11 塔の上で
そしてここ、ルッペルモントに移送された。首はまだ、落されてない。
鉄格子に手をかけて、フランクは外を眺める。いつ見ても良い眺めだ。死刑囚の獄屋にしては上等すぎる。待遇だって悪くない。寝具はきちんと揃っているし、食事もけっこう贅沢だ。鎖なんかもついてないから、からだは自由に動かせる。走り回る広さはないが、軽い鍛錬ならできる。
斬首になる日を待っていた。
刑場こそが最期の舞台だ。姫の騎士に相応しく、堂々と死んでやる。それだけがおれの望みだった。ほかのものは見事に死んだ。イェハン・ヴァンフリートの無残な死さえ、心から賞賛したい。そしておれも続きたい。おれはヤコバ姫の騎士で、姫こそが正しい女伯だ。称号だけのものであっても、命を賭けるに値する。貴女がそう命じるならば、喜んで、おれは従う。
おれは貴女を裏切った。貴女の敵の側につき、貴女の敵をおれは庇った。すべてをひとつにまとめてみせる。言い切ったそのひとを、それができる善良公を、身を挺しておれは庇った。だからこそ平和が戻り、スヘルデ川には軍船ではなく商船が行き来する。だから、これで良かったんだ。ランベルトがいつか言ったとおり。
それでもおれの心は違う。おれの心は今も変わらず、貴女だけを求め続ける。貴女の心がおれになくともおれの心は貴女を求め、断ち切ることなど到底できない。だからおれは斬首を選ぶ。善良公に逆らって、貴女の伯位の為に死ぬ。それだけがおれの望み。だから悔いることはない。
けれど斬首の日は来ない。夜が日毎に長くなり、冷たく凍える冬になっても。やがて日が長くなり、謝肉祭の夜になっても。
死刑囚の房だというのに上等の肉が出され、謝肉祭の日だと知った。同時にノーラの手紙も届いた。兄の身を案じる手紙。裏切り者と言われて以来ずっと音沙汰なしだったから、これはとても嬉しかった。あきらかに検閲の痕があったが、斬首が撤回されてほっとした、とは書いてあった。返事を出すのは許されなかった。そして、紙もなかった。
ノーラがくれた手紙の裏は白紙のままになっていた。手紙を出すのは許されなくても書くだけならばと思ったけれど、ペンもなかった。あるのはただ膨大な時間だけ。空白のときだけだ。空白の紙を見つめ、そして過去を思い出す。もしもおれが年代記を書くとしたら、私的な記録をつけるとしたら、書き出しはキューケンホフだ。ティリンゲンの裏の庭。「ジャック」と出会ったあの菜園。
頭の中で書きだした長い記録がこの塔までたどり着く頃、肉断ちの四旬節も終わりに近づき復活祭が近づいた頃、つまり春になったある日、いつもと違う足音がした。物憂げな牢番のものとは違う、軽やかな音。あきらかに、女性の足音。ノーラ? きっとノーラに違いない。弾む心で扉を見つめる。
ゆっくりと鍵が回り、獄屋の扉が静かに開く。そこに立つ男装のひとを見て、おれは息を呑みこんだ。
「わたしの顔など、見たくないか?」
静かな声でジャックが聞いた。
忘れ得ぬひとの姿を、見たくないはずがない。けれどおれは言葉が出ない。自分の眼が信じられない。ここにジャックが来るはずがない。
「もうわたしは妻じゃないのか?」
伝令のような姿でジャックが聞いた。化粧っ気のないその顔は、いくらか拗ねたように見える。
「秘密にしろと貴女が言った」
「だから認めなかったのか?」
「認めたら、貴女は伯位を失くしてしまう」
「伯位がなければ、わたしなんか用なしか?」
「そんなはずないだろう!」
ジャックの瞳に涙が光る。
「初めておまえに会った日に、格が違うとわたしは言った。フランク・ファン・ボールセレは王家の血はひいてない」
「王家の血をひいてないから、高貴の血をひいてないから、騎士になるのも難しい。ウィレム伯はそう言われ……」
