僕は三日後に笑う
りりこさんは変な人、みちやすはもっと変な人。僕はだから、どうしようもない奴なのかもしれない。
夕方までピンピンしていたあきじいが、嘘のように動かなくなった夜、りりこさんはなぜか全然泣かなかった。
鈴子ばあとまさみちゃんはわんわん泣いていたけれど、りりこさんだけは父親が亡くなったというのにめちゃめちゃ冷静で、お通夜での取り乱さないそのきちんとした対応にお悔やみに来た人たちは違和感を覚えるほどだった。
けど、三日目の初七日の法要で、並べられた大きな客用座布団の一番前に座った瞬間、彼女は、鼻水をすすりあげて泣き出した。いつも思う。りりこさんは冷静なんかじゃない、人より感情をつかさどるシナプスの流れが遅いだけ。三日後とかに急に泣き出したり、怒り出したりするんだ。
サッカーボールの代わりに英和辞典他一式、スポーツバックに詰め込んで、僕は学校帰りに電車に乗り込む。今の僕にとって、差し迫った問題は、高校受験。今更努力したところで、時すでに遅し。りりこさんに決められて、塾通いを始めたけれど、内申書は三年間の積み重ねだもん。すでに三分の二の結果は決定済み。努力すればそれでよかった二年前にはもう戻れない。
後悔は先なの?後なの?いつも迷う。先回りして待ってる気がしてならない。最初に、「後悔先にたたずむ」って覚えちゃったからね。まあ、僕の学力はその程度。
電車に揺られながら、おもむろに、さっきのことを取り出してみる。
「しきちゃん、なんか言ってるらしいよ。」
理科室の重たい机を二人で後ろに運びながら、ありさがふと思い出したように言う。そのさりげなさは、ずっと考えてたことだってわかるくらい、不自然だった。だって、昼休みが終わってから、ありさ、なんか言いたそうだったもん。
「なんかって?」
僕の方も、きっと、さりげなさを装いすぎて、ぎこちなかったと思う。
「うん、なんかね、いくちゃんがいつも見てるって。」
そして言いにくそうに
「気持ち悪い。だって。」
変に間が空かないように、ありさがたたみかける。
「あいつ、ちょっとかわいいかと思って、何言ってんだよ、なあ。」
細い目をさらに細めてありさがあわてて付け足す。そうなんだ、しきちゃんがかわいいのは、誰もが認める。そして、僕は僕で、目が笑ってないってよく言われるタイプ。同じ一重でも、ありさは目尻が下がっていて愛嬌があるけれど、僕はつり目で救いようがない。
机を元に戻して、掃除時間終了のチャイムがなって、ありさが発したその言葉は、じわじわ僕を締め付けた。僕もりりこさん似なのか、りりこさんほどではないけれど、反応が遅れてやってくる。
「あのさ、初恋なんてそんなもんだから。成就しないのが初恋。大人になったらきれいな思い出しか残らないから安心しな。」
中一のバレンタイン。初恋の人に振られたまさみちゃんにりりこさんが言ったことば。りりこさんはいつも大人の意見でバッサリ切り捨てる。でも、僕のこれは初恋かどうかは甚だ疑問。僕は、しきちゃんを見るのが好きだった。ただそれだけだったのに。
「ちょっとかわいいかと思って…」
かわいいんだから、しょうがない。ふんって鼻先で投げやりに笑ってこのお話は終了。
簡単なこと。もうしきちゃんを見なけりゃいい。
志望校への望みが絶たれても、好きな子に嫌われてると知っても、それでも僕の日常は何の変哲もなく流れる。
―死にたいな
言ってみただけ
りりこさんはやっぱり三日後に泣くのかな。みちやすは…。
―めんどくさいのは苦手だ。
死にたいと思ってみたりもしながらも、「きれいな思い出」に希望を残し。ぐちゃぐちゃぼろくたになってた夜だって、結局爆睡しちゃってて、いつものように、何気ない朝が来る。神様はその点は公平なんだ。
「明日、はこばあちゃんのとこ行くけど」
「行くいくーー」
こんな時、はこばあちゃんは僕のとっておきの癒し。サッカーをやめてからは、この、りりこさんの毎月一度の恒例行事に、ぼくもちょくちょく参加する。もう連続三回目。
七月の第一日曜日、りりこさんの軽は助手席に僕を乗せて爽快に海岸線を走っている。双海は今日もにぎやかだ。
