へポロス
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僕の目の前にはいつも「へポロス」があった。それが昔から当たり前だったから、へポロスに驚く人に僕は驚いたし、へポロスに困惑する人には困惑をした。もしかしたら僕も初めは受け入れられなかったのかもしれない。しかし記憶で遡れる範囲、すなわちこの世界ではへポロスは当然のものであり、へポロスは世界の境界でもあった。
僕は海が好きだ。昔は一人でよく海を見に行ったものだ。人生に悩みがあったわけでも海に伝えたいことがあったわけでもない。海と僕は根本的に異なる。だから海は僕の話す言葉を理解できない。逆もまたしかりだ。海も海なりになにか言いたいこと位はあってもおかしくない。それをこんなにも親しい僕に話してこないということはきっと人には伝えられないのだと思う。それでも僕は海に行く。それがへポロスのためなのか。僕は海とへポロスなのか。遠くで海鳴りがする。海なりに。
知的好奇心というのは到底僕には理解できない概念だった。Aという事象がそこにある。それを理解したいというのは結局どういうことなのか。仮に辞書にAが載っていたとする。Aとはまさにあれであり、これであり、アブラカダブラ。それにうんうんと頷いてみる。これで知的好奇心は満たされるのか。はたまたAという事象を再現できるようにする。これまたアブラカダブラ。わあっと驚く。だから何だと僕は問いたい。世界は構築されている。その皮をべりっと剥がせばそこにはまた皮がある。この作業を続けていけば僕たちは僕たちにたどり着く。世界は僕を基準に構築されているからだ。そんなへポロスな世界に対して、理性を用いるのはファンタジーを書くくらい滑稽な行為だと考えている。
読者の皆さんはへポロスな世界についてどう考えているのだろう。きっと様々なへポロスではない友人と無駄な時間を過ごし、へポロスのかけらも感じない教師に頭をさげ、そのくせへポロスに浸っている。
へポロスなへポロスはへポロスなりにへポロスであり続けるだろう。それが君であっても、僕であっても。へポロスだから。君は困惑した表情を浮かべる。僕はそれに困惑した表情で答えた。それもへポロスであり、僕はへポロスなへポロス的へポロスを感じる。僕はへポロスを手の上にのせて君に見せる。それがへポロスだから。これがへポロス。君もへポロス。君は首を横に振る。
僕はそれをへポロスだと感じることにした。へポロスはへポロスでしかない。これが僕であり、僕が世界の中心にいる理由に他ならない。
お読みいただきありがとうございました。
嘘は言ってません。