2 仮装の宴
Den Haag, HOLLAND
フランクだって、ダンスというものは知ってる。ただ、自分が踊る、なんてことは考えたこともなかったのだ。ランベルトが教えてくれたステップはバス・ダンスとかいうやつで、足の裏を床に擦りつけるように動く。飛んだり跳ねたりするんじゃなくて、ゆっくりと這うように。これがまた意外と疲れる。女の子の手をとって、と考えるとそれだけでもうぐったり疲れる。
そうは言っても逃げられるわけもない。ターバンをぐいと目深におろし、ハーグ宮ビネンホフの大広間へと足を向ける。陽気な祝祭の楽が奏でられ、ひとびとのさざめきも愉しげであるのだが、フランクの足は重い。
「フランク? もしかして、ボールセレのフランク?」
毛むくじゃらの野人の仮装に仮面までつけた男が、軽すぎる声をかけてきた。とまどいながらうなずくとマスクを外し、軽薄そうな顔を見せる。
「イェハン・ヴァンフリート。オレのこと、覚えてない?」
「失礼。その恰好だとさすがに……」
焦って誤魔化す。確かに顔は覚えてなかった。仮装してなくたって、おそらくわからなかっただろう。けれど名前は覚えてる。こいつも本来鱈寄りのはず。
「鱈党の若いのも集まるって聞いたが、ほんとなんだな」
ヴァンフリートが声を落した。姫を狙って、と言ったような気がしたが、うるさくてよく聞こえない。
「トーナメントは、フランクも出るんだよな?」
ここでまた声を高くした。そうでないと聞こえない。
「まあ一応」
「どっちの部?」
「もちろん従騎士の部だ」
応えてから思い出した。そう言えばこの男、つい最近叙任されてる。ウィレム伯の庶出の娘と結婚したから。ノーラがそう書いてきた。「姫」はつまり、他の庶出の娘のことか?
「それは良かった。おまえとは当たりたくないからな」
嬉しそうな顔で続ける。
「イスラム海賊の血をひくボールセレ一族は、恐ろしく強いって話だし」
唖然としたフランクの肩を叩き、イェハン・ヴァンフリートは立ち去った。
海賊だって? いったいどこからそんな話が。ムーア風の仮装のせいとも気がつけず、フランクは頭を振った。通行料はせしめたかもしれないが海賊行為はやってない。髪の色が赤っぽいのも、イスラムとは関係ない。
それにしても、みんな妙な恰好だ。知ってるものもほかにもきっと多いはずだが、まったく誰だかわからない。女装した男もいれば、男装の女の子もいて、つい「ジャック」を探してしまう。姫とはあれから会ってない。エノーの城であっさり帰れと言われて以来、一度として会ってない。
ウワサではいろいろ聞いてる。ノーラからの手紙でもいろんな話を聞いている。だから身近に感じてしまうが、実は二度会っただけだ。あれから四年近く経っているから、もう小さな子どもではありえない。それはちゃんとわかっているのに、思い出すのはあの姿。シャツと脚衣に金の鎧の、生意気だけど可愛い子ども。ル・ケスノワの城で見たお姫さまの恰好よりもあっちのほうが可愛かった。だけどあのジャックにならば、仮装でなくて素のままの自分で会いたい。高貴なヤコバ姫でなく、もう一度「ジャック」に会いたい。そして素直に語りたい。お気に入りの本の話、わくわくする物語。
音楽が大きく鳴りだし、踊りが始まる。珍妙な仮装の男女がしずしずと中央に出て、優雅なバス・ダンスを踊り始める。仮面をつけているものもいれば、つけてないものもいる。姫の席と思しき檀上の座は空席だから、どこかで踊ってるんだろう。少年に見える姿を無意識に目で追ってしまう。
「ムーアの殿は、どなたをお探し?」
眼の前で尼僧が微笑む。白い布で縁取られた小さな顔。紅をさしてない唇が、それでも紅くふっくらとして色っぽい。
「兄さま?」
「あ」
「あ、じゃないわよ」
尼姿の妹ノーラが眉を寄せる。
「いや、ずいぶんキレイになったと思って……」
「お世辞なんか言わなくていい」
「久しぶりだな。元気か?」
「もちろん。伯妃さまがご不在だもの」
そこだけ小さな声で言って、ちらっと紅い舌を見せる。
「兄さま、槍試合に出るんですって?」
「うん」
「がんばってね」
ノーラはそこで向きを変えた。誰かに話しかけられて、そちらに進む。ひとの群れが割り込んできて、姿が見えなくなってしまう。
「ノーラ」
呼びかけて、後を追った。もう少し様子が聞きたい。手紙では聞けないことを。文字にはちょっとできないことを。つまり、もっと「ジャック」のことを。柱の影でようやく追いつき、尼僧の黒衣に手を伸ばす。
「ノーラ」
振り返った顔を見て、フランクは絶句した。ノーラじゃない。
すんなり通った鼻筋に、きりりと弧を描く細い眉。晴れた秋の空のような、澄み切った色の瞳。その眼が大きく見開かれ、結ばれていたくちびるがふっと綻ぶ。
「姫……」
「『ジャック』でいい」
「ジャック」の顔で、高貴の姫が微笑んでいる。化粧っ気のないその顔は、四年前と変わらない。強く輝くこの瞳。嬉しそうなこの笑顔。
「トーナメントは絶対に優勝しろよ。そしたら、今度こそゆっくり話せる」
息を呑んで姫を見つめる。
「ジャンも伯妃も不在だからな」
そしてぐいと腕をつかみ、フランクを引き寄せた。
「今度こそ、必ず」
爪先立ちして耳元にささやいて、そしてすいとからだを離した。尼姿の小さな背中は、すぐにひとに紛れてしまう。フランクは呆然と、ただそこに立ちすくむ。今度こそ、ゆっくり話せる。今度こそ、ふたりで話せる。今度こそ、必ず。
姫の短いささやきが、脳髄に沁み込んでいく。ジャックこそおれの姫だ。必ずわたしを勝ち取って。そう命じるおれの姫だ。だから、必ず。