「そして母は笑い飛ばした。ボールセレなど貴族ではない。金儲けが上手なだけの、ただの成金。ノーラから、聞いてるはずだ」
さんざん侮辱されたことは、もちろん聞いてる。その度に、姫が庇ってくれたことも。
「だからこそ、おまえの子を産みたかった。フランクの子どもを産んでホラント伯にしたかった。王家の血などひかずとも、おまえこそが上に立つもの。近親婚で腐り果てた、王家の血筋を浄化するもの」
「血筋なんか、どうだっていい!」
「おまえはそう言いきれる。それこそが、おまえの強さだ」
涙に濡れた瞳が見つめる。
「わたしにはとても言えない。伯位もないわたしなど、なんの価値もありはしない。結婚を否定するのは、命に代えても認めないのは、そういうことだとわたしは思った」
「貴女が否定しろと言った。貴女が秘密にしろと言った」
「もう顔も見たくないと、おまえは言った」
「あれからずっと、後悔している」
「命を脅かされてさえ、結婚を否定した」
「秘密にしろと、貴女が言った」
「命に代えてもとは言ってない。わたしがどれだけ心配したと……」
「ヴァンフリートは命を棄てた。アルケルのヴィムも命を棄てた。ハームステーデもゼーベンベルゲンも、みんな」
「彼らは臣下だ。おまえは違う」
「おれは」
善良公の臣下になった。おれは貴女を裏切った。
「彼らの死だってもちろん平気なわけじゃない。けれど理性は失わなかった。戦をするなら、死には直面することになる。女伯となるなら処刑も立ち会わねばならぬ。感情を殺せなければ、君主の役など務まらぬ」
そこまで言って、ジャックはちょっとうつむいた。亜麻色の細い髪が、震えて煌めく。
「けれどおまえの命は別だ。おまえの命を脅かされたら、平静ではいられない。だからこそ、隠そうとした。おまえを夫としたことは、城の誰にも言ってない。伯位よりも何よりも、おまえのことが心配だった。わたしは初めて、フィリップのことを畏れた。あのドレスを着て画架の前に立ったとき、わたしは初めて怖くなった」
「あのドレス?」
「ゲントの城で着ていたドレス。気に入りの衣装だったし、あの時にはおまえも見惚れた。だからこそ、一番取り返したかった」
言われて朧に思い出す。あの時は、首飾りに眼が行っていた。胸元に輝いていた、大粒の宝石に。
「おまえは覚えてなかったようだが、フィリップは『知っていた』はずだ。あのときの侍女たちは、フィリップの手のものだ。だから絵師の前に立つとき、『おまえの妻』ではいられなかった。注文主はフィリップで、『女伯ヤコバの肖像』だ。『おまえの妻』の顔になったら、それがあいつの耳にはいれば、思うと不安でたまらなかった。おまえの逮捕を知ったときは、気が狂いそうだった。おまえがもう生きてないなら、わたしも生きていられない。もしもおまえを斬首にするなら、毒を飲んで死んでやる。わたしははっきり取り乱しフィリップに詰め寄った。もしもわたしが矢毒で死ねば、誰もが善良公を疑う。さすがは暗殺者の子だと、誰もが納得するだろう。そう言ったらあいつは黙った」
呆気にとられて姫を見つめる。
「あの従兄は卑怯ものだ。おまえの命を盾にとり、このわたしを脅迫してきた。おまえを捕えて拷問にかけ、このわたしに脅しをかけた」
姫の頬を涙が伝った。
「わたしが平気でいるとでも、思っていたのか?」
「貴女は証明書を焼かなかった。証拠を隠滅しなかった。だからおれは」
「あれを焼いても状況は変わらない。おまえの身柄を盾にされたら平静ではいられない。それがバレている以上、あれを焼いてもしょうがない。なによりあれを焼きたくはない。一度はわたしを妻と呼んだ。その証拠を焼きたくはない」