海岸線を抜けて、入り組んだ細い道を川沿いにうねうねと行くと、まさじいちゃんの眠っているお墓が見えてくる。先に墓参りを済ませて、墓から歩いても十分とかからない小さな古い集落が、みちやすの実家、つまり、はこばあちゃんの家。まさじいちゃんは、あきじいよりずいぶん前に亡くなっていて、僕の記憶の中では、はこばあちゃんは最初から、一人で畑をしながら近所の人たちと寄り添うように暮らしている。
「いっただきまーす」
はこばあちゃんのあまーい肉ごぼう煮と南予特有の自家製栗のたっぷり入ったちらし寿司は、それはそれはおいしくて、りりこさんはそれを食べたいがためにはこばあちゃんのとこに、月一回行くのではないかと疑ってしまう。
はこばあちゃんが風邪をこじらせて、弱気になった昨年の春からは、毎月の行事になっている。メニューはいつも決まって、ちらし寿司と肉ごぼう。夏はそれにそうめんがつく。なぜって、じいちゃんの大好物だったから。そして、それがはこばあちゃんの大得意料理だから。
「おいしいかい」の次に来るのは決まって
「みちやすは元気にしとるかい」
はこばあちゃんの大事な大事な一人息子、みちやす君とは、僕はもう、半年以上会っていません。でも、はこばあちゃんは、まだその事を知らない。
「元気ですよぉ。なかなかこれなくてごめんなさいねぇ。」
りりこさんは作り笑顔で答える時、決まって少し語尾が伸びる。でも、はこばあちゃんは気づかない。みちやすは、リコン前だって、ほとんどここには来なかったから。
「元気で仕事してるならケッコウなコトよ。」はこばあちゃんは、いつもそれを真顔で言う。
はこばあちゃんは「ケッコウなコト」のレベルがいたって低い。求めるレベルが低いから、感謝する頻度が高い。何かにつけて感謝しまくっている。ありがとうございます。神様仏様ご先祖様、本当にありがとうございます。なんまいだぶつ、なんまいだぶつ。手を合わせて声を出して、天井を見つめた後に、目を閉じてお念仏を繰り返す。
りりこさんが料理が下手か上手いかは僕にはわからない。僕にとって、母親であるりりこさんの味はおふくろの味なんだから、おいしいに決まってる。みちやすが料理の味をけなした時は、りりこさんはいつもこう言う。
「はこばあちゃんだって、最初はうまくできたりできなかったりしたってまさじいちゃんが言ってた。」
みちやすは、口ではりりこさんにかなわない。
けど、りりこさんはみちやすが喜ぶ味を覚えたくて、熱心にはこばあちゃんのとこに通うのか。今さらだけど、そんなことをふと思ったりもする。高齢の独り暮らしだとなにかと心配だからって言うけれど、実際は、ご飯食べて帰るだけだもん、未練たらたらなんだよ、りりこさん。
はこばあちゃんは基本、料理は温めない。十年前、七十歳の誕生日にりりこさんが電子レンジをプレゼントしたらしいけれど、使ったのを見たことがない。時々作ってくれる鯛のお吸い物みたいな汁物は鍋ごとガスレンジで温めるけれど、煮物は温めない。でも、この冷めた煮物が抜群にうまい。
学校のバザーとかで使ってるような大きな金色の両手鍋一杯に肉ごぼう煮を作って、
ごぼうのささがきが大変だったと毎回にこにこしながら言う。だったらこんなにいっぱい作らなくていいのにと思うけど、それは言えない。
りりこさんはぜーんぶ持って帰って、小分けにし、冷凍して、食べたいときにレンジで温めて食べている。ほんとはもっといろんなものを作ってほしいけれど、そんな贅沢は言えない。いつも同じものだから、同じようにおいしいのかもしれないし。ひょいとみちやすが一緒に来るかもと思って、みちやすの大好物ばかりを作っているのかもしれない。じいちゃんの大好物がみちやすの大好物でもあるとこが、曲者なんだけど。
一通り食べ終わると、はこばあちゃんはいつもおしゃべりを始める。はこばあちゃんの話は、毎回耳に心地よい。
年寄り独特の繰り言で、オチのない落語のようなものなんだけど、淡々とした語り口と、人に媚びない内容が、僕のツボです。
僕の一番のお気に入りは幼馴染のよしおちゃん。
