2.異世界の兵士
「――ウィン……オレは……間違えたのか?」
大切な物があった。
知らず内に満たされていた彼はソレに気づいていなかったのだ。だからこそ、妻と娘が彼の傍から去ったと、気がついた時には既に手遅れだったのだ。
あの時の会話を最後に……去って行く妻の背を特に気に止めなかった。そしてほどなくして温もりを失った日常に、二人のいない人生がいかに空しい事なのかを自覚して強い罪悪感と寂しさを覚えた。
「どこだ? ウィン……どこだ!? どこに居る!? リジー――――」
暗闇で妻が娘の手を引いて歩いていた。それは決して振り返らない。彼はその背を追いかけた。謝りたかったのだ。声だけでも届けばいいと声を上げるが、それさえも届いているか分からない。
「ウィン! リジー」
手を伸ばし触れる。しかし、その瞬間……二人は霧となって闇に消えた。
「――――!!?」
ジークは悪夢から眼を覚ます様に反射的に弾き起きた。呼吸が荒いが次に取った行動は周囲の把握である。
壁に立てかけられている“白箱”と“黒箱”を確認。自らの武器の位置と立ち上がる事が出来ると身体を動かす。鉛どころか、水中に居るかのような鈍重感を感じながら、身体を起き上がらせる。
そこで、ようやく彼は意識を覚醒させたときに瞬時に行う――“反射的な行動”から解放され、思考回路は理性のある行動へ移行した。
「……ハァ……ハァ……なん……ッ――」
起き上がった動作は反射的な無意識だったが、本来は呼吸をするだけでも槍で刺される様な激痛が身体を襲う。常人なら行動を躊躇う程の耐えがたい痛み。しかし、ジークにとってすればこの程度の激痛は耐えられないモノではない。
「流石に……いつものように動き回る事は出来ないか……」
身体能力は全快時の3割程度……毒の影響で体力も一時的に低下している。だが不幸中の幸いというのか……武器は二つともある――
そこでジークは自らの立場を理解していく最中、ある事に気がついた。
「ここは……どこだ?」
確かオレは……作戦行動を取っていたハズだ。
ジークはウィンが去ってから一人で戦場を渡り歩いていた。
どこかで妻の情報を得る事が出来るかもしれないと言う僅かな望みと、今更変えられない生き方を続けた結果である。
そして、罠にかけられた。
彼はある依頼を受けて、廃墟に潜伏していると言う敵の斥候を叩く為にその場所へ飛び込んだ。だが、ソレはジークを殺す為の罠であり、何重にも綿密に組まれた『ジーク・シュヴェルツェ抹殺作戦』だったのだ。
その際にジークは致死量の毒ガスを吸った。それでも息を止め、ガスマスクを着けて確認しに来た敵からマスクを奪い反撃。しかし、そのガスは特殊配合された代物であり、皮膚からも侵入していく改良型だった。
速攻性の性質を持つ毒は、戦うジークの体内を高速で蝕み、その身体機能を完全に停止させる――
だが、ジークは毒死前に敵を罠ごと食い尽くした。
毒に蝕まれ、肉体が死に絶えるまでの時間は3分前後。その間に、ジークはその場に居た、一個中隊の敵部隊を全て殲滅したのである。
最期の一人を殺した後に彼は気を失って倒れた。その時、上空に亀裂が入った様は、彼の世界でもオカルトに分類される超常現象だったのだが、そのまま気を失ったジークは気にしていなかった。
「……ここは――」
順当に行くなら、敵に捕まったと考えるのが妥当だろう。しかし、身体からは毒素が消え、治療もされている。更に武器も眼に届く場所にあるのだ。捕虜として捕まえたにしては色々な事で辻褄が合わない。
「……やはり、死んだか」
地獄にしては比較的に緩やかな場所だが、あの時の作戦の地には周囲に民家も村も無かったと記憶している。そうでなければ“罠”にならなかった。
こうして治療される場所が近くにあるのなら、あの場所を敵は選ばなかっただろう。
「……」
椅子替わりにベッドの横に座り、ようやく室内の様子を把握する事にした。
まず気づいたのは天井が低い。立ち上がれば身長ギリギリの高さであり、所々に古めかしい印象を受ける。
丁寧に掃除はされているが水が沁みた後もあり、雨漏りも多いのだろう。
今座ってるベッドも比較的に小さい。サイズ的に子供のものだ。ベッドから少し離れた場所には部屋に合うサイズの手作りの本棚に、手作り丸テーブルと手作りの椅子。良く見るとベッドも手作りである様だ。
