アクアマリンの孤独 2-4
「もしかしたら巫女様の歌声なのかも、なんて思うんです。巫女様は地上には出られないそうですから。もし叶うなら……一度彼女に会ってみたいな、なんて」
そう言った少年の瞳は、恋に憂いたような、少し悲しそうな色を浮かべていた。先刻の歌声の美しさは、少年が恋に落ちるには十分だったようだ。
だが彼はすぐに、それを照れ笑いに変えた。
「あはは……すみません、変な話しちゃって。みんなには内緒にしておいてくださいね。今夜の夕飯、サービスしますから」
「別に。おまえの恋路に興味は無い」
小さく鼻を鳴らしたシドに、テオドールは苦笑する。そして彼は「じゃぁ、私はこれで」と言って、茂みの向こうに消えて行った。
その背を見送ってから、シドは思案顔で神殿の方を振り返った。
「テオドールは、さっきの歌声をセイレーンのものと思っていないらしいな」
「それって、宗教的にどうなの?」
「エレニが知ったら怒るだろうな。この国の信仰の程度にもよるが。恐らくテオドールは歌が聞こえたことを、エレニに相談したことがあるんだろう。神官であるエレニはこう言う。『それはセイレーン様の歌声です』。それ以来ここは、テオドールにとって秘密の場所なワケだ」
巫女とはいえ同じ人間の女の子かもしれない存在を、永遠に手の届かない神様にされてはたまらない。なるほど、そんな気持ちもあるのかもしれない。
ただ……数百年の時を生きるシドの魔力を弾き飛ばすほどの力と、聞こえるはずのない歌声。その持ち主となると、どうだろう。
「全て神の仕業で無いのなら、幻石を持っているのは巫女である可能性が高いな」
シドは呟くように言うと、くるりと踵を返し、元来た水路を辿って海辺に戻った。
海は相変わらず、嘆くような潮騒を奏でている。
「あれ?」
砂浜が先刻よりも、随分と広くなっているような気がする。引き潮かと思ったが、それにしたって、砂浜で魚がのた打ち回るほどの勢いでは引いて行かないはずだ。
「津波だ……!」
呻くように言ったシドに、僕は目を見開く。
「なに、何それ! 何で!?」
「おまえ、何百年も生きてるくせに知らないのか!? 一気に潮が引くのは、津波の前兆だ!」
「それは知ってるけど……で、でも地震なんて起きた!?」
「いや。だが遠隔地で起きた可能性はあるし、海底火山の噴火かもしれない。或いは――」
シドは神殿を睨むと、忌々しそうに舌を打った。この国に渦巻く魔力が、津波を引き起こそうとしているとでも言うのだろうか。そんな大規模な魔力なんて僕には想像も付かないし、全くと言っていいほど感じられない。
「ソラ、魔法を使えるか?」
「え?」
「津波を止めろ」
「えぇぇぇっ!? こんな大規模な力に対抗するなんて無理だよ!」
「いいからやれ。おまえの魔法で津波の到達を遅らせて、その間に幻石を回収する。地下にいる巫女が幻石を持っているのなら、このままじゃ幻石は海の藻屑だ。いくら俺が不死身でも、探せなくなる」
会話を交わしている間にも、海は何かに吸い込まれるかのように、どんどん沖へと向かっていく。濡れた砂浜の上には、海藻や魚貝類があちこちに点在している。間もなく大量の海水が高波となってこの国を襲い、丸呑みにするのだろう。
戸惑っていると、シドが声を荒げた。
「時間が無い! 早くやれ!」
「条件があるの!」
負けじと声を張り上げると、シドが驚いたように目を見開いた。その眼はたちまち苛立ちを浮かべ、獰猛な獣の光を孕んで僕を睨んだ。僕は少し怯みながらも、勇気を出してみた。
「シド、魔法でこの国の神様に変化して、みんなを安全なところへ誘導して。そうしてくれるなら、僕は魔法を使う。全力で頑張る」
「それは神官であるエレニの――」
「エレニの役目だけど、今この砂浜にいるのは僕達だけ。気付いていないかもしれないし、何も前兆が無いんだ。津波が来るって言ったって、実際に海を見るまで信じない人もいるかもしれない。でも、神様の言葉なら別でしょ?」
するとシドは少しの間僕を睨んだ。しかし間もなく嫌そうに顔を歪めると、「わかったよ」と呟いた。
「妙な真似したら、すぐに魔法を解くからね!」
僕は念を押してから、海に向けて手を翳した。
「遅延魔法、発動っ!」
掛声と共に、僕は全身の力を高め、一気に解放した。次の瞬間、ぐわんっ、と空間に大きな波紋が走り、潮騒の音や波の動きがスローモーションになる。
「止まっ、た……」
これは、シドが僕に干渉しているせいだろうか。自分の力に呆然としていると、シドが僕に手を伸ばしてきた。
「行くぞ、ソラ」
「約束守ってね!?」
シドは応じず、僕を乱暴にポケットの中へ放り込むと、水の消えた砂浜を走った。