「よしおちゃんはのう、檀家もやめなはって、仏さんもちーっとも拝みもなさらんで。墓の花入れには植木鉢を帽子みたいにかぶせとんなはる。わたしはのう、
『あんた、この墓にはあんたをかわいがって、育ててくれたおかあちゃんがおんなはるのに、いつか罰が当たるで。』
言うたんよ。そしたらの、
『はこさん、死んだもんに花や食いもんなんかやってなんになる。死んだもんはもう帰っては来んし、どこにもおりゃーせんのじゃけんの。おらはの、死んだもんなんか大事にしたりはせん。生きとるもんぎりかわいがっとりゃーえんよ。』
こう、言うんで。たまげたが。」
「この世はの、ご先祖様のお蔭で幸せに生きることができるんじゃけんの。ご先祖様の供養もせんと、お線香ひとつやらずに、拝みもせんなんかはお話にならんわ。嫁さんももらわんとの。その日に稼いだ金は、その日にぜーんぶつこうてしまう言うんぜ。ほんに困ったもんよの。」
「困ったもんよ」というのも、はこばあちゃんの口癖だ。
よしおちゃんは、若いうちは、大阪でそれなりに働いていたらしいのだけど、定年で実家に帰って来て、母親と一緒に畑をして暮らしていた。その母親が数年前に亡くなってからは、蓄えていたお金も使い果たし、小遣い程度の日雇いで生計を賄いながら、世捨て人みたいに、勝手気ままに暮らしているらしい。よしおちゃんの言う「生きとるもん」というのは、唯一の家族であるイノシシのことだ。
ある日、畑に迷い込んだうり坊を、拾ってきて育てたんだ。初めは小さくてかわいかったうり坊も、一年経ったら立派な大人のイノシシに成長し、今や牛並みに太っていると言う。そのイノシシに名前を付けて、せっせと自分と同じものを、自分の倍以上食べさせて可愛がっているという。
「ほんに、よしおちゃんにはやられてしまう。『はこさん、こっち来てさわっておみいや』言うけど、イノシシなんか臭いし、汚いし、触りとうもないわ。よしおちゃんの気がしれん。」
はこばあちゃんにとってはイノシシは畑の作物を食い荒らす天敵のようなもの。しかも、ひょっこり出会いでもして襲われたら、命にもかかわる。そんなイノシシが昨今増えて、困っていると言うのに。
ひとつの話が終わるとしばらく間が空いて、唐突に次の話題に入る。それは、気まずくなる直前の、絶妙のタイミング。ぼくとりりこさんは、ただ頷きながら聞くだけ。
「あきおさんはのう、ほんまようしてくれるけんありがたいことよ、まこと。このまえはの、嫁はんが巻き寿司作ったいうて持ってきてくれての。じゃがあの嫁はんは体も大きいが、手も大きいんじゃけん、巻き寿司も大きいてのう、これくらいの周りの太巻きを二本持ってきてくれて、わたしはもう、食べきれんで、ふうふういうて食べたんじゃが。」
これくらいの、というときは、両手の親指と人差し指でわっかを作りながら。それでも食べたのだから、はこばあちゃんもあっぱれだ。
「よりちゃんとこはの、あんだけ畑にトマトやキューリがなっとんのに、はこさんおたべやと、ひとつももってきなさらん。うちはトマトやキューリは作ってないの知っとるのにのう。ほんに薄情な夫婦よ。やけんわたしももう何ももっていっちゃらんのよ。」
田舎暮らしでは物々交換で賄う部分もあるから、もちつもたれつ、もらったりあげたりが当たり前なんだ。よりちゃんは近所でもけちで有名らしい。だけどいざというときは、手伝いに来てくれたりもするんだ。
隣り、と言っても100メートルは離れてるたきこさんとこは、「表口までのあいだは草ぼうぼうで、お茶出してくれるんはええが、きゅうすも湯のみもどろどろのぬりこべひょうたんで飲む気にならんかった」話。たきこさんは、だらしないけれど、気のいい親切な人でもある。ぬりこべひょうたんは、方言なのか、はこばあちゃんの造語なのかは不明。
その他、あきちゃんの息子の嫁さんが、「口ばっかりであてこすにもならん」話や、「昔悪うてよめはんを半殺しなめにあわせちゃー、よめはんの実家に謝りに行きよんなさった」正春さんの武勇伝。
次から次へと出てくる登場人物に、時々質問を投げかけたくなるけれど、はこばあちゃんの話は流暢だから、こしを折るのははばかられる。それがどこの誰かはわからなくても問題じゃないし、感想もいらない。それはもう、語り部状態。
