3 ふたつの出会い
「フランクは、ほんと変わってるよね」
シテ島にほど近いパリの隘路を歩きながら、ランベルトが呟いた。
「そうかな?」
「そうだよ。領主さまの跡取りなのに、ぼくらなんかと仲良くするし」
「うちは本来『鱈』だからな」
「『鱈党』だって、仲良くなんか普通なれない。そりゃまあ、『釣り針』貴族よりはマシだろうけど」
おおざっぱに分けるなら、鱈党は新興の都市系だ。都市に住んで財を成し、そして貴族になったもの。あるいは都市に保護を与え、共栄をはかるもの。対する釣り針党のほうは、封建保守勢力だ。ボールセレは由緒ある貴族なのだが、商売は確かに巧い。だから鱈党のほうに近いし、人脈もある。
「モノを作り出せる職人こそが、ほんとは一番偉いと思う。領主なんか偉くない。自分では何も作らず、あがりの一部を掠めるだけだ」
「そのかわりに治めてくれる。領民が平和に暮らせるように」
思わず苦笑してしまう。
「そんな建前言わなくていい」
「建前じゃない」
ランベルトには珍しく、真面目な顔でそう言った。
「建前じゃなく、ほんとにそうあって欲しい。優れたものが生まれる土地は、民も豊かで平和な土地だ。フランクならできると思うし、わかってもいると思うな」
「なかなかそうもいかないんだよ」
フランクは息をついた。騎士の息子は戦に行くのが宿命なのだ。戦に行って武勲を立てて、それでようやく「騎士」になれる。騎士でもない領主さまは舐められるし攻められる。弱いやつを攻めて斃して、領土を広げてきたのが「貴族」だ。正義ではなく私欲のために、剣を奮ってきたのが貴族。物語のなかの騎士とは全然違う。騎士道精神なんてものは、王侯だけのお遊びだ。
そしてたとえ強くなっても、それで安泰ともいかない。鱈党の首領アルケル卿がいい例だ。アルケル卿は強かったのだ。神聖ローマ帝国皇帝から封じられた正統なるホラント伯に、弓を引けると思うくらいに。けれど、もうおしまいだ。ウィレム伯はまた攻めている。参戦しろと言われたら、ボールセレも従うしかない。オーデとノーラを出している今、鱈党にはもうつけない。
「思うようにいかないのは職人だっておんなじだ。ぼくなんかヘボだからさ」
ランベルトがため息をつく。
「ヘボじゃないだろ。おれの歳には、もういっぱしの絵師だった」
「見習いだよ。今だって」
迷路のような小路の奥の、小さな扉を彼は開いた。独特の匂いが鼻をつく。食べ物の匂いではなく、糞尿の類でもない。不快というほどでもないが、うっとりする香りでもない。画材の匂い、媒材にするタマゴの臭気。見たところ室内は片付いていて、清潔だ。写字台に似た傾斜つきの作業台が五つほど並べられ、作業中のフォリオがそれぞれにのせてある。中庭に面した窓が開け放たれて、外光が差し込んでいる。
「弟を紹介するよ。ヨハネス?」
ランベルトが声をかけるが、返事はない。職人の姿は見えない。
「庭かな?」
中庭を覗いている。残されたフランクは、作業台の挿絵を眺める。一枚目はアーサー王の物語。火刑台の王妃さまをランスロットが救うシーン。ドラマチックな表現はあきらかにランベルトの筆だ。王妃さまの表情がいい。二枚目のは華やかな植物模様の枠が描きかけの状態で、テキストはありふれた祈祷文。フランス風の華やかな飾り枠に、小動物が描きこんである。うさぎや小鳥が愛らしく、手慣れた筆致。
三枚目で足が止まる。これも同じシリーズらしく文字は同じ書体だが、装飾枠の下部にある絵が迫真している。ごく小さな水差しが、まるで飛び出すように見える。ありふれた錫の水瓶が、日差しを鈍く反射している。その部分があるために、それが錫だとはっきりわかる。銀じゃなく、これは錫だ。良く見ると、白く光って見える部分に十字状のものがある。十字型の窓枠だ。窓の光を映しているのだ。窓の外には誰かいる。誰か外に立っていて、シルエットになって見える。針の先でついたようなほんの小さな点なのに、それがひとの姿に見える。
「巧いな」
ランベルトでない声が背後で呟き、びっくりして振り返る。被り物で顔を覆った少年がそこに立ってる。
「お前の絵か?」
「いえ。おれはただの友だちです」
「ほう」
すらりとした体つきだが、フランクよりは背が低い。肩幅もさほどではなく、胸板もまだ厚くない。たぶんいくつか年下だろう。なのにえらく落ち着いていて、なんだか妙に貫禄がある。
「あなたは?」
「私は客だ」
声変わりがすぎているのかいないのか、判然としない声。大声ではないけれど、はっきりと通る声。大きく青い目の上に、きっぱり横に引いた眉。見えるのは目と眉だけなのに、印象に残る容貌。
「そっちのも悪くないな。ヘタクソだが」
四枚目の絵を指して、「客」が言った。
「この『イアソン』は」
ランベルトのだ、と言いかけたとき、「客」の目がフランクを見た。
「友だち、と言ったな。お前も絵師か?」
「いえ。単に物語が好きなんです」
「どこから来た? その訛り、フランドルか?」
「ホラントです」
咄嗟に誤魔化す。
「注文するのは到底ムリな小商人の子倅なので、残念ながら見るだけです」
「だが、これが『イアソン』だとはわかるわけだ」
「アルゴ号の冒険譚は大好きですから」
「奇遇だな。私もだ」
楽しそうなその口調に、ふいに「ジャック」を思い出す。初めて会ったときのジャックとなんだか似ている。このひとも、物語が本当に好きなのだ。
「この物語はエダンの城の壁画になってる。だから私は子どもの頃から知ってるんだが、君は本で読んだのか?」
「そうです」
「ラテン語で?」
「確か」
「なるほど」
「これはあなたの注文ですか?」
「残念ながら、そうじゃない」
「では、どれが」
「ここにはないみたいだな。君、名前は?」
ギクリとしたとき、顔を覆った布が外れた。鼻筋のはっきり通った端正な顔。このひとこそ、「お忍び」か?
