2 七瀬 詩仁 ⑵
「で、君っていくつだったっけ」
大量に埃を吸い、全面的に灰色に染まった雑巾を絞りながら、俺を背を向けたままで三橋が言った。バケツの淵に水飛沫が当たる音がする。もうそろそろ水を替えてもいい頃だ。その前に俺も一度雑巾を洗うべく、三橋の隣に屈み込んだ。三橋は素知らぬ顔をして、雑巾を広げて床を拭き始めた。
「ほかの誰かじゃなくて自分じゃないとダメ、ね。漫画とかゲームにありがちだし、現実にもそう話す大人は多いから、十三歳の子がそれを言うのは普通かもしれないけどさ。七瀬、諭されちゃってるわけでしょ。こっちが諭すならともかく」
斜面を淀みなく流れる水の如く、三橋は流暢に言葉を締める。「だから、君の年齢を訊いてるんだよ」。中学生当時からの同級生だった俺に、本心からそう問いかけるわけがないから嫌味だ。三橋のあからさまな毒舌に、俺は敢えて冷静に「十六歳」と回答した。すると三橋は、俺の波立たない態度など最初からお見通しだったと言わんばかりに、横目をこっちに向けた。
「で、最終的に君は、僕になにを訊きたいの。ほかの誰かじゃなくて、僕がしなくちゃいけないことを自分でわかってるかどうか?」
「訊きたいというか、三橋はどういうふうに思うのかなって」
「しなくちゃいけないことなんて明らかじゃん。この美術倉庫一帯のお掃除」
実際当たり前だから、三橋は当たり前のように言った。三橋が自分で論ずる通り、放課後に清掃用具を持参してわざわざ美術倉庫の汚れを落としているのは、至極当然のことだった。が、それは三橋にとっての話であって、俺にまるごと引用される話なのかどうかというと、少しばかり事情が変わってくる。雑巾が吸った多量の水を絞り出し、どういう神経でそうなっているのか知らないが、三橋は超然と構えて清掃を続けている。舌打ちしたくなる気持ちを、俺はそのまま雑巾を擦る両手に込めた。
そもそも、美術室の清掃担当でも美術部でも美術委員でもない三橋が、どうして「当たり前」と処理して清掃しているのか。そして、どうしてそこに俺も加わってしまっているのか。三橋にとってのこれはこなすべき行為であり義務であるというのはわかるけど、明らかに三橋へのルートを逸れた流れ弾を食らっただけ、と言えばさすがにあてつけがましいが、少なくとも俺は二次被害を受けて現在に至っている。今日の午前の三時間目、中等部と高等部の両方で美術科担当を務める工藤先生の教鞭の下、勃発した事件を俺はまざまざと振り返る。あれは始業のチャイムが鳴ってすぐのこと、工藤先生が、先日の写生大会の全体的な評価を説明していたときだった。
「気に入らなさそうな顔してるけどさ、一生懸命見てたじゃん。僕がゲームやってるとこ」
回想の最中に、容赦なく三橋の醒めた声が割り込んできた。それがまた腹立たしく、俺は三橋を睨んだ。三橋は表情を変えずに床磨きの持ち場を離れ、様々な美術品が載った台の拭き取りに移った。
早い話が、座席の位置をいいことにこっそり携帯ゲーム機を持ち込んでいた三橋の所業が工藤先生にばれ、三橋がやっていたそのゲームを熱心に見守っていた俺も同罪と見做された。見ていただけならまだしも、完全にゲーム画面に意識を向けていたのだから、主犯と同等の罪と判断されたことに不満はない。二人揃っての罰として言い渡されたこの清掃作業も、授業というルールを無視した因果なので甘受できる。気に入らないのは、そもそものきっかけを作った三橋が、いつもとまったく変わらない平然とした態度を保っていることだった。
そりゃ確かに、隣の生徒のよくない素行に気づいていながら、注意するどころかゲームの進行を見守っていた俺は悪かったけれども。あのゲームがよくあるアドベンチャーものとか、慣れ親しんだキャラクターの冒険劇だったりしたら、俺だって、忍び寄る工藤先生の視線にあっさりと絡め取られたりしなかった。
「あれさ、結局のとこ、犯人は誰だったのかな」
ゲーム画面の記憶を掘り起こしているうちに気になってきて、三橋に訊ねた。三橋が今日プレイしていたのは、出口を閉ざされて巨大な密室となった学校内で、次々と起こる殺人事件の犯人を暴くという推理アクション系のゲームだった。以前にも話を聞いたことがあり、近頃はまっているということだった。俺がゲーム画面を見たのは今日が初めてだったけれど、確かに後から後から続きが気になってくる内容だった。それだけに、俺もついつい授業そっちのけで集中してしまったのだ。
三橋のことだから、実は既に周回プレイ中だったりして。僅かな期待を胸に、俺は三橋に事件の犯人を問うてみる。ところがそんな胸中虚しく、三橋は首を横に振っただけだった。
「まだわかんない。でも、もうちょっとでわかりそうなとこだったのにな。さっさと返してもらいたいから、ちゃっちゃと掃除してよ」