僕のお気に入りのよしおちゃんは、はこばあちゃんに言わせれば、どうしようもない、ろくでもないやつなんだけど、なんか世の中達観していて、そういう生き方もありだなと思う。
死んだ人は、千の風になって吹き渡っているとしたら、お墓にお供えなんていらないし、拝んだって意味ないって、僕だって思うもん。
つらつらと、流暢に話すはこばあちゃんだけど、いつも、ひとしきり話し終ったら、あんた、そろそろ帰る時間やないんかい、って。時計を見るとそれはきっちり四時。本当に、はこばあちゃんの行動には無駄がない。
はこばあちゃんは、いつも真剣に話す。他人を自分の物差しでバッサリ切る。それはまっすぐで揺るがない。
人はこの世に生かされている。ご先祖様を拝んで、仏様を拝んで、神様を拝んで、三パターン拝み倒して、有り難がって生きるべし。いいことがあれば感謝し、悪いことがあればより行いを正しくして、良い方に導いてもらおうと拝む。
信じれば救われる。信じるものがあるって、すばらしい。いや、決してばかにしてるわけじゃない。信じられない自分が情けないんだよ。信じれるばあちゃんは無敵なんだ。
テレビもつけない、静かな食卓。扇風機の音だけが、ビーンと唸る。今日は新ネタはあるのかなと、まったり食べていたら、先に食べ終わったはこばあちゃんが、おご馳走様、と手を合わせて、いつものようにたんたんと、始めた話は僕らの意表を突いた
「この一週間前かの、みちやすがひょかーんと来ての、」
りりこさんの顔が一瞬ゆらいだ。
「りりこさん、今までありがとうね。わたしはほんと、あんたにはようしてもろうて感謝しとるんよ。」
みちやすはなんと、うちを出て行った数日後には電話ではこばあちゃんに、リコンの報告をしたらしい。
それから半年。はこばあちゃんは、りりこさんのウソを受け入れて、他愛もない近所の人の話ばかりつらつらとして、にこにこしていたんだ。
みちやすは、お金も行く当ても無いし、きっと元のさやに戻って来ると、はこばあちゃんもそう思って、なかったことにしておいたのかもしれない。新しい奥さんを連れてくるまでは。
「あんたはまだ若いんやけん、あんたの好きにしいや、あんな馬鹿息子でも、みちやすはわたしが産んだ子やけんの、縁切るわけに行かん。あんたがわたしのこと気にかけてくれるんはうれしいけど、もう気にせんと好きにしてええんよ。」
「ほやがのう、まさみといくみの養育費はちゃんと出さんといかんいうてばっちりと言いきかせといたけんの。みちやすがもし出せんでも、そこはわたしがちゃんとするけん、金のことは心配せんでええけんの」
最後は気の毒そうな、面目なさそうな、それでも愛おしそうな眼をして、僕を見てうなずいた。
「みちやすは元気かえ、」
何回も聞いてきたはこばあちゃん。はこばあちゃんが、そんな高度な嘘をつけるなんて思いもしなかった。
はこばあちゃんは、いつも自分の淡々とした日常を思うまま話して、あとはにこにこして、言われることをほうかいって疑いもせず聞いてるだけだと思ってたのに。
大人はなかなか奥深い。
はこばあちゃんは、りりこさんの二倍は大人として生きてきたからね、やっぱりあなどれない。
りりこさんははははと力なく笑って、そうなんだ、はこばあちゃんにはばれてたんだ、と頭をかきながら、はこばあちゃんの話を最後までうんうんうなずきながら、にこにこして聞いていた。
家に帰ってからも昔のアニソンなんか歌ったりもしていた。すきよすきよすきよ、うっふん、ってやつ。
そしてりりこさんはやっぱりきっちり三日後に泣いた。
プロサッカー選手になりたかったみちやすは、高校時代は地元では結構有名だったらしく、何度か愛媛新聞に載った。
その切り抜きは、今もはこばあちゃんの銀色のアルミボックスの中にある。それははこばあちゃんの大事な「みちやす思い出箱」
でもたいがいの高校選手がそうであるように、結局ユメはユメに終わり、みちやすは普通のサラリーマンになった。りりこさんとは、サラリーマン時代に出会って結婚したらしい。