一度は貴女を妻と呼んだ。愛されていると一度は信じた。
「おまえとの結婚も、政略だと思われている。フランク・ファン・ボールセレは反乱を企てている。そう密告するものが、あったから」
「反乱? おれが?」
「やはりおまえは知らなかったな」
「反乱など企ててない」
「ゼーラントはフランドルに、強い対抗意識を持ってる。ゼーラントの民心はフランドル人の総督など望まない。ゼーラントの総督は、おまえこそがふさわしい。そのおまえがこのわたしの手を求めた。反乱を疑われるのも、根拠のないことじゃない」
「反乱など企ててない。戦禍など望まない」
「けれどおまえは結婚を否定した。自分の命を脅かされてもわたしの伯位を守ろうとした。だからこそ、善良公は疑惑を強めた」
「正しい伯位は貴女のもので、善良公のものじゃない。おれは確かに叛意を抱いた。だから斬首は当然だ」
「おまえはそんなに死にたいのか?」
見上げる瞳に涙が光る。
「そこまでわたしを泣かせたいのか?」
姫は今泣いている。おれのために、今泣いている。
「だがわたしが許さない。おまえだけは死なせない。おまえの斬首は撤回させた」
姫は無理に笑顔を作り、声のトーンもはっきり変えた。
「おまえはわたしと『結婚してない』。命を賭けても否定したのはそんな事実はないからだ。善良公の忠臣がそんな真似をするわけがない。政略結婚のための『駒』に、わたしという『美味い駒』に、勝手に手など出すはずがない。おまえはその命を賭しても、忠心を証明したのだ」
ぽかんと口を開けてしまう。
「そういうことにしたほうが、わたしの従兄の面目も立つ」
ジャックはそこでにやっと笑った。
「おまえもわたしも結婚を認めていない。だから成立していない。つまり、『無効』だ」
「だが、ランベルトは、証人は……」
「『コンスマキウム』は見届けてない。わたしもおまえもあったことを否定している。だから成立していない」
唖然として姫を見つめる。
「ランベルトは証明書を渡して『いない』。おまえに口を割らせるために、おまえの命を助けるために、おまえにはウソをついた。証明書があることも、フィリップは夢にも知らない。あいつもはっきり否定している。フランク・ファン・ボールセレは確かに『わたし』を愛しているが、勝手な真似はしていない。肖像画の注文も、公のものとして受けた。あいつはそう言いきって、おまえのために命乞いした。結婚を認めないのは、そんな事実はないからだ。あいつはそうも言い切った。打ち合せたわけでもないのに、わたしと同じことを言った」
「ではあいつは、ランベルトは」
「わたしの従兄は卑怯者だが、馬鹿者ではない。あの絵師の正体も、最初からわかってる」
「ランベルトの? 正体?」
「『オルド』の成員。『ぼくら』とあいつが呼んでいる兄弟団の、優秀なる諜報要員」
「善良公は、それを知ってて?」
「彼らの持つ情報網は、潰すよりも利用したい。聡明なる卑怯者なら、当然そう考える」
「では、ランベルトは」
「無事だ」
潤んだ瞳で姫が微笑む。
「わたしの従兄は激しく嫉妬していたが、それゆえに絞首にするほど愚かではない。捨て身のあの命乞いには、善良公の心も動いた。おまえは良い友を持ってる」
おれの眼も、涙で潤む。
「おまえは善良公の臣下だ」
優しい声で姫は言った。
「おまえは正しい判断をした。ゼーラントを守るために、領主の責を果たすために、理性的な判断をした。善良公への忠誠は盲目的なものじゃない。おまえはちゃんと現実を見て、そして正しい判断をした。戦禍に巻き込むわたしではなく、戦禍を抑えるあいつを選んだ。だからわたしも現実を見る。名前だけの伯位より、はるかにおまえのほうが大事だ」
おれは耳を疑った。今、なんと言った?
