その光の先に
『なんで点数が取れないの!?』
それでも全部八十点以上だよ?
『なんでこの程度のこともできないの!?』
……家事は全部やったよ。
『なんでこんなに無能なのよ!』
……ごめんなさい。
『あなたなんて生まれてこなければよかったのよ』
――――
カーテンの隙間から日差しが射す。目元には涙が残っており、先ほどの声が夢であることを思い出す。
僕はあの人から逃げた弱者だ。あの怒りの権化から。涙を拭いてベッドから降りる。実家を離れて早くも二年、あの人も新しい人を見つけていることだろう。今の僕には関係のないことだ。
黒いパーカーと灰色のズボンを履いて僕はキッチンに立ち、朝食の準備を始めた。作るのは僕と彼女の二人分である。僕が食パンをトースターにセットし、コーヒーをマグカップに注いだ所でインターホンと同時に彼女が入ってくる。
「葛城君~ご飯できてる?」
「おはよう、鏡野。コーヒーは準備できてるよ。朝食はトースト」
「お、洋食だね~!」
彼女、鏡野は定位置である玄関近くの椅子に座ると、コーヒーに砂糖とミルクを入れ始めた。僕はというと、目玉焼きを作りながらトーストが焼けるのを待っている。いつもと変わらない日常を見ると、僕は安堵した。
彼女は気づいていないだろうけど、僕は鏡野のことが昔から好きだ。幼少期の頃から僕を支えてくれたたった一人だ。これを他の人が言うならば依存というのかもしれない。……まず、僕にそんな友人はいないのだが。
トーストが焼き上がり、目玉焼きもできたので皿にのせてテーブルに置く。鏡野も待っていましたと言わんばかりに目を輝かせていた。
「やっぱり葛城君は料理上手だよね~」
「このぐらいなら鏡野でもできるよ。今度教える」
「やったー! よろしくね!」
鏡野が太陽のようなまぶしい笑顔で言う。……これを見るために頑張っているなんて口が裂けても言えないだろう。
朝食を食べ終え、二杯目のコーヒーを飲んでいると鏡野が声をかけてきた。
「今日って大学の講義ある?」
「僕は今日ないけど……そっちは?」
「私もないの。お互い暇ならさ、相談に乗ってくれない?」
「相談?」
「私ね、好きな人がいるの」
それからのことはよく覚えてない。気づいた時には鏡野は部屋からいなくなっていた。スマホには鏡野から心配の連絡が入っていた。……鏡野に好きな人がいる。その事実を僕は受け止めきれなかったのだろう。何を話したのかさえ忘れていた。
鏡野は優しいから、僕にも優しくしてくれていた。……それだけだ。好きな人よりいい人になればとも考えた。けど、僕にはその術がない。今更明るくなれとか、人と関わりを持てとか不可能だ。容姿も優れているわけではなく、せいぜい中の下が妥当だろう。
僕の中には最後の大切なものですら残らなかった。ふと、思った。僕という存在が彼女の邪魔をするなら、僕が消えてしまえばいいのではないか? どうせ、親しかった友人など鏡野以外にはいない。なら、だれも僕を覚えずに消えれるのではないか?