本棚には流石に手作りでは無い本が収められている。普段なら気にも留めないが、ジークは痛みも忘れて興味を抱きつつ立ち上がると、その本へ手を伸ばしていた。
「……見た事の無い文字だな」
傭兵として世界中を渡り、読めなくても一通りどの国の言語かは把握しているつもりだった。いや、そもそも罠にかけられた場所は露西亜の領地だった――――
「ここは……どこだ?」
その本の文字は露西亜語でもなければ、その辺りで伝わる文字でもない。答えを探す様に視線は自然と扉へ向いた。足は自然とそちらへ向いており、歩を進めようと踏み出した――
“だから、大丈夫だって! それよりも、怪我した人を外に出す方がダメでしょ”
扉が開くと同時に、ジークはこちらに気づいた少女の胸ぐらを掴み、扉を吹き飛ばさん勢いで外へ押し出した。
「わわっ!」
『!? アイリス!!』
ジークは負傷していない左腕を使ってアイリスを片腕で持ち上げていた。子供とは言え、人一人を易々と持ち上げる膂力。ジークの持つ身体能力は常人を遥かに凌駕していると証明していた。
「――――」
残った右眼で少女を見て、次に外の光景を見たジークは驚愕した。この小さな民家に、まるで見守る様に動物たちが集まっていたのだ。その中で明らかに異形の存在――竜の存在もあり、めったに驚く事の無いジークが、驚愕するのも無理は無かった。
「っと……」
ジークは少女――アイリスの首を絞めているわけではない。ただ胸ぐらをつかんで掴み上げているだけだ。降ろす様子が無いと思ったアイリスも、ジークの手に腕を添えて楽な吊るされ方を選択する。
『……アイリス』
その場に居る、最も強烈な異形であるラヴァルストはアイリスを持ち上げているジークの腕を切り落とさんと狙う。娘に沿えている手をどけるようにアイコンタクトを送った。
集まっていた動物たちもジークに強い敵意を抱き、隙あらば攻撃する事も持さない様子で威嚇している。
しかし、逆にアイリスはジークを護る様に、大丈夫、と首を振った。
「…………」
襲って来ない? いや、躊躇っているように見える――
ジークもまた、冷静に状況を把握する。この中で唯一の“人間”である少女。そして、今の状況で解るのは、この娘はこの場でも人質となり得るほどの価値を持った存在であると言う事だ。
ならば殺せない。特にあの白銀の竜。奴が動きを止めているのは恐らく、この娘を巻き込みたくないからだろう。
「――――」
『エアバスター』は有る。この娘を盾にすれば殺れるか? 至近距離ならば戦車も消し飛ばす威力が有効ならば、難しくは無い――
「あの……」
「……なんだ?」
ラヴァルストから視線を外さずにアイリスと会話する。今の状況を理解していないのか? とジークは半ば呆れた。
「血が出てます。無理はしないでください」
身体の傷口が開き、血が滴り足元を染めている。それにはジークも気がついているが、今は最も強大な脅威である竜をどうやって始末するかだけを考えているのだ。
「……黙っていろ。殺されたくなければ」
その言葉に、ザワッと周囲の空気が変わった。まるで言葉を理解したように、動物たちとラヴァルストは本格的にアイリスを救うべく、ジークへ殺意を抱く。
「ストップ! 皆、ストップ!!」
ただ一人、アイリスだけはそんな事にはならないと悟っているように、皆を静止していた。だが、ジークも向けられる殺意を日常的に感じて来た人間だ。四方を囲まれ、不利な状況も経験している。
故に、その様な威圧は彼が精神的に焦る程のモノではないのだ。隙は毛ほどにも生まれない。
『…………』
潮が引く様に空気がラヴァルストから離れて行く。もはや、彼女にはジークは家族を脅かす敵にしか映っていない。やはり、救ったのは失敗だった。人と関わるには――娘には早かったのだ。
「動くな。言葉が通じるならな」
ラヴァルストの殺意が向いているとジークは把握。わかりやすい殺意であるが、何をしてくるのか解らない。このまま時間を置くのは危険か。こちらから仕掛け――
「こらー!!」
ラヴァルストの“魔法”が発動し、ジークは有無を言わさず魂を消し去られる。
その数瞬後の未来は、声を上げて膝蹴りをジークに喰らわせたアイリスによって回避された。
何て事の無いただの蹴り。しかも人質にした小娘からの攻撃は、身構えていれば大したモノでは無いハズだった。
