アメジストの雨恋 4-1
* * *
ポタポタと、血が落ちる。
「……っ」
苦悶に顔を歪めた表情のまま、動かなくなったシド。もちろん彼は雨降らしの妖精の目を欺く為、レイに姿を変えている。
月が西に傾いて、星の光は朝の気配に薄れ始める頃。けれど辺りはまだ薄暗くて、日の出までにはもう少し時間がある。
こんな恐怖は、生まれて初めてだ。
心臓なんて、抉り出せるはずがなかった。せいぜい彼の胸を一突きにするのが限界だ。
真っ赤に濡れた手の中からナイフが滑り落ち、カンッと無機質な音を立てた。
僕が思っていた以上に血はたくさん出たし、恐らくシドは随分我慢していたのだろうけど、彼が漏らした苦しそうな呻き声も、耳に張り付いて離れない。
人気の無い広場に、僕は立ち尽くす。見開いたままのシドの眼が、硝子玉みたいだった。
「クスクス……」
後ろから聞こえた声に、僕はハッとして振り返った。雨降らしの妖精が、嬉しそうに笑っていた。
「殺したんだね、レイのこと」
彼は言って、口の端を吊り上げる。
「そんなに水が欲しかった? 水の為なら、彼の命なんて要らない?」
「…………」
僕は黙って、彼の言葉を聞いていた。雨降らしの妖精はそこでスゥと笑みを消すと、唸るように小さく呟いた。
「人間の方がよほど綺麗だ」
ポツッ。
次の瞬間、地面に小さな染みが広がった。驚いて天を見上げると、みるみるうちに陽光が隠れて辺りが暗くなり、空一面に立ち込めた暗雲から注がれた大粒の雨が、僕の顔面に降り注いだ。
「雨……」
乾き切っていた大地が濡れ、ひび割れていた地面の中に、コプコプと水が吸い込まれていく。シドの流した血が雨に薄められて、大きく広がった。
ザァァァアア……
雨音はたちまち激しくなって、空を見ていては目が開けられなくなった。しかし目元を手で覆いながら地上に視線を戻した時、雨降らしの妖精の姿は既に消えていた。
「ぶはっ!」
すると地面に倒れているシドが物凄い勢いで息を吹き返し、仰向けでゼーゼーと苦しそうな呼吸を繰り返した。レイの姿だったのが、あっという間にシドの姿に戻る。彼はまだ血を流している左胸を手で押さえながら、凶悪な顔で僕を睨み付けた。
「心臓を抉り出せと言ったはずだよな? おまえがナイフを抜いた数秒後には、既に拍動が復活していたんだ。……バレたらどうする気だったんだ」
「あ、ぅ、ごめん……大丈夫?」
心配して覗き込むと、拳骨で頭を殴られた。
「痛っ!」
「くそったれ」
シドは吐き捨てて、ゆっくりと身を起こす。雨に濡れた前髪をかき上げて、少しふらふらしながら立ち上がった。
「雨だ!」
「雨だぞ!」
人々の歓喜の声が聞こえて、踊るような足音が駆け出してくる。彼らは広場に佇むシドと僕のことなど気にも留めていない様子だった。まるで僕らの周りに広がる血なんて見えていないかのように、笑って、騒いで、跳ね回っている。
彼らがこの村からレイが消えたことに気付くのは、いつになるのだろう。
「行くぞ」
シドは言って、静かに歩き出した。僕は彼の後を追いかけ、傍らに並ぶ。
「ねぇ、この雨は……やっぱり妖精が降らせたの? 妖精の魔法にシドが干渉してるの? それとも自然の恵みなの? ねぇシド、さっきの妖精の言葉って――」
……本当はレイの死を望んでいなかったかのような言葉だった。それどころかまるで、僕に裏切られたかのような口振りだったような気がする。
「シド……」
しかしシドは何も言わず、ズンズンと歩いて行く。僕は胸の中に重いものが立ち込めているのを感じながら首を横に振り、別のことを尋ねた。
「シド……もう一つの幻石――盾の神のアミュレットの場所、見当付いてるの?」
「村を出て少し行ったところに墓地がある。そこだ」
「墓地?」
「あぁ。……谷があってな。その近くだ」
「そんなところ、いつの間に行ったの?」
「おまえが酒場に行っている間に。馬に化けてひとっ走りしてきたんだ」
言われて、僕はドキッとして目を見開いた。そういえば酒場から戻った後、ハンモックで昼寝をしていたシドに、ボディプレスを仕掛けた気がする。
「あ、う……ごめん、シド。あの時、てっきりシドがサボっているものかと思って――」
「死ね」
「はうっ」
グサリと言われて、僕はガックリと肩を落とした。