すぐにまさみちゃんができたけれど、地元中小企業の営業サラリーマンは長続きせず、僕が生まれた頃には、もう会社を辞めて、大型トラックの運転手をしていた。派手なトラックの脇で赤ちゃんの僕が、みちやすに抱きかかえられている写真がある。でも、運送業も長続きせず、怪しげな宝石のセールスをしてみたり、研修期間も給料もらえる保険の外交員をかじったり、友達から紹介された屋台のお好み焼き屋をしてみたり、転々と職を変えていった。
みちやすの優先順位はボランティアでの少年サッカーチームの指導にあって、仕事は片手間だった。まともに仕事をしないみちやすと、パートを掛け持ちで働いて疲れていたりりこさんは、よく衝突していた。けんかを吹っ掛けるのはたいがいりりこさんの方で、みちやすは、ひょうひょうとそれをかわしてた。りりこさんはいつも正論で、みちやすは言い返せるはずもなく、ただ、時間が来たら、サッカーに行くだけ。だけど、けんかの翌日は、いつも仲良さそうにしてたから、僕はてっきり、犬も食わない的なやつだとたかをくくってたんだ。
僕より四つ年上のまさみちゃんは活発で、身体能力もそこそこあった。みちやすは期待してたんだけど、中学に入って、まさみちゃんはバレーボールを選んだ。その時小三だったぼくは、まさみちゃんと入れ違いに少年サッカーチームに入った。
みちやすは、ぼくをそれまでのまさみちゃんと同じように扱ってくれて、チームの練習のない日にも、りりこさんにぶつぶつ言われながらも、公園で指導してくれたりしていた。けど、僕はすばしっこいまさみちゃんと違って、反応鈍いし、チビだし、なかなか上達しなくて。みちやすに期待されていないのは自分でもよくわかっていた。いつ辞めようか、タイミングを見計らっていたところもある。まさみちゃんみたいに、中学からスパッと学校の部活に入ればよかったんだけど。結局中二までだらだらと続けて、中途半端な辞め方になっちゃって。
みちやすは、僕がサッカーを辞めてから、なんかおかしくなったんだ。
指導に出かけたまま、夜帰って来ない日があったり、仕事しているのかどうかも怪しくなって。
三日家を空けた時、りりこさんの堪忍袋の緒が切れた。りりこさんは、離婚届にサインして、みちやすに投げつけた。その日から、みちやすは音信不通。最初はとまどったけれど、半年も経てば、もうそれが、あたり前のようにも感じ始めていたところだったんだけど。
金の心配はしなくていい…
そんなのみちやすがいてもいなくても、変わらないのに…。現に、まさみちゃんなんて、鈴子ばあにお金借りて大阪の短大行ってるわけで。
でも、はこばあちゃんは、みちやすがいるかいないかが問題で、そこはきっちりしないと気が済まないんだ。
やっぱりりりこさんは、はこばあちゃんのとこに、毎月、みちやすの情報をチェックしに行っていたのかな。はこばあちゃんは、どんな気持ちでちらし寿司を作っていたのだろう。僕には深くてわかりません。もう、大洲には行かないのかな。はこばあちゃんの話を聞けなくなるのは残念だ。ちらし寿司も肉ごぼう煮ももう食べられないのかな。そう思うと、なんか急にじわっときた。はこばあちゃんに会えなくなるのは悲しい。りりこさんの泣き声を聞きながら、僕もちょっと涙が出てた。
僕らの時代はなんかもういろんなメディアを通してシミュレーションとかできちゃって、結果が予測できちゃったりする。スポーツ選手や芸能人なんかに手っ取り早くあこがれても、やっぱなにかは持ってなきゃだめで、結局は才能や運だってみんなもう気づいてる。だから無駄に熱くなれないっていうか。身近にいい例もあったし、僕が澤選手になれないのは、小学生の時にもうすでにわかっちゃってるし、十五にもなれば、結局凡人は凡人なりに努力するしかないって思うしかない。みじめな人生は送りたくないから、やっぱ学歴はある程度大事なわけで。だから、ぼくはせっせと塾に行く。でも、実際塾に行けばどうにかなるような問題でもなくて。希望する公立高校は近場で一番最低ラインでも僕には高望み過ぎて、結局、名前を書けばだれでも行けると噂の私立校に収まりそうな予感。だいたい、田舎は選択肢が少なすぎて、おまけに公立王国だから始末が悪い。そりゃ悪いのは三年になるまでぼーっとしてた僕だけど…。だからりりこさんの言いなりに、なんとなーく塾には行っているけど、これこそ、お金をどぶに捨てるようなもんだと思わないわけでもない。
