アクアマリンの孤独 4-1
神殿は少女と共に水に沈み、今はただ、その上部を海面に突き出しているだけとなった。
暗闇から解放された僕が見たのは、美しい白銀の龍の姿だった。どうやらシドは龍の姿に変化して、天井をぶち抜いて脱出したらしい。僕とテオドールの身を、巨大な口の中に隠して。
魔法を解いて人の姿に戻ったシドは、岩場に仰向けになってゼーゼーと胸を大きく動かしながら「くそったれ」と悪態をついた。眉間の皺は、水が溜まるほどに深い。
テオドールは岩場に座り込み、荒い息を吐きながら、じっと海を見つめている。
「貴方は一体何者なんですか?」
「あ?」
尋ねたテオドールに、シドは面倒臭そうに応じた。だがテオドールは動じなかった。
「俺は巫女様と一緒に死んでもいいと思っていました。ずっと独りで生きてきたんだから、死ぬ時くらい、一緒にいてあげたいと思いました。どうして俺を助けたんですか? ……どうして巫女様を助けてくれなかったんですか!?」
激流に洗われ、テオドールの体には、もう巫女の血は一滴たりとも付いていない。しかし涙だけは、まだ彼の頬を伝い落ちていた。
「……。思い上がるなよ、人間風情が」
不意にシドが言った。
「テオドール。おまえがキュテリアのことをどう思っていようが構わないが、俺はただ、キュテリアがそう望んだからおまえを助けただけだ。別に俺は、あのままおまえを海に沈めてもよかった」
「……っ!?」
「普通に考えてみろ。人間の歌があんなにも響くわけがない。当然だ、あいつは人間じゃない。キュテリアはおまえが迷路に迷い込んだことを知って、おまえをあの場に導いたんだ。俺に助けさせる為に。あいつはあの白い花を大層気に入っていたから、礼のつもりだったんだろう」
真実と虚実を織り交ぜた話を、シドは面倒臭そうに綴る。
「もう解き放ってやってくれ。彼女に似合うのは神殿じゃない。海だ」
シドの言葉に、テオドールは大きく目を見開いた。
「じゃぁ、巫女様は本当に海の女神だとでも? ……だけど、巫女様の傷は? それにエレニ様も矢で射抜かれて――」
「エレニは」
テオドールの言葉を遮って、シドは言った。
「神官の身でありながら、キュテリアを侮辱した。彼女の恩恵に仇で報いるなど、赦されざる行為だ。悪いが命で償ってもらった」
「では、貴方がエレニ様を!?」
驚愕の声を上げたテオドール。シドは無視して続けた。
「まぁ……キュテリアの傷のことなら、安心するといい」
言いながらシドは身を起こし、衣服の裾を捲り上げた。
「シド!?」
僕は思わず声を上げた。シドはぐっと歯を食い縛るなり、そこに突き刺さっていた細長い岩を、ずるりと引き抜いた。転がされたその岩は、神殿の扉と同じ色をしている。どうやら津波に破壊された扉の破片が、シドの身体に突き刺さっていたようだった。
傷口から真っ赤な血が溢れ出し、海水と混じり合って岩場を濡らしていく。だが出血は間もなく止まり、傷付いた組織がゆっくりと隆起し始めた。愕然とした様子のテオドールに、シドは口の端を上げる。
「神様は不死身なんだよ。……言っておこう。二度と俺の女に手出しするんじゃない」
そしてまた、適当なことを言う。しかしテオドールはハッとしたようにシドを見つめ、小さく息を呑んだ。海の女神の恋人は唯一人。万能の空の神にして、気高き白銀の龍。
「わかったら、さっさと立ち去れ。俺はキュテリアと違って人間が嫌いなんだ」
テオドールは沈黙し、静かに立ち上がった。立ち去りかけて、ふと足を止め、振り向く。
「あの、一つだけ……巫女様はなぜ、呪われた身に?」
テオドールの問いを、シドは鼻で笑った。
「呪い? 何のことだ」
「巫女様の体は、神殿から外に出ると、たちまち肌に火傷を負ってしまうのです。みんなは、セイレーン様の呪いだと。でも、巫女様自身がセイレーン様だと言うなら、一体……」
わからないのか、とシドは小さく首を傾げてみせる。テオドールは怪訝そうに眉を寄せた。
「海に住まう者は、海でしか生きることができない。おまえのような人間が、水中で息ができないのと同じように」
「でも神殿では……」
「あの場所は、まだ海に守られていたからな。だが、あれでも十分無理をしていた」
シドの言葉に、テオドールが納得したのかどうかはわからない。しかしテオドールはそれきり口を閉ざすと、シドに向かって短い祈りを捧げ、岩場の向こうに去って行った。
そして彼の気配が遠ざかるなり、シドは塞がりかけの傷口を手で押さえ、大きく顔を歪めた。
「クソ痛ぇ」
「大丈夫?」
「大丈夫に見えるか?」
シドは僕を睨み、不機嫌そうに目を閉じた。
「ねぇ、シド」
「あァ?」
話しかけた僕に、シドはテオドールに対する時以上に不機嫌そうな声で応じた。もう慣れたものなので、気にしない。
「珍しく優しいじゃん。伝承の救世主を演じるなんてさ」
「俺は一番面倒を回避できる方法を取っただけだ」
「ふぅん」
しかしそこでふと、神殿内でのシドの発言におかしな点があることに思い至った。
「そう言えばシド。扉が閉まってるとか言ってたけど、あれってどういうこと?」
「脱出しようとしたら、神殿地上部の扉が閉まっていたんだ」
「えっ!? それって、僕のことを置き去りにしようとしたってこと!?」
「次は探さないと言っておいたはずだ」
「そりゃ言われたけど……いくら何でもひどすぎるよ! あの時は、シドが勝手に僕を置き去りにしたんじゃないか!」
「知るか」
憤慨する僕に対して、シドは例によって例の如く冷たい。腹が立ったので、僕はシドの顔面に飛び蹴りをかまそうとした。が、呆気なくシドの左手に捕まった。大きな拳から首だけ出した格好で、ひどく窮屈だ。
僕がそこから抜け出そうともがいていると、シドが不意に旋律を紡ぎ出した。巫女の歌っていた歌だった。
「…………」
だがシドは途中で歌うのを止めると、苛立ったように舌を打った。