「伯位は棄てた。おまえは自由だ」
「伯位を、棄てた?」
「おまえの自由を伯位で買った。おまえの身柄にくらべれば、伯位なんかどうだっていい」
「良くない。貴女こそが正しい女伯だ」
「そうあるべきとわたしは育った。女伯として生きることこそ、自分の定めと信じてもいた。だからこそ、ほかの男と結婚をした」
「姫?」
「ジャンと最初に『完全なる結婚』をしたとき、おまえを失ったと思った。だから伯位に固執した。それこそが、自分のつとめと思おうとした」
「貴女こそが正しい女伯だ。だから貴女は間違ってない」
「けれどわたしの心は違う。制御できないわたしの心はずっと変わることはない。巧くいかなかったのは、ブラバン公とだけじゃない。おまえはわたしのトリスタンだ。わたしのために勝ち抜いたのは、フランク・ファン・ボールセレだ。その想いはずっとわたしにつきまとい、どうしても消えなかった。だから誰とも巧くいかない」
「おれの姫は貴女だけだ。けれどそれは」
姫がその手を開いた。ダイヤの指輪がそこにある。
「ほんとはジャンにやるはずだった。ホラント女伯になるものとして、あえてディーツで言葉を刻んだ。ジャンには言ってなかったはずだが、かれはちゃんと知っていた。わたしはかれが好きだったけど、『完全なる愛』じゃなかった。私の心を完全に勝ち取ったのは、ジャンじゃなかった」
姫の手の石が光る。小さいが、ダイヤモンドだ。あの日の声が蘇る。
「わたしももう戦乱は望まない。わたしが伯位にあることが反乱を誘発するなら、むしろ伯位は手放すべきだ。善良公が平和に治めてくれるなら、伯位譲渡はやぶさかではない。けれどおまえを罪に問うなら、幽閉を続ける気なら、伯位は絶対渡さない。そして伯位を手放すからには、『わたしの自由』も渡さない。政略のための結婚なんか、二度とごめんだ。善良公に言ってやった。このわたしに指図などできると思うな。再婚相手は自分で選ぶ」
「姫……おれは」
「わたしの心を勝ち得た男は後にも先にもひとりしかない。ほかの男を押し付けるなら、再び反旗を翻す。言ってやったらスッキリとした。あの時のあいつの顔は、おまえにもぜひ見せてやりたい」
そう言った姫の顔は、誇りに満ちて輝いていた。
「わたしの心はおまえのものだ。けれどおまえの心は知らない。おまえの気持ちが冷めているなら、わたしなんかどうでもいいなら、そうとはっきり言ってくれ。わたしにだってプライドはある。追いすがるつもりはない。おまえは自由だ」
「姫、おれは……」
「フィリップには良しと言わせた。正式に、許すと言わせた。おまえさえ合意なら、シント・マールテンスダイクで盛大に式をあげよう」
「シント・マールテンスダイクで?」
「そして、おまえの城で披露宴だ」
ジャックはそっと手を重ねた。指輪の石が肌に触れる。
「イヤでなければ申し込め。おまえはわたしを勝ち取った」
ジャックを見つめる。あの夜も、そう言った。この指輪を拝領した夜。トーナメントで優勝をした、謝肉祭のあの夜に。
「ジャック」
大きく息を吸い込んで、小さな手を両手で包む。
「貴女が『姫』であったからこそトーナメントで勝ち抜けた。貴女こそがおれの『姫』だ。その想いはずっと消えない。どんなに断ち切ろうとしても、想いはけして消せなかった。ずっとずっと愛してる。多分初めて会ったときから」
「やっと、言った」
ジャックは嬉しそうに笑い、おれに指輪を返してくれた。
「Mit ganzer Lyebden, 完全なる愛をこめて。これはおまえにしかやれない」