だいたい、お金のことは、子供が考えなくていいって、りりこさんは言うけれど、いつもお金がないない言ってるのはりりこさんなのに。
たいして成果もあがらない、夏期講習の帰り、僕は近所の大型ショッピングセンターに寄り道していた。うだうだ考えたってはじまらないし、とりあえず、ここの本屋で、塾の先生お勧めの、受験の傾向と対策的な本を買う。誰かに従っていればいいのなら、楽なもんだ。この本をほんとに開くのかどうかは疑問だけど。
少しだけやる気になったつもりになって、エレベーターで一階に下りて、出口に向かってイベント広場の前を横切ろうとしたら、オレンジのユニフォームに身を包んだJリーグの選手たちがステージにずらりと並んでるのが目に入った。サッカーにはもう未練も何にもないけれど、華やかな場所に立つ人は、僕にとってはとても眩しい。あちら側に立てる人はうらやましい。有名スポーツメーカーとのタイアップのイベントのようで、一人一人、おすすめ商品を紹介している。
しばらく眺めていたけれど、お腹が空いてきたので、家に帰ろうとして、ステージに背を向けた僕は、そこで、足がすくんでしまった。
ビスのついたダンガリーのシャツに、ちょっとビンテージっぽいジーンズ。相変わらずちゃらい、ステージを見上げる横顔。
僕は思わずちょうど目の前にあった柱の陰に隠れた。少しやせたように感じるみちやすは、こちらに気付く様子もなく、ステージを見ていた。彼の横には寄り添うように、女の人がいて、時々親しそうに話してる。りりこさんより明らかに若い、ふわっとしたワンピースで顔はほっそりしてるのに、体はぽちゃっとしていて、なんかちょっと違和感を覚える。その違和感は…お腹のあたりに集中した。
そのまま何も見なかったことにして、僕はまっすぐ家に帰り、買って帰った本を開く。一応開いた。けど、活字は頭の中で踊りまわって意味はまったく読み取れない。勉強なんて手につくはずもなく。
なのにりりこさんは、台所で陽気に歌なんて歌ってる。ちゃらーへっちゃらー、何が起きてもー気分はー、ヘのへのかっぱーだって。ねじ一本はずれちゃったみたいにおんなじ部分を延々と。あまりに繰り返すから、僕の脳内まで「へっちゃら」が侵入してきて、踊る活字とみちやすが「へっちゃら」に押しつぶされる。
翌日は登校日。塾の代わりに今日は学校に行く。だるい先生の話を聞いて、あとは掃除して帰るだけ。おかしいね。学校が束の間の休息って。
理科室の机は六人掛けの大きな机で、抱えるのが重いんだ。二人で向かい合ってせーので持って、やっと持ち上げられる感じ。普段は、ありさと抱えるんだけど、きょうは親戚の家に行っていて休んでいるから、僕は女一人。
まさやとしょーじはいっつもサボってるから、なんとなく目線で合図して、はるきと一緒に机を抱える。
はるきはひょいと抱えるんだけど、僕はやっとこさで、しかも背が低いから、重力が全部こっちに来て不公平。もともと大きい方だったけど、最近ますますでかくなっちゃって
「おまえ、意外と力ないんだな。」って笑う。
以前ならむっとした。そういうの、言われたくなかった。
でも、今日のは、なんか違った。
はるきは眉をちょっと下げて笑うから、いつも困ったような笑い顔になる。その見慣れてたはずの笑顔が、なんか違って見えたんだ。僕の高さに合わせて、前かがみでゆっくりと歩いてくれるはるきの額から汗がきらっと光って落ちた。
実はちょっとだけひきずっていた、しきちゃんが吹っ飛んだ。心がふっと軽くなる。みちやすなんてどうでもいいや。僕は僕で、青春をエンジョイするんだ。
―はるきって、なんかいいやつだよね
誰かに言いたくて、ありさにメールしたら、即行で返事が来た
―はるきね。二組のあっこさんとつきあってるって、知ってた?
