アメジストの雨恋 3-2
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鞄から取り出したワインボトルに口を付け、残っていた中身を喉へと流し込む。乾いた喉の上を滑る芳醇な香りは、先刻これを水に変えたことを後悔するほど、極上のものだった。
「さて……」
民家の影に身を潜め、迂闊としか言い様の無いソラの言動を眺めながら、俺は小さく息を吐く。仮に妖精がソラと同じく追放された身だったとした時の為、俺の魔力を余分に与えておいたのだが……失敗だったかもしれない。あの感情の起伏の激しいソラのこと。薄々予想していたとはいえ、すっかり相手のペースにハマっている。雨降らしの妖精が神様気取りなら、自分は正義の味方気取りらしい。随分長く生きているくせに、あのガキ臭さはどういうワケなのだろう。
「どうしたものか」
ソラの奴、聞いていたのがシルフィだけだと思い込んで安心しているようだが、こちらの苦労はちっとも考えていないようだ。
――いや、あの顔を見る限り、安心はしていないのか。
俺は民家の壁に背を預け、俺の前で愕然としているレイを見遣った。先刻までのソラの言葉を、彼は全て聞いている。
「……飲むか?」
ワインボトルを振って見せても、レイは全く反応しない。ようやく絞り出されたのは、予想通りの言葉だった。
「俺が……死ねば……」
「早まるな」
「俺が死ねば、この地に雨が降る……」
「ただの戯言だ」
どうでもいい話だ。妖精の嘘を信じてこの男が自らの命を断とうと――そう、全く持ってどうでもいい話なのだ。
ただ、己が肉体に刃を突き立て、その魂を無理矢理に引き剥がそうとする者の姿を見るのは、いつの時代、どんな場所であろうと、決して気分の良いものでは無い。醜悪とさえ思えるのは、それとも俺の羨望故なのか。
「……一つ訊きたいんだが」
俺はワインボトルを鞄に戻し、代わりに古びた本を取り出した。
「村の伝承について綴られた書物のようだが、ページが足りない。自然に抜け落ちたというより、明らかに破り去られた形跡がある。一枚だけだ。そのページの内容を知りたい」
こんな時にこんな質問をするなんて、ソラが聞いたら不満の一つも言われるに違いない。
レイは俺を見上げ、ゆっくりと手を差し出した。俺はその手に書物を渡した。
「記されている伝承は、剣の神と結ばれることを、盾の神が死ぬまで拒んだところで途切れている。村人の話も、そこで終わりだ。だが俺には続きがあるように思えて仕方無い」
「この本、一体どこから探してきたんだ?」
「さぁ? その辺の空き家を回って色々掻き集めたから、覚えていない」
「空き家、ね。――この本は俺の家の物だ。仕様の無い客人だな」
「あぁ、それは失礼した」
ニヤリと笑ったレイに、俺は小さく肩を竦めて見せる。
「この本が破れているのは、わざとそうしてるんだ。もう随分前の世代から、戦族と舞族、それぞれの長の家系の者だけしか、続きは知らない」
「そうか。……では、伝承の続きは?」
「『盾の神の死は、剣の神の死によって導かれた。剣の神は盾の神への愛を証明する為、自らその胸を切り裂いたのだ。剣を掲げる魂を断ち切り、愛する者と生を共にするに相応しい姿へ生まれ変わることを願って。
剣の神の亡骸を抱き、盾の神は彼を受け入れられなかったことを嘆いた。本当は、彼が戦いを捨てられないことも、舞えないことも、気にも留めていなかった。ただ、種族の違いを畏れていた。そんなものに、彼の愛が阻まれようの無いものと知りながら。
悲しみに暮れた盾の神は、剣の神と共に生まれ変わる為、自らの命を絶った。いつの日か結ばれることを願って』」
スラスラと伝承の内容を綴ったレイ。内容から察するに、恐らく種族を越えて恋に落ちた者達が、この伝承に準えて心中でもしていたのだろう。だから、敢えて途中までしか話を伝えないようにしているのだ。
だが、盾の神が死ぬまで剣の神を拒んだというところで伝承を切ってしまったせいで、二つの種族には溝が生まれてしまったのかもしれない。この村でのレイの嫌われようは、そこから来ているのだろう。
するとレイは徐に首の後ろに両手を回し、その首から、例のアミュレットを取り外した。
「やるよ。約束だ」
「……え?」
驚いてレイを見ると、彼は俺から顔を逸らすように、広場の方を振り返った。
「戦族は舞族に少しでも長く生きて欲しかったんだ。足を失った俺を残して、食べ物も飲み物も持たずに村を出た。親父との約束だから、そのことは村の人達には言えない。だけど腹立たしくもあった。舞族達は戦族に裏切られたなんて嘯いて、酒場にたむろしてるんだから」
「…………」
「思い当たらないことが無いわけじゃないんだ。この地には、確かに雨を呼ぶ神がいる。おまえの相棒が、俺に神の言葉を伝えてくれた」
「ここでおまえが死ぬことには、何の意味も無いんだ。大体、仮に雨を呼ぶ神がいるとしても、命を求めるなんてどこの邪神だ」
言うと、レイは短く笑い声を上げて、俺の方に向き直った。少し強張った、けれど穏やかな笑みを浮かべる。
「戦族には、守る者としての責任がある。他の戦族達もそうやって死んでいったんだ。俺のすべきことは、自らを神に捧げて舞族を守ること。俺の命一つで雨が降るなら、喜んで差し出そう」




