アクアマリンの孤独 3-5
歌が聞こえる。
途切れ途切れの哀しい歌声――海辺で聞いた、あの歌だ。
「あ……」
僕は聳え立った壁の前で立ち止まった。テオドールの姿は無く、僕は完全に彼を見失ったことに気付く。
シドは魔力を辿って、僕を見つけてくれる。けれどエレニやテオドールを探す術は無いし、例えその術があったとしても、シドにその気は無い。ただ、もしも彼らが僕と一緒にいたのなら、シドは何とか助けてくれるかもしれない。
僕が見つけさえすれば、助けられる。見つけさえすれば。
「テオドール! どこにいるの!?」
届きもしない声で、叫ぶ。元来た道を戻って、今度は別の道を辿った。どんなに全力で羽を震わせても、僕は人が走る速度には追い付けない。テオドールが道を間違えて引き返しでもしない限り、僕は永遠に彼には追い付けないだろう。
ただテオドールは間違いなく、聞こえ始めた歌を辿って行くだろう。僕は必死に耳を澄ませ、声のより大きく聞こえる方向へと急いだ。
そうして僕は二、三回ほど道を間違えつつも、何とか蒼い石の扉の前に辿り着いた。歌はその中から聞こえているようだったが、残念ながら僕の力で石の扉を開くことはできなかった。
「あーかーなーいーっ!」
僕は重たい扉を押したり引いたり叩いたりしたが、呪いのかかった妖精の姿のままでは、やはりビクともしない。しかし僕が扉に辿り着いて間も無く、後方から足音が響いてきた。
驚いて振り返ると、そこには息を切らせたテオドールの姿があり、こちらに向かって全力で駆けてきていた。そのあまりの勢いに僕は目を見開き、そして悲鳴を上げた。
「うわぁぁあああっ!」
テオドールは扉を開けようとしているだけなのだろうが、僕からしてみれば、物凄い速度で巨大な手が迫ってくるようなものだ。擦り抜けると分かっていても、思わず身が竦む。
「巫女様っ!」
いるかどうかも分からないのに、扉を開くなりテオドールは声を張り上げた。せっかく扉が開いたのだ。閉め出しを食うわけにはいかないと、僕は慌てて中へ飛び込んだ。
「!?」
部屋の奥にある泉からは水が溢れ、天井から大量の水が轟音を立てて注ぎ込んでいる。床は水浸しで、扉付近には額に矢の突き刺さったエレニが倒れていた。更に泉の中央にある石碑の傍らには、半身を水に浸した少女が胸から血を流して倒れていた。少女は長い金髪に白い服を纏っていて、儚いガラス細工のような体をしていた。
一体何があったのだろう。エレニは目を見開いたまま、既に息絶えているようだ。
「エレニ様!? 巫女様!?」
テオドールが愕然とした様子で声を上げた。彼は視線でエレニの死を捉えた後、迷わず少女の元へと向かった。
「巫女様! 大丈夫ですか!?」
テオドールの腕が水に沈みかけていた少女の身体を抱き上げた。流れていた歌が止む。
「そんな……どうして……」
テオドールは少女の血に塗れながら、両眼にいっぱいの涙を浮かべた。はらはらと零れ落ちていくそれが少女の上に落ちると、彼女はゆっくりと瞼を開き、淡く微笑んだ。
「白い花……。貴方なのね」
「巫女様……くそ、止血――止血しなきゃ」
テオドールは混乱した様子で辺りを見回したが、こんなところに止血器具があるはずもない。彼は泣きながら少女の胸元を押さえた。握っていた白い花が、血に染まった。
「巫女様、俺、一体どうしたら……」
「ねぇ、貴方の名前は?」
震えるテオドールとは反対に、少女は穏やかな声で尋ねた。ただでさえ白い少女の肌は血を失ってますます青白くなり、顔には死相が現れていた。テオドールは必死の様子で答える。
「俺は……テオドールと申します、巫女様。ずっと、聴いていたんです。巫女様の歌を。ずっと、お逢いしたいと思っていたんです」
「そう。私はキュテリア。初めまして、テオドール」
「えぇ、巫女様」
頷いたテオドールの頬に、キュテリアがゆっくりと、細い指を伸ばす。その指先がテオドールの頬に触れ、彼女の唇が何かを告げようとした、次の瞬間だった。
轟音と共に壁に巨大な亀裂が入り、建物全体が大きく揺れ始めた。天井から注ぐ水の勢いは、今までより一層激しさを増している。僕の遅延魔法が解けて、本格的に津波が襲ってきたのだ。
そしてシドが部屋に飛び込んできたのも、それとほぼ同時だった。僕と目が合うなり、彼は物凄い勢いで僕の方に走って来た。
「逃げるぞ!」
「え!?」
言いながら、彼はむんずと僕を掴んで、今度はキュテリアとテオドールの方へと向かった。
「キュテリア、おまえの歌が扉を閉ざしたのか?」
「ふふ……歌っている間、エレニは一度もここへ来たことがないの。私はただ、白い花をくれる人に聴いて欲しいと思っていただけ。途切れることなく歌が届くように、邪魔者の道を閉ざすように……。きっと守護石が私の願いを叶えてくれたのね」
キュテリアはそう言って、小さく微笑んだ。
「私は外には出られない。でも、貴方にはそれができる。ここから彼を連れ出して」
「……その為に歌ったのか」
「エレニから聞いていたの。少年が一人迷い込んだって。――あの時言葉で頼んだって、貴方はこの場に留まってくれなかったでしょう?」
「満身創痍でよくやるよ」
シドは呆れたように肩を竦めると、テオドールに視線を移した。テオドールは首を横に振った。
「俺は――行かない」
「駄目……連れ出して。彼に死んで欲しくない!」
「巫女様! 俺は行かない! もう貴女を独りにしたくないんだ!」
正反対のことを叫ぶ二人。壁の亀裂は更に拡大し、迷路へと続く扉の向こうからは、轟音が聞こえてきた。建物の揺れはますます激しくなり、頭上から海水が降り注いで来る。
「時間が無い。どうするんだ」
「お願い、行って!」
「嫌です! 俺のことは置いて行ってください!」
言い合う二人。シドは一体どうするのだろう。
「面倒臭い奴等だな」
小さくぼやいて、シドはテオドールの腕を掴み、自分の方へ強く引き寄せた。
「目を閉じて、歯を食い縛れ!」
シドが早口に言った刹那、凄まじい破砕音が響き渡り、激流に扉が打ち砕かれた。いくつかの巨大な破片となったそれは、猛スピードで僕達の方へと飛んできて――
「っ!?」
僕の視界は、一瞬のうちに暗転した。




