1 伯妃の城
Le Quesnoy, HAINAUT
エノー伯領。
この地に足を踏み入れるのはフランクにも初めてだったが、確かにエノーは「外国」だ。海のかわりに山があり、緑豊かな森がある。
ホラント伯ウィレム閣下のもとにあるのはエノーだって同じなのだが、まず土地が低くない。低き土地、ネーデルラントとは違う。地形も違えば、言葉も違う。途中通ったブラバン、フランドルまではネーデルラントの言葉を話す。つまり、ホラント、ゼーラントと同じディーツ語だ。フランス語も聞こえてくるが、ディーツのほうが断然強い。
だがエノーは「フランス」だ。エノーにはいると、フランス語しか通じない。外国人も多い旅籠屋でさえそうで、これにはちょっと驚いた。
ル・ケスノワも同じだった。森の中の美しい城、ル・ケスノワは見かけからして優美でもある。この城に比べたら、フランクの父の城などただの要塞。ティリンゲンの城ですら、無骨なものに思えてしまう。そして迎えた城のものは、慇懃無礼。言葉だけは馬鹿丁寧だが、まるで下女でも迎える態度。フランス語に慣れないノーラはもう泣きだしそうになっている。
そのまま広間に通されて伯妃さまに目通りをする。歓迎はされてないのがはっきりわかる。護衛であるフランクは、近づくことさえ制止された。扉の横に立たされたまま、平伏する母と妹の背を見ているしかない。伯妃マルグリットさまは天蓋つきの席に座し、ほかのものと応対している。その男が用を済ませて退出すると、違うものが通される。オーデとノーラは平伏したまま、ずっと無視されている。
「母上」
「ジャック」の声がはっきり響き、静寂を破ってくれた。だが、入ってきたのは「男の子」でなく「姫君」だ。絹のドレスに身を包み、円錐状の帽子を被る。宝石の輝く頂きからは、霞の如きベールが垂れる。フランクには見向きもしない。透けるベールをなびかせながら、すぐ横を通り抜けていく。
「そのふたりはわたしのもとへと、お願いしていたはずですが」
この口調は変わらない。言葉がフランス語に変わっても、強い調子は変わらない。相手が実の母だというのに、どこか圧倒する口調。
「ジャクリーヌ」
伯妃が初めて言葉を発した。「ジャック」ではなく女性形の「ジャクリーヌ」。「姫」なのだから、むしろ当然。だが、こちらも母の優しさはない。欠片もない。
「あちらでは『ヤコバ』です」
ジャックははっきり言い切った。
「ホラント、ゼーラントの未来の君主はこのわたし、ヤコバ・ファン・ベイエレンです。エノーのジャクリーヌではなく」
「エノーのほうが重要です。貴女はエノーの君主となる身」
「ですから、こちらではジャクリーヌです」
「ならば」
このふたりは追い返せ。伯妃さまは無言でそう言っている。
「母上は『ジャクリーヌ』を育て、父上は『ヤコバ』を育てる。フランス語を話す『ジャクリーヌ』は順調に育っていますが、『ヤコバ』のほうは問題です」
ジャックの口調が柔らかくなる。
「だから伯にお願いしました。ホラント、ゼーラントの言葉ディーツを話す、教養ある女官が欲しい、と」
「それで、これ?」
伯妃さまはあきらかに、見下す口調。だが「ジャック」がきっぱり続ける。
「このオーデはゼーラントの有力貴族、ボールセレの奥方です。御自身も、由緒ある家の出身。見識ある方としてわたし自身がお願いし、ここまで来て頂きました。娘のエレオノーラ・ファン・ボールセレはわたしとは歳も近い。利発で明るい子のようなので、わたしも一目で気に入りました」
ジャックの言葉にほっとする。ノーラとは、ほんとはこれが初対面。「フランクの妹だから」というのが本当の理由だろう。ジャックがほんとに気に入ってるのは、「本好きのフランク」だ。そこのところは確信してる。
「まだ文句がおありですか?」
ジャックの言葉に伯妃さまは何も応えず、ぷいと席を立ってしまう。控えていた侍女たちが慌てて続き、広間から出て行った。あきらかに、母親の負け。
「母の無礼、すまなかった」
ディーツ語に切り替えて、ジャックは言った。
「あのひとは、いつもあんな態度なんだ。わたしともあんまり合わない」
そしてノーラの手を取った。
「わたしが欲しいのは話し相手だ。ディーツ語で話してくれる、歳の近い友だちだ。伯もそれは了解してる。母に文句は言わせない。だから、ここにいてくれるか?」
「喜んで」
ノーラがやっと笑みを浮かべ、フランクもほっとする。
「姫さまにお仕えできて、とても嬉しく思います」
「良かった」
そしてようやく振り返った。
「そしてフランク」
良かった。気が付いてないわけじゃ、なかったんだ。
「ふたりのことは、責任持ってわたしが守る。だからおまえはもう帰れ」
「え?」
これは軽い衝撃だった。この次は「城」でゆっくり話そう。こないだはそう言ったのに。だからこそ、ここまで来たのに。
「ジャンがヤキモチ妬いてるんだ。おかしいだろ?」
幼すぎる人妻は無邪気に笑い、フランクを追い出した。
「本の話」は全くなかった。あわよくば頼んでみようと考えていたことも、何一つ言いだせなかった。