ふゆの冷たさ
閲覧ありがとうございます。『ゆりんぐ』正史の時間軸のお話です。
気がついてうつむくと、私は割れたガラスのコップの破片を握りしめていた。固く握られた手からは赤い川が流れ、滝となり、床に広がった液体とともに、赤紫色の滝つぼを形成していた。
そしてその滝つぼの中心には、私の妹が倒れt
「うわあぁぁぁっ!」
私は何かに引っ張られるように跳ね起き、叫んでいた。
「ふうっ、ふうっ、ふうっ、ふうっ…………」
呼吸を整えて回りを見回すと、そこには見慣れた四畳の小部屋が広がっていた。
「……夢、か…………?」
……いや、これは夢なんてものじゃない。
実際に起きた、紛れもない過去の光景。
私が、家族を傷つけた時の光景。
「……私は、私はっ…………」
あのとき、妹を落ち着かせていられれば。
あの頃、私が人間不信になっていなければ。
私が、あの男に襲われなければ……。
……私の家族は、ギリギリのところで持ちこたえていたかもしれないのに。
「私のせいか……? ……私のせいだ…………」
ひとつ呟き、慌てて首を横に振った。
今また、私がふさぎこんでどうする。
そうなれば、誰が母と妹を食わせていくんだ。
私が働かなければ、いけない。
私しかいないんだ。私しか。
私は気を落ち着かせるために、目の前のテレビの電源を入れた。テレビにはニュース番組が流れ、私と同い年の男女が華やかな服装で楽しそうに笑っている映像が映し出された。
「…………成人式か」
……確か、この町の成人式も今日だったか。……まあ、だとしても私は行けないし、行けるわけがない。
『さっそく、成人の方にお話を伺ってみましょう! すごくきれいな晴れ着ですね!』
『でしょー! これ、わたしのひいおばあちゃんのひいおばあちゃんのひいおじいちゃんのひいおばあちゃんから譲り受けた物なんですぅー!』
『す、すごいですね!』
……そんな人物、本当にいるのか?
『さて次は、同伴の方にも話を聞いてみましょう! こんにちは! お話を伺ってもよろしいですか?』
『え? あー。いいですよ』
「あ、あ………………」
テレビ画面に、見覚えのある人物が映った。
『隣にいらっしゃるのは、娘さんですか?』
『はい。ただ、もうそろそろここを離れないといけないんです。他県にいる他の娘達の成人式にも行かないといけなくて』
『た、大変なんですね……』
『大変ですけど、俺は嬉しいです。このあとは、○県と○県と○県と○県の成人式に行って……』
『す、すごいですね!』
『ええ。なんせ全国に娘が…………』
急いで、私はテレビの電源を切った。
もう、あの顔を見たくなくて。
今日は、外に出ないで用務員室にいよう。不用意に出歩きたくない。
時刻は午前十一時。気を紛らわせるためになにか食べようと小型冷蔵庫の扉を開けた。
「…………」
その中には、なにも入っていなかった。
◆
コンビニで適当な物を買い、私は早々と帰路に就いていた。
そんなときだった。
「蔵梨?」
「……っ!」
耳に入ってきた名前に驚いて慌てて声のした方へ振り向くと、そこには見覚えのある顔立ちの男がいた。
「やっぱり蔵梨か! 久しぶりだな!」
「……お前は」
その男は、小学生の頃私のことを「大麻の娘」呼ばわりしていた私の同級生、釜桐零士本人だった。
◆
「……ここでいい」
「ずいぶんと細い路地だな」
「……あまり人目につきたくない。ここなら、やってくる人間は限られる」
「ふーん。ま、いいけど。……それより蔵梨、お前雰囲気変わったな」
「……いろいろあったんだ」
「いろいろ、か……。中学の時転校してからずっとそんな感じなのか?」
「……そんなところだ。……それと、もうその呼び方はやめてくれないか。私はもう蔵梨じゃない」
「あー、離婚したって噂、ホントだったんだな。大変だったのかもしんないけど……それにしても結構なイメチェンだな。昔はもっと元気で…………そう、『なんでもござれ』って感じだったよな、な? 『大麻の娘』」
「…………」
「そんな睨むなよ。もう昔のことじゃんか。今は、悪いことをしたなと思ってる」
「……釜桐」
「ん?」
「……からかったり、いじめたりした側の人間は、それを悔やんで反省したり、時には『過去のやんちゃ話』として美談にすることができる。……けどな、された側の人間は、決して癒えない傷跡として、永遠にその記憶が残っていく。絶対に美談にはならない。そしてあろうことか、中には『昔のことを根に持つな』なんて言う奴もいる。見当違いもいいところだ」
「……悪……かったな。この通りだ」
「……謝ってどうにかなることじゃない」
「じゃあどうしたらいいんだよ」
「どうにもなるものか。一度口から出た言葉は消えない。一度聞いた言葉は記憶から消えない」
「……許してくれ。これには深いワケが…………」
「なぜ、された側の人間は許さないといけない。小学生の頃、私はお前にちょっかいをかけられる度に担任に『ちゃんと謝っているから許してあげなさい。それでは立派な大人になれない』と言われた。抗えなかった私は、そう言われて何度お前と手を握った?」
「…………」
「この先なにがあっても、私はあの件を許すことはない。お前にどんな気持ちがあったとしてもだ」
「……わかってたのかよ、俺がお前のこと好きだって」
「手を握った時、露骨に喜んでいたからな。それが目当てで、何度も私にちょっかいをかけたんだろ」
「そこまでバレてたのかよ……。……でも、今もその気持ちは変わらない。……俺は、お前のことが好きだ」
「……先に結論から言う。私は金輪際、誰とも付き合う気はない。私にとっては、お前はただのいじめっ子だ。今も昔も、そしてこれからも、それは変わらない」
「そうか……。今日お前を見かけた時、最後のチャンスだと思ったんだけどな……。…………実は、次の春から海外へ行くんだ。いわゆる『発展途上国の恵まれない子ども達に、救いの手を』的なやつだ。いつ日本に戻ってくるかはわからない。……だから、お前に一言伝えておきたかったんだ。……けど、お前から本心を聞いて、すっきりした。これで、今までお前に抱いていた未練の分の愛を世界の子ども達に向けることができる。『愛は世界を救える』って、俺は本気で思ってる。お前に告白するのは、これが最初で最後。俺が伝えたかったことは終わりだ。急に話しかけて悪かったな。……お前も、がんばれよ」
「……ああ」
「んじゃ」
言いたいことだけ言い残して、あいつは光射す町へと歩を進めていった。私は、薄暗い路地からそれを眺めることしかできなかった。
……ふと、子どもの頃に母から聞いた『あること』を思い出した。
『邑、大は昔家族で海外ボランティアに行っていたらしいぜ。「世界中に俺の愛を届ける」って、張り切ってたんだってよ』
……そのとき。
去っていく釜桐の後ろ姿が、蔵梨大と重なった。
「…………っ!」
落ち着け。海外に出ていった男なんて、これまでにたくさんいる。ましてや愛を語る人間なんて、それこそいくらでも……。
だから、だから……。
私は、浮かび上がってきたフレーズが出てこないように、必死に首を左右に振った。
……けれどそれでも、どうしても出てきてしまって、口から漏れた。
「……第二の、蔵梨大……っ!」
私は嫌な予感を振り払うのに必死で、私達二人の会話を聞いていた二人組の女性がいたことなど、そのときは知る由もなかった。