僕の人生なんて、こんなもん。
父親は、家族を捨てて、別の女のところに行きました。
入りたい高校には、入れてもらえそうもありません。
誰かを好きになったって、迷惑がられるだけだってわかってる。
別にどうってことはない。もがいたって仕方ない。
朝起きたらりりこさんが荒れていた。荒れたいのは僕の方なんだけど、身近にこんな人がいたら、冷静にならざるを得ない。原因は、鈴子ばあ。なんと、鈴子ばあに彼氏ができたらしい。電話ですごく楽しそうに彼氏の話をする鈴子ばあに、りりこさんは憤慨しているようです。僕にとっては、あの年で彼氏彼女ってなにをもってそうなるのか、謎だ。だって鈴子ばあは今年古希を迎えた立派なご老人。だけど、僕なんかより、ずっとエンジョイしてるじゃないか。年をとっても、生きていれば、まだまだ可能なことはたくさんあって、先に死んじゃうってつまんないんだなあ、ってぼんやり思う。
「別にいいんじゃないの?あきじい死んで、もう三年だよ。」
昨日から夏休みで帰って来てるまさみちゃんはいたってクール。まさみちゃんはみちやすのことを聞いた時も、すごくクールだった。
「なんでもっと早く離婚しないのか、謎だった。よかったじゃん。」って言ったんだ。
その日の夜、黒ずんだ、というか、ちょっと茶色がかったかすかな汚れを擦ってみたら、その部分がちょっと赤くなった。黒みがかったカスのような下着の汚れ。最初はうんこもらしたかと焦ったけど。ああ、やっときたか。そう思った瞬間、ちょっと嬉しいような、同時になんかにつまずいたような、そんな気がした。
まさみちゃんはこんなのなかったらいいのにって言うけれど、それはある人だから言えること。少しだけど隆起しかかった、男の子とはやっぱりちょっと違う、この胸も。みんなにあるものは、とりあえず持っていたいと思うんだ。
僕は少しだけ大人になる。生殖能力を兼ね備えた、未熟な大人の身体は危うい。エロい衝動も含めて、丸ごと受け止めるのは正直しんどい。どうせ僕はレンアイなんてできなくて、子供なんて作れない。そんな心は置いてけぼりで、体はちゃんとエネルギーを蓄えて、だらだらと、僕の中から溢れ出す。
いくみはね、まさみと違って奥手だから、大器晩成型なんだよ。よかったよかったと、りりこさんはあっけらかんと僕を肯定する。まさみちゃんは、あーあ、とうとうめんどくさいものが、いくみにもきちゃったね、って。
でもね、なぜかその夜、りりこさんは泣いていた。隣の部屋で、声を殺して。2LDKの狭い集合住宅じゃ、静まり返った夜は、寝息だって筒抜けになる。そしてその後、三日間、りりこさんの目は腫れ続けていた。僕もまさみちゃんも、何も言わないで、りりこさんの目の腫れが、おさまるのをただ待つだけ。りりこさんのことはりりこさんにしかわからない。四日目に、りりこさんは、突然「明日、はこばあちゃんのところに行こう」と言い出した。はこばあちゃんは、まさみといくみのおばあちゃんだからねって。
八月の第一日曜日。りりこさんの運転で、まさみちゃんと僕と三人で海岸線を走る。来なくていいって言われても、りりこさんは気にしない。りりこさんは人より鈍感で、シナプスが途切れちゃってて、三日後に反省したりもするんだろうけど、それはやっぱりこの人の強さなのかもしれない。こんな人になりたいとは思わないけれど、先に心配するよりも、なにもかも終わった三日後くらいに後悔する方が気楽なのかもしれないとは思う。