自分自身でゲーム没収の原因を作ったくせに、三橋は巻き添えを食らっているかのようなことを淡々と口にする。一体どういう神経をしていればそんな命令を発せるものかと、苛立ちというよりはむしろ不思議に思いながらも、俺も犯人が気になるし早く帰りたい気持ちはあった。同意して雑巾をバケツに浸して絞り、水替えのためにバケツを持って入口の扉を開ける。眼前に現れたのは廊下ではなく、工藤先生だった。いきなりのことだったので、俺はちょっとびっくりして一歩さがった。
「綺麗になった?」
透き通った水晶のような声で、工藤先生は問いかけてきた。どう回答すべきか迷い、俺はバケツを持ったまま三橋に目をやった。三橋は一度手を止めて立ち上がり、実に具体的な表現をする。
「埃の除去と、棚の上とか床の目立った汚れとか、そういう目に見える部分はだいたい片付きました。あとは板目や台の隙間っていう、細かいところかな」
工藤先生は身を乗り出し、ざっと倉庫全体を見渡した。工藤先生の背は高く、たぶん百八十センチ近くはある。せいぜい百六十ちょっとの俺や三橋との身長差は、言うまでもなく歴然としている。確認の眼差しで視線を動かされると、おそらく本人にそんな気は微塵もないんだろうけれど、ちょっとした威圧感があった。
緩く巻いた髪は天然ものだと自分で言うけれど、その割にはかなり整っていて綺麗だし、細身の身体はただ細いだけでなく、きちんと適度な筋肉をもって引き締められていることが見て取れる。くっきりした二重瞼にすっきりと通った鼻、それだけで反則級に恵まれた容姿と言えるのに、唇の右下に落とされた小さな黒子が妙に色っぽいアクセントを加えている。工藤先生の名前が、この辻ノ瀬学園で担当のない初等部と大学部の敷地の異性に轟いていることは、無理のないのことだと思う。自分自身が美術品のような姿形をしていて、専門教科が美術なのだから余計に話題には事欠かなかった。
なんか、俺の周囲って、芸能人並みに容貌整った奴が多いような。ふとそんな疑念を抱き、横目で三橋を見た。小柄な三橋もまた、パーツ単位で見ても無駄と不足のない外見で異性の興味を惹き続けている。ただしこいつの場合、数学と美術が壊滅的にできない上に、授業中にゲームをして遊ぶという不真面目な一面を合わせ持つので、工藤先生のような上位の域に及んではいない。
工藤先生の目の動きにつられ、俺の目線も壁の時計に移った。今しがた拭いたばかりのそれは、薄暗い美術倉庫に不釣合いに明瞭な時刻を指し示していた。
「もうすぐ五時だね。二人ともお疲れさま。ゲーム返すから、適当に切り上げて一階に取りにおいで」
「職員室じゃないの」
場所の指定が腑に落ちず、俺は問い返した。工藤先生は首肯した。
「わざわざほかの先生に見られなくてもいいよ。罪に罰は必要だけど、もうあとは俺が許せば済む話だから」
生徒科や担任が出揃う職員室まで、確実に取りに行かされると思っていた気負いが一気に抜けた。本来なら取りに行くのは三橋一人だけで然るべきとも言えるのだが、自ら同罪と認めて一緒に罰を受けた身としては、やっぱりそういうわけにはいかなかった。職員室を退室するまでの間にもお説教を受けるのかと、自分が原因ながらげんなりしていた俺にとって、工藤先生の提案は寛容の一言に尽きた。工藤先生は決して口数が多いわけではないし、表情豊かというわけでもない。けれど生徒たちから絶大な人気を誇るのは、容姿だけでなく、こういうさりげない気遣いができるからだ。例に倣って、俺もそんな工藤先生のことが好きだった。
「帰り道、一緒になる?」
「最近そうじゃない日が多いから、僕としてはせいせいしてます」
工藤先生の質問に、三橋は失礼な答えを投げた。最近のことはともかく、今まで結構な頻度で一緒に帰ってきたのに、そんなふうに思っていたのか。ショックというより、三橋の応答が不可思議で仕方なかった。
「今日は一緒に帰りなよ。人通りの多いところを通ってね」
「先生はひとりですか」
「もちろん」
「先生も危ないよ。今ニュースでやってる事件、今までの標的がたまたま子どもだったってだけで、大人でも危ないかも」
急に丁寧語を崩し、三橋は半分現実的で、半分妄想のようなことを言った。半分は確かにないとも言い切れないことだったけれど、実際に現実となることはまずないだろう。即座にそう判断し、俺は三橋の前に立った。
「別に危なくないだろ。どこのバカが、身長百八十近くもある成人男性を狙って拉致ったりするっていうんだよ。今まで子どもしか狙ってないなら尚更」
「そんなのわかんないじゃん」
「先生は車だから大丈夫だよ。ありがとう」
指摘されると論破できない俺に、工藤先生は優しく助け舟を出す。生徒がしてくれた心配への感謝も忘れなかった。工藤先生に恋人は長らくいないという話を聞いたことがあるけれど、俺はそれが不思議でならない。だからこそ余計に異性の熱い視線を浴びるのだろうが、そのうちの誰にも心を許していないことも不思議だった。
「先に行ってるから。美術室じゃなくて美術準備室のほうにいるから、下りたら呼んで。じゃあ」
工藤先生はそう言い残し、俺の視界の中心から立ち去った。バケツを持ったままだったことを思い出した俺は、とりあえず水を交換するために、美術倉庫を後にした。