アクアマリンの孤独 3-3
なぜ巫女の身に呪いがかけられたのか。――もちろん、そんなことに興味は無い。だが、この時エレニが少しでも先刻の彼の言葉に相応しい表情をしていたのなら、俺はその神官から幻石を奪うことを躊躇ったかも知れない。神官である彼の存在と神の力を宿した守護石は、この国が水底に沈んだ後、生き延びた民を導くのに不可欠な力であるに違いないのだ。
「……本当に、祈っていますよ?」
しかし俺が扉の隙間から見たのは、狡猾な毒蛇のように、残虐に光る双眸だった。俺に向けていたような笑みは、そこに一欠片足りとも浮かんでいない。穏やかで優しそうだったあの顔は偽物で、今浮かべている犯罪者面の方が本物なのだろう。
道理でエレニのことを好きになれなかったわけだ。
「まさか同じ穴の狢だったとはな」
俺は開きかけていた扉の奥に足を踏み入れた。僅かに見開いた眼でこちらを見た神官の表情は、最早その冠に相応しいものでは無くなっていた。
「守護石を不当な輩から守ることが神官と巫女の役目か。その神官と巫女が二人とも不当な輩だった場合はどうするんだ?」
俺はニヤリと口の端を上げ、首を傾げて見せた。
「同族同士、仲良くやろうじゃないか。……エレニ、その石をこちらに渡してもらおうか」
「何を仰っているのですか、旅人様」
「おまえが守る者でなく貪る者なら、容赦はしない」
「守護石のことをどこで嗅ぎ付けてきたのかは知りませんが、そんな無防備な格好で、何をしようと言うのです」
エレニは愉しげな笑みを浮かべ、弓につがえた鏃の先端を、俺に向けた。笑いながら人を殺しにかかれる奴に、まっとうな人間はいない。
「溺れ死ぬより、楽だと思いますよ!」
ヒュォンッ!
小気味良い風切り音が鼓膜の上で踊り、飛んできた矢は見事、俺の胸に突き立った。所詮、戦闘とは無縁に生きてきた神官の弓術だ。その気になれば回避できたが、兎にも角にも時間が無い。ここは不死身を見せつけて、さっさとカタを付けるのが吉だろう。
だが彼を殺すか否かは迷いどころだ。思えば迷路の入口に、ソラを置いてくるべきだったのだ。行きは幻石の魔力を辿って来られたが、帰りは目印になるものがない。
突き刺さった矢は、俺の胸元に鋭い痛みを植え付けた。だがこの程度の痛みには、この数百年ですっかり慣れてしまった。俺はエレニによく見えるように、右手でゆっくりと矢を引き抜いた。赤い血の雫がポタポタと床に滴り落ちる。
「随分、頑丈なんですね」
エレニは僅かに動揺した様子を見せたが、素早く次の矢を取り出し、今度は頭を狙ってきた。
俺は敢えて何もせず、じっと黙って彼の矢が放たれるのを待った。
「あはは、怖くて声も出ませんか?」
怖いだなんて、馬鹿げたことを口にする。俺がちっとも動揺していないことに気付いていないのだろうか。
「今度こそ楽にして差し上げます」
エレニは笑って、その指先から、俺の頭部へ向けて矢を放った。鋭い鏃が表皮を容赦なく突き破って頭蓋を穿ち、脳髄まで潜り込む。その強烈な衝撃に、俺はその場に崩れ落ちた。手足に感覚が無い。これまで何度もしてきたことだが、やはり頭は辛い。
床の上に倒れている俺に、エレニは満足気な様子で、嫌味ったらしい祈りをくれた。
「貴方の安らかな眠りを祈りますよ、旅人様」
彼は俺の傍らを通って、部屋の出入り口へと向かった。何か紙面の擦れ合うような音がする。
俺は引き摺るように腕を動かし、額に突き立っている矢を握り込んだ。力を入れて、ずぐりとそこから引き抜く。頭部に潜り込んでいた部分からは、血液だけでなく、何やらわけのわからない液体も一緒に絡み付いてきた。
手足の感覚が鮮明になり、俺は深く息を吐く。まだ頭痛があるが、構わず立ち上がった。
「エレニ、一つ聞きたい」
「!?」
バッ、と音がしそうなほど激しい動作で振り返ったエレニは今度こそ明確な驚愕と恐怖をその顔に浮かべた。そんな彼に、俺は冷酷な笑みを向けてやる。
「その手に持っているのは、迷路の地図か?」
殺したはずの男が死相も見せずに立っている。そんな現実を受け入れられないのか、エレニは目を見開いてガタガタと震え始めた。これまでに何度も目にしてきた、ありふれた反応だ。
「そんな……確かに、矢が額に……」
エレニは譫言のように呟くが、俺の質問には答えない。だが彼の手元にある紙面に迷路の地図が描かれているのがはっきりと見えたので、その答えも不要になった。
同時に、エレニの存在も。
「おまえと違って、一撃で仕留めてやる。〝目には目を、歯には歯を〟が俺のやり方だが――胸に刺さった分の矢は、オマケしてやるよ」
俺は手にした矢の一本に魔法をかけ、それを弓の形に作り変えた。エレニは、ただでさえ大きく見開いている目を更に見開いて俺を凝視した。
「や、やめっ……そんな、まさか貴方は本当に空の――」
言いかけたエレニの眉間を、ギリギリと引き絞った血塗れの矢で貫いた。
「……そんなわけないだろ」
俺が本当に空の神だったら、今頃こんな苦労はしていない。




