3 祝杯
「フランク、よくやった」
上機嫌で父が言った。
ハーグから戻ったフロリス卿は、ビールのジョッキを傾けている。息子に座れと合図して、給仕のものを下がらせる。一族郎党が集えるこの城の大広間だが、普段は静かだ。父と息子。あとは暖炉の前の犬。夏だから、暖炉に火は燃えてない。
「『美人』だったろう?」
「は」
とりあえず、頭を下げる。
「は、じゃない。自分の言葉で言ってみろ。どう思った?」
「伯妃さまには、その」
「マルグリットさまに会えんのはわかっとる。こっちにおみえじゃないからな」
「『美人』と言われたのは、伯妃さまのことじゃないんですか?」
「ホラント伯妃マルグリットさまは十人中十人までが美人だと断言するが、実はあれこそコワイ女だ。文字通り、毒婦だな。麗しき毒使いが産んだ姫は」
言いかけて言葉を止めて、息子をじっと覗きこむ。
「『フランクの噂を聞いた』と言われた。お前じかに会ったんだろう?」
その姫から口止めをされている。
「甲冑姿で会ったのか?」
「それは、誰から……」
「誰でも良い。だが、着甲で鍛錬とは凄いな」
「は」
それはどうなんだろう、と思いながら、とりあえず頭だけ下げておく。鎧を着てひとりきりで練習していてさぼった、というのもなんだか妙だ。騎士の恰好で騎士物語が読みたかった、としか思えない。
「フランク、聞いてるか?」
「それより、おれの『噂』というのは良い噂だったんですね?」
「『人柄が良く、博識』だそうだぞ」
人柄が良く? 博識?
「それで、オーデはどうかってことになって話が決まった」
「話?」
「つまり、お前の母上は姫付の女官として、姫の居城、ル・ケスノワ城に移る」
「ル・ケスノワ? つまりエノーに? エノーといえば、ほとんどフランスじゃないですか!」
「母が恋しい年じゃあるまい?」
「それはまあそうですが」
十六にしてまだ親の城にいるというのも、確かにちょっと恥ずかしい。だが、見習いとして出された先で早々に主君に死なれてしまい、結局戻ってきてしまった。
「ノーラは寂しがるでしょう。ああ見えて甘ったれだし、母上にはべったりですから」
「ノーラも一緒に、と言おうかと思ってるんだが、どう思う?」
「本人は、なんと?」
「ノーラにはまだ何も言っとらん。それより、わしの聞いたことに答えろ。姫と話してどう思った? フランス語で話したのか?」
「ディーツです」
父の眼がきらりとする。
「最初から?」
「最初から」
ディーツ語で、誰だ? と言った。それで、城代の子だと思ったのだ。
「だから、姫とは思わなかった。可愛い子とは思いましたが、女の子とも思わなくて、それで……」
「なるほど。だからお前でもちゃんと話せた」
妹と同じことを言われてしまった。女の子とのおしゃべりはやっぱり苦手だ。
「印象は『可愛い』だけか?」
「高貴の方だ、と思いました。男の子だと思い込んでしまったので、てっきりトゥーレーヌ公、フランスの王子さまかと」
「トゥーレーヌ公は伯妃さまとご一緒だ」
父はまたビールをあおった。
「父上」
フランクは、膝を詰めた。
「母上を姫のもとに、はもう決定なのですね?」
「そうだ」
「本人さえ承知なら、ノーラも一緒がいいと思います。ノーラにも、きっと良い経験になる」
「わしもそう期待したい。ひとつだけ不安なのは、姫自身の性格だ。伯妃さまは相当に陰険だからな」
「ヤコバ姫は陰険じゃない」
ここは迷わず即答できる。
「少なくとも、警戒心は抱かなかった。頭を下げるべき方だ、とは思いましたが」
「『頭を下げるべき方』か」
父は真面目な顔になり、ふっと深く息をついた。
「お前まで、そう言うとはな」
「え?」
「あの姫が美人かと聞くと、十人中十人までがとまどう。ただ、あの姫にはどうしてだか逆らえない。あのお顔を見てしまうと、なぜか頭を下げてしまう。この姫にこそお仕えたい。誰もがなぜか思ってしまう。平伏すほどの美女というにはいくらなんでも幼いはずだが、妙にひとの心を捉える」
「高貴の姫だから、ではないんですか?」
「伯妃さまには、わしはむしろ楯突きたくなる。伯妃さまの女官に、という話はきっぱりと逃げてきた」
「それは、そのときは鱈につくおつもりがあったからでは」
「今回もそのつもりだった」
「父上?」
「だが、気が変わった」
「アルケル卿の要請は断る、ということですか? 我らは鱈党を捨て、伯の率いる釣り針党のほうにつく、と」