しかし、失明した左眼と周囲に気を取られ過ぎた事でアイリスの行動を的確に判断できなかった。ジークは身構える間もなく、まともにその蹴りを顔面に受ける事になる。
「くっ――」
「わわっ!」
絶妙なバランスで積まれた積み木のようにギリギリで保っていた身体機能は、アイリスによる顔面膝蹴りによって、バラバラに崩壊した。
……左眼――コレが鬼門だったか――
思わず倒れ、持ち上げているアイリスも一緒に倒れ込む。
それが皮切りとなり、動物たちとラヴァルストは一斉にジークへ襲い掛かる。ラヴァルストは魔法を行使して、ジークからアイリスを取り戻そうと彼女の身体を浮かせ――
「服が伸びちゃうでしょ!!」
ジークに馬乗り状態で、アイリスはまっすぐな感情をぶつけた。その声に、動物たちもラヴァルストも反射的に行動を停止する。
「――――何を言っている?」
ジークはもはや指一本動かす余力も消え去っていた。後は、元から先延ばしになっていた結末――死を迎えるだけだと悟る。
だが、長年の習慣である“殲滅意志”は消えず、アイリスよりも再び動きを止めた周囲へ意識を向けていた。
「非常識ですよ!!」
アイリスは目の前の自分に意識を向ける様に、ジークの頬に手を添え、強制的に彼の視線と意識に割り込んだ。
「話をしているのは私です! よそ見しない!!」
「…………」
彼女の眼は、強く、そして純粋な瞳でジークに怒っているのだ。
彼は何も解っていない。無意味に周囲を、そして自らを危険にさらす行為にアイリスは怒っているのである。
「せっかく助かったんです。命を大切にしてください」
その瞳はジークにとって見覚えがあるものだった。
かつて……妻が“普通に生きたい”と告げた時と同じ――真摯な眼だった。
選べる選択肢はまだある。眼につく敵を制圧するだけの手段は有る。まだ少女も拘束できる距離だ。後一分もすれば身体を動かせることは出来る。
だが……本当にソレでいいのか? それで――
「…………どうすればいい?」
ジークはもはや分からなくなっていた。今までの生き方を変えると言う事は、今まで信じて来た自分を否定すると言う事になってしまう。
それを一人で決断する勇気は……ウィンと違ってオレには無かった。オレは――弱い人間だ。
「まずは怪我を治しましょう。それから、えーっとですね……」
アイリスへは最初こそ、無謀とも取れる真っ直ぐな行動をしていたが、今度は少し恥ずかしげに頬を赤らめて、
「貴方の事、もっとよく教えてください!!」
その言葉に動物たちは、『?』 という様子で首を傾げる。その中で唯一、娘の真意を理解できたラヴァルストが叫ぶ。
『許さないぞ、アイリス! 私は絶対に許さないからな!!』
「ちょっと! お母さんは黙っててよ!!」
『人は見た目で選んではダメだ! 先ほど殺されかけたのを忘れたのか!?』
「ソレはソレ、コレはコレだよ!」
『全然意味が解っていない!! お前は!』
「アイリスと言うのか?」
割り込むようなジークの名を呼ぶ言葉に、アイリスは嬉しそうに頬を赤らめ、ラヴァルストは嫌悪をあらわにする。
『気安く娘の名を呼ぶな!』
「お母さん!!」
そうか……オレはまた間違う所だった。冷静に見て見れば、彼女たちを敵として考えなければ、自ずと辿り着く答えなのだ――
この地が何であれ、オレは彼女たちの日常を脅かそうとしてしまった。
“ボク達の様な人間は気をつけなくちゃならないんだよ。ジーク――――”
「もう……誰が私の名前を呼んでも良いでしょ!」
『む……だ、だがな――』
「はい! この話はおしまい!」
いつもは冷静で淑女な母がここまで感情をあらわにするのは珍しい。心配してくれるのは嬉しいけど、ここまで感情的に喧嘩をしたのは数年ぶりだった。
「あ、ごめんなさい。人にはよそ見しないとか言っておいて……」
アイリスは先ほど自分が言った言葉をさっそく自分が破った事に羞恥心を感じていた。
「いや……オレの方こそ悪かった。場を荒らしてしまった」
憑き物が落ちた様に先ほどのピリピリした感情は消え去っていた。悪いと感じて謝ってくれたジークにアイリスは改めて笑みを浮かべる。
「アイリス・ヴァン・シュヴェルツェです。あなたのお名前は?」
「――――ジーク・シュヴェルツェだ」
それは、決して繋がる事の無かった者同士が……お互いに新しい世界を垣間見た瞬間だった。