その考えはいつしか鏡野の為に消えるという決意に変わり、僕はそれを実行することにした。
まずは部屋の整理である。といってもベッドとちょっとした家具しかないこの部屋に整理するものもなく、どうせいなくなるのであれば必要のないものだと感じ、そのまま部屋を出た。大家さんに暫く帰らないと嘘をついてなくさない為にと言ってカギを渡した。
外はもう夕刻で、西に日が落ちてオレンジ色に空が染まっていた。ところどころには星がちらついており、これから闇に染まるのを待つかの如く瞬いていた。消える前の最後にやりたかったことを今うちにやるためにも足早に住んでいたアパートを去った。
街の中にはいたるところに鏡野との思い出がある。駄菓子屋ではいつも一緒にお菓子を買いに来ていたし、公園では砂場や遊具で遊んでいたことを思い出す。その一つ一つは良き思い出として脳裏に刻み込んでいた。どの思い出の中でも鏡野は笑顔を向けてくれていた。
やっぱり、僕は彼女に依存していたのだろう。唯一の心の支えとして、僕は無意識にずっと頼っていた。いつだって鏡野が僕を引っ張ってくれた。一つまた一つと思い出を思い出す度に涙があふれた。あふれだしたら止まらない。空はすでに闇に染まって、一筋の月灯りだけが周りを照らしていた。
それでも、涙のせいなのか視界が歪んで見えてしまう。涙を拭い、顔を上げると。そこには最初の思い出の場所だった。僕と鏡野が通った幼稚園。時間的にも人がいないので真っ暗だがそれでもあの頃を思い出させるには十分だった。
声を掛けてくれて、一緒に遊んで、一緒に昼寝して。今までのどの思い出よりも色濃く残っている思い出がフラッシュバックしてきた。あの時は幸せだった。父さんも母さんも居て、毎日が楽しくて。でも、それは泡沫に消えたものだ。
僕は最後のやりたかったことを終え、その達成感に包まれる。僕のやりたかったことは、幼馴染との思い出の場所に赴き、その最後をどこかで終えることだ。あとは僕が消えるだけ。
幼稚園の裏には線路があり丁度そこだけ警報器のない踏切がある。僕はそこで最期を迎えることにした。幼稚園を回って裏に行き踏切までくる。そして踏切に一歩踏み出した瞬間。後ろから声を掛けられた。振り向けばそこに鏡野がいる。
「はぁ~はぁ~。なんで連絡返してくれないの!?」
「……必要、ないかなって」
「私がどれだけ心配したのか分かってるの!?」
それよりも、なぜ彼女はここにいるのか? 彼女は帰ったはずなのに。
「なんでここに?」
「探してたからに決まってるでしょ? 話したいことがたくさんあるの!」
「……先帰ってて。あとから行くから」
「駄目よ。葛城君を一人にできない。一緒に帰るわ」
そう言ってこちらに向かって歩いてくる。距離として三十メートルほどだろうか? しかし、ふと視線を右にやる。電車のライトが見えた。ここで彼女を巻き込むわけにはいかない。
「鏡野はさ、誰が好きなの?」
これは彼女の足を止めるために放った言葉だった。予想通りに彼女は足を止め頬をほんのり赤く染めていた。
「えっ……ここで告白もありよね? よし、葛城君。私の好きな人はね、――――」
その返事を僕は最後まで聞けなかった。鏡野が言おうとした瞬間に僕はひかれたからだ。
・・・・・・
・・・・
・・
彼の、葛城君の葬儀にはたくさんの人が来た。大学の先生たちやゼミの人たち、小中高のクラスメート、そして彼の両親と元父親。その人数は葬儀の会場には入りきらないほどで、そしてその日はたくさんの悲しみの声が聞こえてきた。
葬儀場に遺体はなく、遺骨と遺影だけがそこに、静かにたたずんでいた。
私があの日、相談なんかしなければ。いや、そもそももっと素直になって告白をしていればこんな事にはならなかったのかもしれないと思うと、私はなんて罪深いのだろうかと感じる。
彼は一人じゃなかった。いつも、友人なんていないと言っていたがこんなにいるではないか。みんな葛城君がなくなったことを聞いてきてくれた。
ねぇ、葛城君。私は君にちゃんと言えばよかったのかな? 好きだよって、愛してるって。君が居なくなってから何処にいっても色が見えないんだ。唯一見えるのは、君が亡くなってしまったあの場所だけ。
だから、私は決意したよ。君のいない世界なんていらない。君が居ないならこんな世界に価値なんてない。君は嫌がるかもしれないけどさ、私もそっちに行くね。
彼と最後に会った時の白いワンピースに薄黄色のカーディガンを着て。どちらも、彼が昔好きだった色。
花を踏切のそばに添えて線路に立つ。目の前からは電車が走ってくる。ごめんね、葛城君。私も今から、そっちに行くから。
ガチャガチャガチャッ!!!
白かったワンピースは赤く染まり、彼女が最後まで持っていた彼からのプレゼントである鏡は粉々に砕け散った。
――fin bad end――