「ウィレム伯がわしに言われた。我らは鱈でも釣り針でもなく、ひとではないのか? とな」
「つまり?」
「鱈だの釣り針だの言ってないで、仲間割れは終わりにしよう。戦をすればひとは荒れ、海も土地も荒れるのだ。良いことなど何もない。伯にとっても我らにとっても、そして領民どもにとっても」
「では、伯はアルケル卿を許す、と?」
「それはさすがにムリだろう。けれど命は許すと言われた。ホルクムの町さえ明け渡すなら、二度と足を踏み入れぬと誓うなら、命だけは許すと言われた。ウィレム伯は寛大だ。過去を水に流せるお方だ。そうでなければ戦は終わらぬ。そして都市を破壊すれば、その全てを滅ぼせば、ホラント自体の首をも締める。鱈の力を認めたうえでのこの譲歩。このお方になら従える。アルケルはもう絶対勝てぬ」
都市は力をつけている。アルケルの町ホルクムしかり。ドルドレヒト、ゴーダ、ロッテルダム。そして北のアムステルダム。都市こそが富を生み、交易を興すのだ。
「あの男は勝てると思った。ウィレム伯にすら勝って、伯にとってかわろうとした。その傲慢がこの戦乱を招いたのだ。幾人死んだか考えてみろ。もともとこれは仲間割れで、敵も味方も大半が土地のものだ。無駄な戦としか言えん」
「伯妃さまは、『土地のもの』ではありません。姫の夫もフランスの王子さまで、土地のものとはいえません」
「伯妃マルグリットさまはフランス人だが、ウィレムさまはこちらの方だ。その眼はこちらを向いておられる。つまり、ホラント、ゼーラントの伯領。そして、その利益。だからこそ、後継ぎであるヤコバ姫には、こちらの言葉を話すホラントもしくはゼーラントの女官が欲しい、との仰せだ」
「なるほど」
「ジャック」の言葉を思い出す。先生はディーツの言葉を解しない。ラテン語フランス語に劣る、下民の言葉と蔑んでいる。だが、ウィレム伯はそうじゃない。
「では、『大戦争』のほうは?」
後には百年戦争と呼ばれる戦は、この頃まだ百年には至っていない。フランスの王冠をイングラントが要求して起こった戦。こう言うと侵略に聞こえるが、実のところは反対だ。フランス王家であるカペー家が「断絶」したとき、最期の王の姫が産んだ王孫がイングラント王として健在だった。現在のフランス王家は最後の王の甥、ヴァロア伯の子孫にあたる。ヴァロア伯は「サリカ法」というのを引っ張りだして家督を奪い、直系の孫をさしおいて王となった。「女は家督を継げない」という大昔の法律で簒奪を正当化して、ヴァロア伯家はフランス王家となったのだ。この時のフランス王はそのヴァロア家のシャルル六世。悪いひとではないらしいが、あたまがおかしくなっている。
「それは確かに不安だな。フランスは混迷してるし、イングラントは落ち着いてきた。いずれまた本格的に攻めてくる。だが、ウィレムさまについているならどう転んでも安泰だ。ウィレムさまはイングラント王室とも昵懇の間柄。栄誉あるガーター騎士団に入れて貰ったくらいだからな。浮気者のフランス王妃は信用ならん女のようだが、王子のひとりは手の内でもある。そしてヤコバ姫のほうには」
「女官として母上がつく。ならば」
「ヤコバ姫は我らのものとなられるだろう」
「姫はすでに我らのものです」
フランクはにっこりとした。
「我らの言葉で読書もされるようですよ。でも、満足に教えてくれるものがないとか」
「そうなのか?」
父が満面喜色を浮かべる。
「だから、オーデが欲しいわけだ。これはやはり祝杯だな」
機嫌よく腰を浮かし、手を鳴らして給仕を呼んだ。
「父上。ル・ケスノワへの移動には、護衛としておれも同行していいですね?」
「あ、ああ」
父は慌ててうなずいた。確かに拒む理由はない。
「そのあと、パリまで足を延ばしてきても良いでしょうか?」
「パリ?」
「ヤコバ姫がこちらの言葉を学ぶように、フランス語を学びたい。姫との会話、ディーツ語で話せたからこそ成功しました。フランス語であのレベルで話せたか、おれはやっぱり自信が持てない」
「姫はそこまでお上手なのか?」
「おれがひとことフランス語で喋ったら、フランス人ではないとバレます」
「そうだな。発音は重要だ」
父が低い声で頷く。
「わしもつてを探しておこう。だがひとつ言っておくが、武芸のほうも忘れるな。武勲を立てねば騎士叙勲は難しい」
「そちらもパリでも学べますよ。あそこには、諸国の武芸者もいるでしょうから」