アクアマリンの孤独 2-2
「セイレーンの歌……少し調べてみるか」
シドの独り言を聞きながら、僕は彼の胸ポケットから顔を出して、辺りにぐるりと首を巡らせた。
「ねぇ、シド。あっちにある扉は何?」
ポケットから身を乗り出し、僕はセイレーン像の影にある扉を指差した。周りの壁と紛れて分かりにくくなってはいるが、扉の開閉に使う取っ手が付いている。
「扉か。多分、開かないだろうな……」
シドは扉の取っ手を掴んだが、押しても引いてもビクともしなかった。彼の言った通り、鍵がかかっているようだ。一般に解放されているのはこの広間だけなのだろう。
「鍵を持っているのは神官のエレニだけだろう。変に魔法を使って、怪しまれると厄介だ。真っ当な人間らしい機会が来るのを待とう」
シドは言って、神殿を立ち去ろうとした。だが、その時だった。
「っ!?」
突如見えない何かが僕達の体を突き抜け、シドの髪や服をバタバタとはためかせた。それは間違っても穏便な雰囲気とは言い難く、まるで挑発のようだった。
「ほぅ?」
片眉を上げて呟いたシドは、明らかにロクでもないことを考えている顔をしていた。
「ここの主は、俺に喧嘩を売る気なのか」
「シド、顔が完全に悪になってるよ。まさか救世主を装って、災厄の原因は神殿の奥にあるから扉を開けろとか言い出す気じゃないよね?」
「別に鍵など要らん。それに、大衆の前で動くのは面倒だ。魔法を使って、扉を砂に変えてやる」
シドは言って、一分の迷いもなく扉に手を伸ばした。つい先刻口にしていた「真っ当な人間らしさ」は、もうどうでもいいらしい。
「待ってよ! いきなり突入する気!?」
「どうせ何があっても死なないんだ。別に構わないだろう?」
「すっごく構う! 僕は死ぬよ!?」
シドは僕の心からの叫びを無視した。
バチンッ!
「なっ……!?」
しかしシドの手が扉に触れた瞬間、大きな破裂音とともに紫色の電撃が弾けた。驚愕の表情を浮かべている彼の掌は、ひどく焼け爛れていた。
「俺の魔法を弾いた……?」
痛々しい傷を負いながらも、その呟きは期待と歓喜に満ちていた。
その時、神殿の出入り口の扉が静かに開かれて、数名の村人が入ってきた。
「シド、人が来たよ!」
シドは小さく頷いて応じると、血塗れになった掌をズボンのポケットに突っ込んで、彼らとすれ違いに神殿を出た。彼らはシドを見て、手を合わせて拝むような仕草を見せた。シドは小さく舌打ちして、足早に神殿を離れていく。
そしてその足でどこに行くのかと思えば、シドはセイレーンの歌を聞いたというテオドールを捜すことにしたようだった。しかし彼の居場所を人々に尋ねて歩くも、彼らは揃って首を傾げるばかり。宿にも戻ってみたが、いなかった。
「シド、どうせ夜になれば夕食で会えるんだから、いいじゃない」
ポケットの中から声をかけると、シドは僕を一瞥して、小さな声で言った。
「それじゃぁ、今日は一日何をするって言うんだ。まだ午前中だぞ」
「お布団に戻って二度寝してみるとか」
「却下」
僕の提案を、シドは冷たくあしらう。
僕はポケットの縁に手をかけ、顔を出した。
「それなら、海に行くとか」
首を回して、シドを見上げる。彼は面倒臭そうな顔をしていた。
「島育ちなんでしょ? 故郷と同じ母なる海の音色で、その悪人系仏頂面の、仏頂面の部分だけでも直してもらったらいいと思うよ」
「余計なお世話だ」
「宗教から考えると、この国は空と海を中心に動いているんだよね? 危機が迫っているっていう割には、空は快晴。ということは、魔力の影響は海に出ているのかも」
「一理あるが、もしそうならテオドールが今夜は新鮮な魚料理だなんて言わないだろう。危険な海にわざわざ行くものか。……単に海が見たいなら、そう言え」
「あはは、バレた?」
照れ笑いする僕に溜め息をつきながらも、シドの足は海辺へと向かう。僕はポケットから飛び出して、彼の肩に腰掛けた。シドの髪や服が潮風に靡くのを感じながら、僕は口から出てくるに任せた、でたらめな旋律を紡いだ。
「うーみはおっきぃ。うーみ。うーみー」
「そこで妙な歌を歌うな」
僕の腰かけている肩をシドが手で払う前に、僕はパッと飛び立って、空中で一回転した。陽光を反射する真っ白な砂浜に、楽しげに揺らめく蒼い水面。水平線は遠く広がっている。
「シド、さっきの右手は治った? もう痛くない?」
尋ねたが、彼は見事なまでに僕の質問を無視した。仕方が無いので覗き見ると、彼の右手は、滑らかな皮膚を取り戻していた。不老長寿の僕と違って、シドは怪我をしても時間が経てば元通りになる。
しかしそんな僕の気遣いを他所に、海に着いて一分もしないうちにシドは言った。
「なるほど。海に何か影響が出ている様子は無いな。帰るぞ」
「そんなこと言わないで! 海だよ、海! うーみー!」
「数百年も生きているくせに、何を今更珍しがってるんだ?」
「珍しいんじゃないの! 好きなの!」
喚き立てていると、シドは呆れ顔で深い溜め息をついた。それから「少しだけだぞ」と言って、砂浜の上に腰を下ろした。