「若さま!」
外から焦った声が呼ばわり、「若さま」が舌打ちをした。
「見つかってしまった。君の名は?」
「フランク」
「フランク。覚えておこう」
「若さま」はディーツ語で呟いて、にやっと笑って外に出て行く。細長く華奢な脚を、思わず目で追ってしまう。上衣の丈がやけに短く、脚衣は妙にぴっちりしている。筋肉の動きまで、はっきりわかる。華奢に見えるがひ弱ではない、力強さのある脚だ。
「フランク」
ランベルトが小声で呼びかけ、振り返った。
「ぼくの名前、言ってないよね」
「言ってない。言ったほうが良かったのか?」
「ヘタクソだって言われた」
「聞いてたのか」
馴染みの絵師は目に見えてしゅんとしている。
「だけど、『悪くない』とも言ったじゃないか」
「悪くないけど、良くもない。巧くはない」
「ランベルト?」
「フランク。正直に答えろ。この中で一番巧いのはどれ?」
「これ」
三番目の錫の水瓶を指差す。その後、まだ見てなかった五枚目に目をやって息を呑んだ。
「いや、こっちだ」
そこにあるのは海岸だった。はっきり覚えのある景色。間違いなく「ホラントの」海岸だ。延々と砂丘が続き、海にはさざ波。一本マストのコグ船が二隻浮かび、一隻浜に着岸している。手前にはしょぼしょぼと灌木があり、そこに蝶が飛んでいる。着彩でなく、線描だ。灰色の繊細な線で描かれた、おそろしく細かい素描。これは書物のページではなく、ただのスケッチなのだろう。良く見ると、華麗な書体で何か文字が書いてある。
ヨハネス・ド・エイク 1411
「弟のだ。二枚とも」
言葉が出ない。素人目にも大差がわかる。わかってしまう。ランベルトがはっきりと息をついた。
「ぼくはヘボだって、わかっただろ?」
「ヘボじゃない」
フランクは繰り返した。
「君の絵はおれは好きだ。巧いのは弟かもしれないが、君の絵も悪くない」
「ムリしなくていいよ。ここにあんたを連れてきたのは、これを見せたかったからだ。弟は、桁外れに腕がいい。だけど認められてない」
「認められてない? どうして?」
「注文通りに描かないし、描きたくなければ絶対描かない。見たことないものは描けないとか言い張って、想像上の動物とかは描こうとしない。この水瓶のとこだって、注文は人魚だったんだ。引き取って貰えなかったら、と思うと胃が痛いよ」
「なるほど」
「それより、さっきのやつ」
ランベルトは話題を変えた。
「さっきのやつって、『若さま』か? そう言えば、ディーツを喋った」
「喋った? あいつがディーツを?」
絵師の眼がはっきりと見開いた。
「ランベルトはあのひとを知ってるのか?」
絵師はそれには応えない。
「発音、きれいだった?」
「少なくとも、はっきりと理解できた」
「食えないヤツ」
ランベルトは呟いて、ニヤっと笑った。見慣れた顔に戻ってる。
「あいつの顔、ちゃんと覚えた?」
「あれは忘れないと思う」
「フランクは、ひとの顔をすぐに忘れる。あいつはけして忘れない。名前を聞かれたってことは、あんたのことは絶対に忘れない」
「誰なんだ?」
「ぼくも名前までは知らない」
「じゃあ、何を知ってるんだ?」
「凄くキケンなやつだってこと」
「キケン?」
「あいつになんか貰ってふらふらっとなっちゃった女の子、十人くらいは軽く知ってる」
「なんかって?」
「花とかお菓子とかだけどさ、それだけでメロメロになっちゃうんだ。正体不明の貴公子で、町娘にも甘い言葉をほいほいかける」
「ウィレム伯もそうだろう。伯も庶子は相当いるぞ」
「多分、桁が違うと思うよ」
話はここで終わったが、忘れられない会話になった。ランベルトの弟の絵のことも、謎の貴公子のことも。