アクアマリンの孤独 3-4
俺は魔法で弓に変えた矢を投げ捨て、ピクリとも動かないエレニの手から、青い宝石と迷路の地図を取り上げた。エレニが守護石と呼んでいたその石からは、圧倒されるほど凄まじい魔力が感じられた。間違いなく幻石だろう。これでもう此処に用は無い。
俺は幻石を懐に収め、地図を広げた。紙面を見る限り、思っていたよりも複雑な造りでは無い。閉塞感を受けていただけのようだ。
俺は地図で迷路の出口までの道筋を確認し、エレニの亡骸の傍らを抜け、部屋を出ようと一歩足を踏み出した。
「げほっ」
だが突如聞こえたくぐもった咳に、俺は驚いて振り返った。まさかエレニを仕留め損なったわけではあるまい。普通の人間が眉間を矢でぶち抜かれて、生きているわけがないのだ。
となると――
「エレニの奴か。素人が」
俺は呟き、石碑の前で倒れているキュテリアの元へ駆け寄った。彼女は矢の突き立った胸を不規則に上下させ、苦しそうに顔を歪めていた。
「おい」
見下ろして声をかけると、キュテリアは薄っすらと碧い眼を開いた。俺の姿を見ても彼女は驚いた様子一つ見せず、ただ一言、「綺麗な白」と呟いた。エレニが死んだことに気付いているのか、いないのか、それすらも窺えない表情だ。
「エレニは下手ね。こんなことなら弓なんて使わずに、剣でバッサリやってくれればいいのに」
口の端から血を零しながら、キュテリアは苦笑を浮かべた。俺は「全くだ」と頷いて、護身用に持ち歩いている大振りのナイフを取り出した。
「楽にしてやるよ」
だが、キュテリアは緩々と首を横に振った。
「溺れ死ぬくらいなら、エレニに守護石を託して、彼に弓で射ってもらった方が楽に死ねると思ったけれど――まさかエレニが、守護石の力を狙っていたなんて」
「まぁ、よくある話だな」
「でも、胸を矢で射られても、私は死ななかった。この命が神様に託されたものなら、この国の最期を看取ることが、巫女である私の使命。もう自ら死を望むことはしないわ」
「その口振りからすると、『津波を呼んで国を沈める』と言っていたのは出任せか。追及する気も無ければ興味も無いから、別に詳細は話さなくていいけどな。ただ、そうやって神を信じてじわじわと溺れ死ぬのは、はっきり言って苦痛以外の何物でもない。いいのか?」
尋ねると、彼女は穏やかに微笑んだ。
「後悔はしないわ、きっとね」
「『きっと』は無い。そういうものだ。気が変わったら、俺がここにいるうちに言ってくれ」
そう言い残して、俺は踵を返した。遅延魔法はさすがに切れる頃合だろうし、こんなところで時間を食っている場合ではない。ソラのことも探してやらなければ。
「さて……あの馬鹿はどこにいるんだ?」
呟き、俺は神経を張り巡らせて、ソラの魔力を探した。だが幻石のように向こうから勝手に存在を伝えてくるような強い魔力ならともかく、ソラの小さな魔力の位置を正確に特定するのは、いくら俺でも骨が折れる。
「!」
ようやく感じ取れた魔力を追いかけてみると、ソラは迷路の中を彷徨っているようだった。
水が迫り始めたのか、それとも何か別の理由があって、場所を動いたのか。いずれにしても、ここでのんびりしている場合ではないようだ。俺は部屋を出ようと、石の扉に手をかけた。
「ねぇ」
声を掛けられて、足を止める。振り返ると、キュテリアは胸に突き立っていた矢を引き抜いたのか、胸元を真っ赤に染めていた。赤い血は水面へと流れ込み、その水面には、彼女を取り囲むように白い花が浮いていた。
「貴方は誰?」
尋ねられ、答える代わりに尋ね返した。
「死ぬ術ならいくらでもあるだろうに。おまえはなぜ悪役になろうとしたんだ?」
するとキュテリアは小さく笑った。
「縋られるなんて、もうたくさん。それだけよ」
「…………」
泉に注ぎ込む水音が、一層激しく鳴り響き始めた。津波は遂に、この神殿を呑み込んだらしい。内部が浸水するのは時間の問題――いや、ソラが移動しているということは、既に浸水が始まっている可能性も捨てきれない。そうなると、妖精の姿で果たして逃げ切れるかどうか心配だ。ソラの飛ぶ速度は、俺がただ走るよりも遥かに遅いのだ。
その時不意に、キュテリアが掠れた途切れ途切れの声で、歌を奏で始めた。
海辺で聞いた、あの美しくも哀しげな旋律だ。
その哀しい音色は、異様に俺をざわつかせた。勢い良く扉を開けて、通路へ飛び出す。
「ソラ! ソラ、どこにいるんだ!?」
通路を駆け、珍しく声も張り上げた。
「ソラ!」
しかし、走れど走れどソラの姿は無く、行き当たるのは、静寂を湛えた壁ばかりだった。
「くそ……時間が無いというのに」
確かに近くにいるのは感じる。キュテリアのいる部屋から、そう遠くない場所。だが、見つからない。
「…………」
ソラは不老長寿だが、それでも彼は呆気なく簡単に当たり前に死んでしまう。
〝次は探さないからな〟
俺が海でソラに言った言葉を、彼はこれっぽっちも、本気にしていないだろう。だが、俺の足はソラの魔力から徐々に離れて行き、今俺は迷路を抜けて坂を登った先――神殿地上部へ続く扉の前に立っている。
扉に手をかけ、押した。自分の行動に吐き気がした。
「?」
だが、扉はビクともしない。今度は引いてみた。
「!?」
やはり動かない。持ち上げても、横に滑らせてみても、ウンともスンとも言わない。
どういうことなんだ……。
困惑して途方に暮れた俺の周りには、ただ、キュテリアの紡ぐ歌が流れていた。
――――