「ちょっと寄り道しようか。」
すでにウインカーを出して、右折に並ぶ前の車に連なって、りりこさんは双海の海岸に車を停める。えー?暑いじゃん、ってちょっとしぶるまさみちゃんをりりこさんが車から引っ張り出して、三人で海風を体いっぱい浴びる。道路わきの露店から、揚げたてのじゃこ天のいい匂い。海に向かって緩いL字に伸びた防波堤の先には水着でいちゃつく数組のカップル。
海っていいね、こんな近くにこんないい場所あるんだから、もっと利用しないとね、なんてりりこさんが陽気に言う。ここは海に沈む夕陽が最高に綺麗なロケーションで、全国でも割と有名なんだ。
三分と経たないうちに、背中を汗がたらたら流れる。もうすぐお昼だからね、暑いし、お腹もすいたし、そそくさと車に戻る。ちょっとエンジンを切ってただけなのに、もう車内は蒸し風呂のよう。なんなの、帰りに寄った方がよかったじゃんって、ハンカチで汗をぬぐいながらまさみちゃんがぶつぶつ言う。 ふーっと一回長く息を吐き出して、
「ああ、そうそう、」
ふと思い出したようにりりこさんが言った。いや、ずっと、なにか言いたそうにはしていたから、演技だってばればれだけど。
「あんたたちにね、妹か弟が出来るらしいよ」
遠くを見ながらふっと笑う。
まさみちゃんがパタパタ仰ぐ手を止めて、何のジョークかよくわからない顔をして僕を見る。
―あそっか、あれは僕たちのきょうだいなのか。
見知らぬ女の人のお腹に僕らのきょうだいがいる。違和感はぬぐえないけれど、少しだけ、柔らかい気持ちが芽生えた。
「君たちのパパは、これから三人の養育費を稼がないといけないから、まじめに働いてるらしいよ。」
りりこさんの目がキラキラしてる。
「こっちはこっちで、母子家庭手当てが出るから一石二鳥かもね。」
「え、待って、それってママが妊娠してるってこと?」
まさみちゃんがとんちんかんなことを言うので、噴き出した。
一石二鳥。それは、喜ばしい事なのか。よくわからないけれど、りりこさんがそう言うなら、そういうことにしておこう。
なんだかしっくりはこないけれど、はこばあちゃんが僕たちのばあちゃんであるように、みちやすは僕たちの父親なんだ。それは、絶対的真実。
僕がみちやすを見かけたあの日、りりこさんもみちやすに会って、その三日後に、今度は三人で会って、きちんとお別れしたらしい。相手の女の人は、まじめで、とても優しそうな人だったって。吹っ切るのに多少の時間は要するけれど、一度吹っ切ったら、もう弱音は吐かない。いつも前だけ向いている。りりこさんは、やっぱり強い。弱いところを見せないだけかもしれないけれど、それだって、強くないとできないと思う。
軽に三人乗ると、クーラーマックスにしても、なかなか涼しくならない。急におとなしくなったまさみちゃんのハンカチを借りて僕も汗をぬぐう。
みちやすの話はさらっとすませ、りりこさんは涼しい顔で、お気に入りのアニソンのボリュームを上げる。ハンドルを左に切って、海岸を内に入り、川沿いをくねくね走る。もうすぐお墓が見えてくる。手土産にはお赤飯。はこばあちゃんはいつものように目を細めて、「よう来たのう」って言ってくれるかな。よしおちゃんは相変わらず、イノシシをかわいがっているだろうか。
僕はきっと、三日後、いや、三年後でもいいや、とにかく、笑っていたいと思うんだ。




