2 写本工房
Paris, France
ル・ケスノワの城に別れを告げて、ただ一騎南下した。コンピエーニュで日が暮れて、一泊するハメになった。空模様も怪しかったため、野宿はやめて宿をとった。自分だけなら安く済むと思っていたが、思ったよりずっとかかる。翌日パリの市門をくぐる頃には、フランクの懐はすでに寂しくなっていた。一抹の不安を感じ、路銀を半分、母に押し付けてきたせいもある。
現金は持ってなくても、金に換えるものはある。筆写した手稿がひと束、懐にはいってる。もともとこれは換金目当てで携帯してきた。情報が正しければ、これは高く売れるはず。そう教えた男の顔を思い出す。あいつの言葉は信用できる。
ただ売り先は教えなかった。だから別から聞き出した。その住所をたずねあて、緊張して門を叩く。パリの町の裏通り、どう見ても「裏口」だ。不似合いな分厚い扉に小さな覗き窓がある。掛け金がはずされて、小窓が開く。
「あるものをお持ちしました。こちらでお探しと聞いたものです」
下男と思しき初老の男が窓から覗き、胡散臭げな顔をする。
「あるもの?」
「『光学の書』ラテン語の完訳版」
低い声でささやくと、眼の前で小窓が閉まった。これはダメかと思いつつ、しばらくそこで待ってみる。諦めようかと思った頃に、ゆっくりと扉が開く。今度は立派な身なりの男。
「ここのことを、誰から聞いた?」
「それはちょっと言えません」
わざとにっこりして見せる。
「そう約束していますから」
「フランス語に訛りがあるな。ホラント人か?」
「そんなとこです」
すぐ南のゼーラントだが、まあそれはどっちでもいい。素性は伏せて売れとも言われたし、写本屋で本名など名乗らない。
「まあいい。見せてみろ」
やっと中に入れて貰える。細い通路をうねうねと抜け、やたらと広い工房に出た。回廊をめぐらした中庭のある修道院のような造りになっていて、回廊部分に写字台が並んでいる。写字生がずらりと並び、そのペンを動かしている。「写字生」だが坊さんではない。話に聞いていたとおり、世俗の職人のいでたちだ。これが噂の写本工房。教会では許されないような本でも、ここでは構わず書写されている。ペルシャ語、アラビア語からの訳本、あるいは異端とされる書物。この光景が見られただけでもパリまで来た価値がある。
「凄いですね。何人ぐらいいるんですか?」
「何人だっていいだろう」
素っ気なく男は応え、手を差し出した。
「製本はまだしていません」
用心深く、一枚だけを差し出した。一枚の羊皮紙はふたつ折にして綴じるから、四ページ分に相当する。だが、その四ページが繋がっているわけではない。あと三枚合わせて綴じるようになっているから、一枚だけでは間が飛んでる。これだけでは意味をなさない。男はそれを受け取って、低く唸った。
「完訳版、と言ったな? この間に来る部分も、この後に来る部分もきちんと全部揃っているのか?」
「もちろん」
「出所はどこの修道院だ?」
「ネーデルラントの貸本屋です」
「貸本屋? 製本前の手稿がか?」
「そこからタネ本を借りたんです。筆写はおれが自分でしました。図版も全部」
「あんたが自分で筆写した、だと? しかも図版も?」
男が大きな声をあげ、職人たちが顔をあげる。腕っぷしの強そうなのが、早速腰まであげている。
「あんた、歳はいくつだ」
「十六です」
周囲の空気がはっきり変わり、焦ってしまう。そのくらいに見えるはずだ。小さい子どもではないが、おとなにもまだなり切ってない。
「十六にしちゃ、いい身体だな」
これでも一応騎士の息子だ。鍛錬はさぼっていない。フランクもつい身構える。
「修道院出にゃ、到底見えねえ」
「そんなことは言ってない」
「こいつはかなり熟練した手だ。ちっこい頃から仕込まれてたってあんたの歳じゃ書けないはずだ」
「何が言いたい!」
「つまりあんたは嘘をついてる。盗品には金は出せない」
「なんだと!」
「お上に突き出されたくないんだったら」
「これはおれが自分で書いた。疑うなら、今ここで書いてやる。紙を一枚持ってこい!」
「面白い。そこまで言うなら書いて貰おうじゃないか」
にやにやしながら男が言った。
空いていた作業台に線引き済の紙が乗せられ、そして鵞ペンが渡される。ペン先を確認し、ため息をつく。これじゃ書けない。
「からかうのはよしてくれ。同じ書体で書くんなら、これじゃダメだ」
そばにいた若い男が、別のペンを渡してくれる。確かにこっちならまだマシだ。懐からナイフを取りだす。
「そのままでいい。そいつを削られたら持ち主が困る。それで書いてるとこなんだから」
