美味しい誘惑
ステラの案内で艦内を散策しているミナ、恐ろしい噂しか聞かないイカロスの艦内をおっかなびっくり歩いて行く。ふと、ミナが廊下の上を漂う靄に気付き火災かと一瞬身構えるが、その靄から夕餉時の家路とも似た蠱惑的な匂いが漂ってくるのに気付く、思わずトロンと目が蕩け口元が緩んだミナにステラがくるりと振り向いた。
「ミナちゃん、ここまで案内した中で何か気になるものはある?」
「ひゃいっ!? あ、いえ、大丈夫でっ……」
突然話しかけられて慌てた拍子に気が抜けたのか、ミナの腹からきゅるるるる……と細い音が鳴り響く、腹を押さえて真っ赤になったミナをステラが一瞬呆気にとられた様に見て、次に盛大に笑い出す。
「ぷっ……ククク……あはははははははは!! いや、そうだよね! もう食事時だし、こんないい匂いしてたらそうなるわよね! よし! じゃあちょっと食堂寄って何か食べていこうか!」
「へっ? いやいやいや! 艦にお邪魔しておいてお食事までなんてそんな恐れ多い……!」
慌てて固辞するミナだが身体は正直なようで……その腹が再びきゅるるるる……と情けない声を上げる、再び真っ赤になって腹を押さえたミナの肩を抱き、廊下を半ば引き摺る様にステラがミナを引っ張ってゆく。
「うちの料理長は特別だから! 御飯は何処にも負けてないよ!」
「うぅっ……た……確かにいい香りです……っていうか凄い色々な香りがしますけど艦内の食堂でそんなに品数出してるんですか??」
廊下に漂う香りは食堂に近づく程に強くなるが、確かにミナが言うように和風の出汁の香りにコンソメのような香り、果ては中東風のスパイスの香りに中華風の花椒の香りまで、様々な香りが混然となり鼻の奥をくすぐってくる。
通常、食料の限られた航行中の戦艦内ではそんな贅沢な食事など有り得ない、積載した長期保存糧食や艦内での水耕栽培で得られる僅かな野菜、あとは培養肉に栄養補助サプリといった内容が常である。
「うちの連中は食い意地張ってるからね、ここの食事が目当てでこのイカロスに乗ってる奴も少なくないのよ、ミナちゃんも一度食べたらこの艦から出たく無くなるかもよ~? さ、着いた! ここが我が艦自慢の食堂だよ! さあ入ってみて♪」
ステラに促されるまま扉の前に立つ、態度と言動こそ遠慮がちではあるが、その実ミナの脳は鼻腔をくすぐり続ける香りにより完全に麻痺し、口の中は溢れんばかりの涎で埋め尽くされている、ミナは口中を満たすそれをゴクリと飲み下し、意を決したように扉の開閉スイッチに手をかけた。
「いただきま……じゃなかった! お邪魔します!」
期待に胸を躍らせ開閉スイッチに手をかける、電子音と共に音も無くスライドするドア、廊下に居たときよりもより濃厚になった香りを胸一杯に吸い込んで開かれたミナの眼に映ったのは……目の前を覆い尽くす半透明の無数の触手だった。
「……ひっ……!?!!」
一瞬で顔から色が抜け落ち、悲鳴を上げようとしたミナだが、為す術もなく触手に囚われ部屋の中に引きずり込まれる、助けを求めようと差し出した手の先に、笑顔で手を振るステラの姿が映った……。
(ああ……そうか……私はここで食べられちゃうのか……上司や先輩が言ってた化け物の話も、行方不明の話も全部本当だったんだ……美味しそうな香りに誘われて皆食べられちゃったんだ……。お父さん、お母さん、ごめんなさい……親不孝者のミナは……先に逝きます……)
口に触手を突き込まれ声を上げる事も出来ず、全身をまさぐる触手の感触を感じながらミナの意識は闇の向こうへと誘われてゆく……覚悟を決め、静かに目を閉じ全身の力を抜いたその時、尻に当たる固い感触と共に潮が引くように全身を覆っていた触手の感触が消えてゆく……。
恐る恐る目を開けたミナの眼前には美味しそうに湯気を上げる料理の満載されたテーブルがあり、驚くと同時に尻に当たる固い感触が椅子の物であると確認する。
ミナは自らの手で全身を触り異常が無いであろう事を確認し、深く大きな安堵の溜息をついた。
「はへ? ……あ……生きてる……??」
「ミナちゃんったら……い~いヤられっぷりだったわぁ……私もう眼福すぎて尊死するとこよ……」
頬を染めてくねくねと形容しがたい動きをするステラをしばし呆然と眺めていたミナだったが、ハッと光が戻ったその瞳一杯に溜めた涙を振りまかんばかりの勢いでステラに向かい摑みかかる。
「す……ステラさん! 今のなんだったんですか!? 絶対知ってたでしょ! 知って先に入らせたでしょ! 私危うく漏らす所でしたよ!?」
「あぁん! ミナちゃんったら激しい……大丈夫! 私そういうのもイケるクチだから!」
「イケるもイケないもないですよ! 一体何なんですか!? 今の……今の……!」
ガクガクと残像が見えるほどにステラを揺さぶっていたミナであったが、先ほどの恐怖が蘇ったのだろうか? 突然ガタガタと震え始めた膝を抑えきれずそのままストンと椅子に腰が落ちる。
自らの肩を抱き震えるミナ、そんな彼女を心配してか、誰かが温かいお茶をミナの目の前に差し出した。
「あ……あ、ありがとうございま……」
お茶を受け取り礼を言おうと振り返ったミナがまたもや石のように硬直する、半透明の体にそこから伸びる無数の触手……巨大な人型のクラゲのような生物が、取り落とした湯呑みをキャッチし首をかしげる。
「ひっ!? ひあああぁぁぁ!? なっ! さっ……さっきの! さっきの!!」
「まあまあ、そう怖がらないで、うちの料理長なんだからさ」
「だっ……だって触手……へぁ? 料理長……?」
幾分か落ち着きを取り戻したミナが恐る恐る料理長の顔(?)を見上げる、半透明の人ならば顔があるはずのその場所は仄かな光を放つばかりだが何故だか微笑んでいるようにも見える。
「ミナちゃんは異星人に会うのは初めて? あっ、大丈夫よ危険は無いから、まあ、料理が冷める前に食べて食べて!」
ステラの言葉にまだ疑いの眼差しを向けながらも、ミナが鼻をくすぐる香りに何かを感じ、弾かれるように料理に向き直る。
「こっ……このスパイシーな香りは……間違いない! 一鶴の骨付き鶏!! そして鰹の濃厚な出汁にコシのあるこのうどん……!! それに……まんばのけんちゃんまで! なぜ!? なぜ私の故郷の名物が??」
「ふふ~ん、驚いたでしょ? ここに入った時に料理長の体内に呑まれたでしょ? あれは遺伝情報とかを読み取ってたの、そこから再現されたのがこの料理ってことよ!」
「呑ま……」
何か納得いかない、納得してはいけない気がするが気にしていては料理が冷めてしまう、ミナは細かいことは気にしない事にし、今は眼前の料理に集中することに決めた。




