリボンを
やっと春を感じ始めた頃の朝。手袋を出すほどではないけれど、少し指先が冷たくて、薄手のコートのポケットに突っ込んだ。
私はグレーのスニーカー、横を歩く美岬はレモン色のパンプスを履いていた。足の甲のところでリボンが結ばれていて、とてもかわいいデザインだった。
「ねえ、みーちゃん」
「なあに?あーちゃん」
美岬とは、もうかれこれ12年ほど友達をしている。
私は、彼女をみーちゃんと呼ぶ。彼女は、私の名前が灯だからあーちゃんと呼ぶ。
そうやって小学生の頃からずっと一緒に過ごしてきた。
「みーちゃんこれから浜に行くのに、その靴でいいの?」
「まあ、大丈夫でしょ」
これヒール低いしね、そう言って美岬は笑う。
田舎町の朝早く。道を歩いてる人もいなければ、通る車もない。とても静かで、美岬のパンプスの鳴らす足音が軽やかに響いていた。
女子二人だけでぽつぽつと歩いていると、やがて海の匂いが香ってくる。
松林の中の小道を通っていく。そこらじゅうに転がっている小枝すべてを避けることは不可能で、踏んでしまうとぽきっと音がする。私は美岬が歩きやすいように、時折小枝を蹴飛ばして歩いた。
たまに朝の海を見に散歩に繰り出すこと。それが私のお気に入りだった。
家から10分ほど歩けば着くこの浜辺は、日本の浜辺の百選に入ったというまあまあ綺麗な場所で、夏休みの時期になると駐車場は車で溢れてしまう。
でも季節外れの朝である今このときは、見渡す限り私と美岬しかいなかった。
松林を抜けた先にあるのは、柔らかいベージュの砂浜と、朝日を反射させて眩しい太平洋だ。
青い海ではなく、光に包まれた白い海。
天気がいい日にしか見ることができない景色なのだけれど、今日の海はさらに稀有な表情を見せていた。
「みーちゃん、こんな日もあるんだね」
私は思わず美岬の顔を覗き込んだ。
「ほんと。私も初めて見た」
美岬も驚いた顔をしていた。浜に来ると潮風で髪がボサボサになるから嫌と、この子はいつも髪を押さえるけれど、今日はその必要がなかった。
松林を歩いていた時から感じていた違和感。いつもなら、心地よい波の音が聞こえてくるはずだった。でも今日は、波の音が聞こえない。
ただ綺麗で穏やかな水面が、遥か先まで続いていた。
潮風もない。風がないから、波もない。なんて、静かなんだろう。
「あーちゃん、行こう」
「えっ」
美岬が波打ち際の方へ走り出した。美岬の長い髪と水色のコートがふわりと揺れる。
景色に見惚れていた私もはっとして、海の方へ駆け出した。
スニーカー越しでもわかる柔らかい砂を踏みしめて走る。
「めっちゃきれい!」
「どうしようすごくない!?」
慣れ親しんでいるはずの場所で見る知らない景色に、二人ではしゃいでしまう。
そういえば、さっき走り出した美岬の背中を見て思い出した。
大きなランドセルを背負っていた小さい頃、初めて遊んだ春の日も、美岬が私に声をかけてくれたんだった。
美岬はいつだって足を止めてしまう私の背中を押してくれた。基本ネガティブで心配性な私を、いつも笑い飛ばしてくれる。そんなふうにずっと助けられてきた。
水辺に着いた。近くで海を覗いてもやっぱり信じられないほど穏やかだ。
湖というか、信じられないほど大きくてきれいな水たまりみたい。
打ち寄せる波がないから、波から逃げずにずっと同じ場所で水面を眺めることができる。それはとても不思議な感覚だった。
「パンプスに砂入った!」
「あはは!そりゃそうだよ」
美岬は走ったことで緩んだパンプスのリボンを一度解くと、片方を脱いで入ってしまった砂を落とす。私はそっと手を差し出して片足で立つ美岬を支えた。
「今このまま靴下脱いで海入るかすごい悩んでる」
「わかる」
「でも寒い」
「タオルもないよ」
「うん、諦めた!」
砂が落ち切ったことを確認した美岬は靴を履き直す。手持ち無沙汰な私は再びリボンが結ばれていくところをただ見ていた。
すると、美岬がふと声のトーンを少し下げて、話を変える。
「あーちゃん、あのさ」
「ん?」
「絶対、今日あーちゃん散歩に出ると思ったんだよね」
そう、今朝は浜に行こうと玄関を出たら、美岬が迎えに来てくれていた。珍しいこともあるもんだと、私はとてもびっくりしたのだ。
普段言葉を詰まらせることがない美岬が、ゆっくりと言葉を選んでいた。
「18年この町にいても見たことない景色があるんだからさ」
うん、今日の景色は生まれて初めて見るものだったね。
「たまには帰ってきて」
リボンを結び終えると、私ではなく海を見ながら美岬はぽつりと言った。
「帰ってくるよ」
私も視線を海に戻して、美岬に答える。
今日これから、私は生まれ育ったこの町を出て上京する。東京の大学に通うためで、向こうで一人暮らしを始めることになる。
美岬とは一昨日も遊んでいて、そのときに別れというか挨拶はちゃんとしていたつもりだった。
いつもと違う美岬の雰囲気に、もしかしたらと思う。
私にとって東京は、母も学生時代を過ごした場所で、旅行で何回も行ったことがある場所だった。物理的にはともかく、心理的に遠くはなかった。
でも、美岬にとっては違うのかな。こんなに惜しんでくれるとは思ってなかった。
私が朝の海が好きなのをずっと前から知ってても、一度も一緒に来てくれたことなかったくせに。
「ほんとに帰ってくる?」
「帰ってくる。なんならゴールデンウィークに帰ってきてもいいよ?」
私の言葉に美岬が一度目をぱちくりとさせて、下を向いた。それから、「そっか……」と呟いた。
どこか安心したような美岬の様子に、私もつられてほっとした。
「帰ってくるから、そしたらみーちゃんまた散歩付き合って」
「うーん、それはどうしようかな」
「みーちゃん、ここはいいよって言おうよ……」
「ふふふ」
「もうっ」
波打ち際で二人で笑う。
いつもみたいに2人で笑い合ったとき、風が浜に戻ってきた。水面にゆっくりと波が現れ始める。
いつもと違う特別な景色が見れたのは、本当に少しの間だけだった。その宝物みたいな瞬間を、2人で共有することができてよかった。
数秒間、変化していく景色を目に焼き付ける。
「きれいだったね」
「うん」
やがて、波の音も耳に届くようになる。
名残惜しさはあるけれど、またここには来れるから。
美岬のかわいいレモン色のリボンを濡らさないように、私たちはゆっくりと波打ち際を後にした。
ぴんと繋がっている糸ではなくて、すぐにふわりとゆるんで崩れてしまうリボン。
結び目が綻んでしまったらその度に結び直さなければ簡単に離れていってしまうそんな儚いもの。
人と人との関係だって、もしかしたら同じようなものかもしれない。
今朝は私が気づいていなかったリボンのゆるみを、きっと美岬が結び直してくれたんだろう。
次は多分私の番。
夏になる前にきっと帰ってくる。
リボンを結びに、帰ってくるよ。