男の制止に頷いて、最初のページを書きだした。このあたりは難しい文じゃないからすらすら書ける。ラテン語のテキストを声に出して読み上げながら、書き写していく。こいつは多分機密文書だ。このあたりはどの版にも載ってるが、まん中あたりが違うらしい。技術的な内容だからフランクもよくわからない。専門知識のある職人が読むならば……
「フランクじゃないか」
唐突にディーツ語で声がかかって、しくじった。インクが小さく沁みを作る。
「あ、ごめん」
軽い声で謝ったのは、旧知の男。いつか挿絵を描いてくれた、写本絵師だ。
「ランベルト? なんでここに?」
「なんではこっちのセリフだよ。ぼくは写本絵師なんだから、ここにいても不思議じゃない。だけどあなたは」
「ランベルト。あんた、この子と知り合いか?」
最初の男が声をかけ、ランベルトが頷いた。
「この子って、親方。このひとが誰か知らずに……」
言いかけてフランクを見る。
「今はお忍びみたいだし、ぼくもやっぱり黙っておきます」
「お忍びだって?」
親方と呼ばれた男が、はっきり慌てた顔になる。
「父にバレたら叱られるから、今は名は名乗りたくない。けれどこれは盗品じゃない」
「そこはちょっと微妙だけどね」
ランベルトがにっこりとした。
「『光学の書』の欠損部分は、あえて秘密にした部分だろ? それが入っているとしたら」
「ランベルト、黙れ」
親方が青くなった。
「親方。あんたが探してくれと言った。だからぼくが伝えたんです。このひと自ら持ってくるとは、ぼくも思いもしなかったけど」
「つまり、これはマズイものか?」
だんだん不安になってくる。
「『とびきり良い値になる』っていうのは、『何かある』ってことですよ」
写本絵師がにっと笑った。この男もまだ若い。フランクより年はいくつか上だというが、そうは見えない。どう見てもまだ「少年」だ。けれど世間は良く知っている。
「名乗るなと言われたときに、あなたも気づいていたはずだ」
「政治的なことだと思った」
そちらなら、フランクだっていくらか知ってる。鱈と釣り針。フランスとイングラント。アルマニャックとブルゴーニュ。複雑に絡み合う、いくつもの対立関係。
「アルマニャック」と「ブルゴーニュ」はフランスの実権をめぐって対立している。今上のフランス王は精神に異常をきたし、自分では政務を執れない。王弟オルレアン公とブルゴーニュの無畏公閣下が実権を争ったのだが、王弟殿下は暗殺された。代わってブルゴーニュと対抗するのが、オルレアンの後継ぎシャルル、その義父のアルマニャック伯。若年の新オルレアン公よりも義父のほうが力を握り、「アルマニャック」派と呼ばれるようになっている。王弟オルレアン公暗殺の黒幕は無畏公閣下であると知れても、パリは無畏公のほうを支持した。だから、今のところはブルゴーニュ派がここでは優勢。だからこそ、フランクは今パリに来ている。ホラント伯妃マルグリットは無畏公の妹だ。その娘がヤコバ姫だ。母と妹がヤコバ姫の宮廷にいるわけだから、フランク・ファン・ボールセレは当然ブルゴーニュ派とみなされる。だが、この工房がどちらよりかはわからない。用心は、しておくべきだ。
「そうですね。政治的なこともありますね」
ランベルトは意味ありげににやにやとして、親方を見た。
「このひとが詐欺師の類じゃないことだけは、このぼくが保証しますよ。改変するなんてことはこのひとにはできないし、誤写もしないと評判だ。この手稿、買い取りますか? 親方が要らないなら買い手はほかにも……」
「わかった、わかった」
親方はぶつくさ言いつつ、聞いていた値を払ってくれた。これで当座はなんとかなる。
「助かった。礼に、一杯奢るよ」
「貸しとしてつけときます」
写本絵師はまたにやっとした。
「それよか、うちに寄ってきませんか? ここよかずっとちっちゃいけど」
「もちろん」
パリに来た目的は、ほんとは写本工房だ。ランベルトがパリに行ったときから、いつか訪ねてみたかった。ホラントやゼーラントにも写本工房はないわけじゃない。けれどパリとは規模が違うし、ほとんどが修道院に付属している。だがパリなら世俗の書もたっぷりとある。つまり、物語の本がある。
フランクは信心深いほうじゃないし、学者肌というわけでもない。なのに「本が好き」なのは、物語が好きだからだ。そして本に描いてある絵。綺麗な飾りも魅力的だが、物語のある絵が好きだった。一枚の小さな挿絵が物語の世界に誘う。ロマンチックな騎士物語。夢のような恋に冒険。
実際騎士の子でもあるが、物語のようにはいかない。物語の中の騎士なら、金に苦労したりはしない。円卓の騎士ならば変わらぬ忠誠心を貫き、日和見で主君を変えたりしない。現実とははっきり違う。違うからこそ、その夢に遊びたい。夢の世界を描き出す、絵師の世界を覗いてみたい。語学や武芸を磨くより、夢の世界に遊びたい。