アメジストの雨恋 4-3
「――シルフィは、神様と会ってた」
小さく落とされたレイの言葉に、シドはほんの少しだけ目を見開いた。雨音は妙にうるさく鼓膜を叩き、雷鳴が空に轟く。
「崖の途中の小さな横穴――そこに小さな彼はいたらしい。彼の名はジュヴィアス。本当はもっと長いけれど、難しいからそれでいいと言っていたそうだ。それから、自分と会ったことは内緒だから秘密にしてくれ、と」
そしてジュヴィアスはシルフィに言った。――僕はもう君には会えない。でも、きっとまた舞を見せてくれ。
妖精は人間と関わってはいけない。もし関われば、命だけ残して、その存在を世界から奪われてしまう。僕もそうだし、雨降らしの妖精も例外では無かったはずだ。
「彼女がこの崖を下っていることを知って、俺は何度も止めたんだ。だけど、彼女はここに来る理由を絶対に言わなかった。俺はシルフィの後を付けて、何度もこの場所にやって来た。彼女は鈴を鳴らして舞踊っていたが、いつもここには誰もいなかった。シルフィが何の為にそうしているのかは分からなかったが、とにかく俺は何度も危険を忠告して、ここへ来る彼女に付いて来た」
そんな日々が続いたある日、シルフィは遂に、崖を下る途中で足を滑らせた。転落した彼女を救ったのは、壁面から広い足場へ飛び下りて、彼女を抱き留めたレイだった。しかし、奇妙な方向にねじ曲がった彼の脚は血塗れで、折れた左大腿骨は外界に突出。シルフィがすぐに人を呼びに行って一命は取り留めたが、レイの脚は切断せざるを得なかった。
「狩りで失ったんじゃないのか……?」
「それは建前。シルフィはここを訪れる理由を、俺にすら話さない。よっぽど秘密にしたいんだろうと思ったから、皆にはこう言ったよ。『谷で鳥の卵を見つけたんだ。シルフィに取って食わせてやろうとしたら、足が滑って落ちた。』――だけどそれ以来、シルフィはここに来なくなった」
しばらくの後、この辺り一帯は水不足で干上がった。待てど暮らせど雨は降らず、戦族は村を出て、残された舞族は、日がな一日酒を煽るようになった。
僕はすぐに悟った。シルフィがここへ来なくなったタイミングで、ジュヴィアスが妖精族の長の呪いを受けたのだ。だから雨が降らなくなった。
しかしシルフィは思ったのだろう。僕と話していた姿の見えない誰かはジュヴィアスで、自分が彼の元へ行かなくなったせいで雨が降らなくなったのだと。それで、鈴の付いた腕輪を両腕に嵌めて、レイを殺さずとも雨を降らせてほしいと、また彼の元を訪れようとしたのだ。
「ジュヴィアスは、シルフィが自分のところへ来なくなったのを俺のせいだと思っているんだろう。いや……実際そうだったんだ。だからきっと、俺の死を願った。でもシルフィにはこの谷は危険すぎたんだ。彼女は岩壁を下る度に手指から血を噴いていたし、爪だって何度も剥がした。いつ谷底に落ちたって不思議じゃなかった」
「シルフィはここへ来る理由をおまえにも話さなかったんだろう? ジュヴィアスのことはどうやって知ったんだ?」
「俺が足を失った後、舞族の長から聞いた。俺が崖から落ちてすぐ、父親に打ち明けたらしい」
「…………」
シドは沈黙し、雨に濡れた髪をかき上げた。
「おまえには悪いけど、俺が生きていることをジュヴィアスが知ったら、雨は止んでしまうかもしれない。だが、それならそれでいい。俺にはここを登ることなんてできないし、どうせ死ぬのは同じだ」
そう言って、レイは小さく微笑んだ。息は徐々に乱れ、顔はどんどん青白くなっていた。
「シド……ジュヴィアスはここにいるの?」
尋ねると、シドは僕を一瞥した後、首を横に振った。その仕草は、僕の声が聞こえていないレイに「ここから去るべきだ」という意味に捉えられたのだろう。彼は哀しく笑うと、動かないシルフィの頬をそっと撫でた。
「いいんだ。俺は戦族として、舞族を守って死ぬことが誇りだと思っていたが、どうやら俺にそんな誇りは無かったようだ。俺はただ、シルフィに生きて欲しかった。……それだけだったんだ」
そして、彼は申し訳無さそうにシドを見上げた。
「約束を違えたな。――苦しい思いをさせたというのに、すまない」
「……別に」
「それに、彼女を一人にはできない。こんなところで、まるで生贄のように眠らせるなんて」
「連れて行く。おまえも、シルフィも」
言って、シドは軽く両腕を広げた。彼の足元が光り輝き、関節が奇妙な方向にねじれ、その表面を白い羽毛が覆い尽くす。シドはたちまち、まるでこの横穴を巣にしているかのような、先刻よりも大きな白鷹に姿を変えた。
レイは、始めこそ驚いた様子で目を見開いていたが、それほど動じたわけでもないらしい。「凄いな」と呟き、白鷹の頬を撫でた。しかし彼はゆっくりと首を横に振る。
「でも、駄目だ。舞族の長が俺達を見つけたら、まるで本当の伝承に準えたみたいに思われる。生贄によって雨が降ると考えられてしまうようになったら最悪だ。そんな風習、絶対に生まれてはならない」
レイはふかふかとした白鷹の耳元に唇を寄せ、小さく微笑んだ。
「ありがとう。すまないな」
囁くようにそう言った後、レイの手がシドの頬から滑り落ちた。首は力無く項垂れて、開いたままの双眸に、もう光は宿らない。血の滴が、ポタポタと地面に落ちるばかりだった。
――でも、きっと大丈夫。すぐに、天が私達を助けてくださいます。
レイの言葉を思い出す。一体彼は、何を信じてそう言ったのだろう。これが天の所業だとしたら、本当に反吐が出る。シドの言った通りだ。




